このまえ、原作漫画の方を見た縁で「どこが変更されているか、ちゃんと比較しよう」という考えもあり、テレビ放送の「耳をすませば」ちゃんと最初から最後まで見ました。
思うこと感じたことはいろいろあったが、それはあとで雑感の箇条書き記事でも作ろう。
※このあと書いた
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それとは独立して、とっても驚いたこと・・・・・・・それがタイトル通りの話。
こんなにポリティカルにコレクトじゃない描写をしていいんかい……と。
それは、これ。

ポリコレというより、反コンプライアンス、としてもいいかな、と思ったけど「かけがえのない人命を守るために、交通ルールを破った危険な運転はしてはいけない」も十分にポリティカルであろうから、やはりポリコレでよろしいや。
で、まあそういうことで。
クッキングパパの荒岩課長が1巻では原付のノーヘル運転をしていたのは、当時はそれが合法だったからだが、
クッキングパパの一巻読んだら毎回ノーヘルで走ってるし、速度違反しか切符きられてないしもしや博多ってそんな感じなのかな pic.twitter.com/nU8s9aiOnU
— ゆう→G310GS (@125GROM) November 18, 2015
@125GROM 1986年から原付のヘルメット着用が義務となりまして、クッキングパパの連載開始が1985年なんでこの当時は問題無いです。
— うるふ☆ (@wolf_roadbuster) 2015年11月18日
@wolf_roadbuster ええー!昔は原付にヘルメット必要なかったんですか!びっくりです!
— ゆう→G310GS (@125GROM) 2015年11月19日
「耳をすませば」の二人乗りは、ジョージ・ルーカスの「俺の宇宙では音が鳴る」ぐらいの異世界じゃない限り、まあ法律に違反しているし、違反とかいうまえに、そもそも事故の危険が高まり、かけがえのない運転者や同乗者の命、安全を危険に晒す行為である。
(※ちなみに、明け方近くの、まだ真っ暗な未明の路上に、親権者の許可などなしに未成年者を誘い出し、行く先も告げずに乗り物に乗せて連れていく……って行為も、ちょっと法律的につついて転がすと面白そうなんだけど、詳しくないので後日のネタにとっておこう。詳しい人はわかりますかね?)
少し前、この種の
「物語上の犯罪行為の肯定的な描写などは、現実に悪影響を与える」という話で、ワンピースやルパン三世などは「海賊や怪盗は現実はマネしようもないからOKなのだ。身近な犯罪(性暴力など)はそうではない」
という議論があったが、「二人乗り」はマネしやすくはあろう。というか「耳をすませば」に憧れて二人乗りした人は……どこかにいるかもしれない。見渡す限り周辺にはいなさそうだが(笑)
今日の金ローは「耳をすませば」!誰もが自らの淡い青春時代を思い出し、甘酸っぱくも少し照れ臭い気持ちになると思いきや、よく考えたら自分の青春時代にこんな記憶は微塵もないと思い知り、枕を涙で濡らしながら眠りについたらいつの間にか月曜でまた仕事仕事の一週間が始まる「耳をすませば」だ!
— アサイ・1人でキネマよろしくね (@asumithi) August 26, 2022
※「木根さんの1人でキネマ」ジブリ回はこちら
木根さんの1人でキネマ 7本目 / アサイ - ニコニコ漫画
上の議論はこちらにて
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ただし・・・・・この映画は、一番重要なクライマックスのシーンで、たしかに違法で危険な行為を、描写している。それも、やはりおしなべていうと「肯定的に描写」している。
そうではない、という人はいないだろう。
しかし、これは主観の話だから、こっちは賛同も否定もあるだろうが、個人的な評価としてはとても「美しい」シーンである。
違法で危険……ポリティカル・インコレクトな描写、設定、シチュエーション、キャラクターであっても、それは「美」であることを妨げないのだ。
これは危険描写、残酷描写、性描写なども、おそらく含んでそうなのでありましょう。
…美であると否とにかかわらず、差別は差別なのだし、差別であると否とにかかわらず、美は美なのである。二つは別の価値観によるものなのだ。とすれば、二つの価値観による組み合わせは次の四つになる。
1:美しくて差別でないもの
2:美しくなくて差別でないもの
3:美しくて差別であるもの
4:美しくなくて差別であるもの。このうち最悪の組み合わせである4は特に擁護する値打ちはなく、 批判されても誰も反論はしないから議論が起きない。最善の組み合わせである1も誰も批判や糾弾はしないから議論が起きない。2も消極同士の組み合わせであるから目立つことがなくやはり議論は起きない。結局いつも3の「美しくて差別であるもの」だけに議論が起きる。
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そのため124を含む四つの判断の組み合わせがあること、すなわち二つの価値観の並立こそが議論の本質だということが見えにくくなっているのだ…(呉智英「サルの正義」より)
呉智英は十八番として、この歌を紹介することが多い
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(略)大学でこういうのを扱うときもいってるんだけどね、こういう、ある意味けしからんマンガなわけですよ。そういうものをどう考えるかっていうときにね、ふつう言論の自由とか表現の自由なんて言うけど、俺ね、そういうバカなこと言いたくないから(笑)、いつもね俺、本居宣長のこういうのを引用するのね(笑)。本居宣長の歌論、文化論ですね、うた論。
(歌の中には)
政のたすけとなる歌もあるべし、
身のいましめとなる歌もあるべし、
また国家の害ともなるべし、
身のわざわいともなるべしってんだよね。で、そういうものがあっても人間の真実が描かれているものは芸術であり文化であるって、本居宣長が言ってるんだよね。
そしてそれは、「政治的」には大多数の人間の最大利益=九十九匹の羊の安寧を妨げるかもしれないが、「文学」として、荒野にさまよう一匹の羊を救う。
「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)
(略)…天の存在を信ずることのでぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に看取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてもなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。
(略)……善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。
「壁ドン」は場合によっては、法律的な視点からは「暴行」「脅迫」になりえる。しかしそこに「美」を感じる読者(女性も多い)もいる。
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外形的には「誘拐」なんだけど、実は心が通い合ってた、なんて描写も…
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しかし・・・・・・・、世の流れは逆らい難く
つまりはこういうことでんな。
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過ぎた昔を恨むじゃないぞ。