既に来年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の番宣始まってるんだろうけど、「光る君へ」刀伊の入寇編以外は見てないこともあり、番宣もほとんど見逃していた。
タイトルの話に気付いたのは番組経由でなく、小学館の「学習漫画日本の歴史」を図書館で借りたからだった。2022年が初版の最新版だ。
ここにある。
これで、あっそうか!蔦屋重三郎と松平定信、田沼意次は同時代人だ!!とやっと気づいた次第よ。おはずかしい
www.nhk.jp
……蔦重は、貸本屋から身を興して、その後、書籍の編集・出版業をはじめる。
折しも、時の権力者・田沼意次が創り出した自由な空気の中、江戸文化が花開き、平賀源内など多彩な文人が輩出。蔦重は、朋誠堂喜三二などの文化人たちと交流を重ね、「黄表紙本」という挿絵をふんだんにつかった書籍でヒット作を次々と連発。33歳で「江戸のシリコンバレー」こと、日本橋通油町に店を構えることになり、“江戸の出版王”へと成り上がっていく。
蔦重が見出した才能は、喜多川歌麿、山東京伝、葛飾北斎、曲亭馬琴、十返舎一九といった若き個性豊かな才能たち。その多くは、のちの巨匠となり日本文化の礎となっていく。
しかし時世は移り変わり、田沼意次は失脚。代わりに台頭した松平定信による寛政の改革では、蔦重の自由さと政治風刺は問題になり、財産の半分を没収……
脚本家もいう_______
周辺も面白い。光と闇を抱え込む吉原の文化・役者の世界、跋扈(ばっこ)する伝説の泥棒、五千石心中、そして報われぬ天才・源内。その大きな背景には近づいてくる異国がある。成り上がり田沼意次(たぬま・おきつぐ)とサラブレッド松平定信(まつだいら・さだのぶ)、怪物 一橋治済(ひとつばし・はるさだ)がうごめくきな臭い政治の世界がある。そこに群がる有象無象や悪党たち。天災、思惑、野望、罠(わな)、暗殺、暴動、転覆!
では、キャストは?
www.nhk.jp
幕府“新時代”を目指す改革者にして、“絶対的権力者”
“あふれるアイデアで日本の未来を変える希代の天才”
俺が知りたい登場人物(そもそも登場するかを含めて)は、いまのところこの3人しか判明してない。
に、しても。
田沼意次も松平定信も平賀源内も、江戸中期の人物としては超A級の知名度があるわけだが、しかし「江戸中期」そのものが、やや苦戦なジャンルであろう。もちろん時代も曖昧、登場人物も曖昧な「明朗時代劇」「時代劇時代」なら江戸中期らしい光景が多い。
あるいは、A級を超えた超S級、あるいはマツケンの「M級」というべきか、「徳川吉宗」の名前を出せばポーンとエンタメにふさわしい格になるんだが、吉宗という名前を出すと、逆にどんなに隣接しても松平定信や田沼意次は出て来なくなるジレンマ。
そんなに詳しくないから100%の確信では言えないけど、彼らは今回が「大河ドラマデビュー」だよね??
※詳しい人の話では、「八代将軍吉宗」で田沼意次が、若き日の小姓姿で登場したとか。
それは、なんとも感慨深いことである。
そして…皆が思うし、皆が思ってなくても来年1年間はずっとこのブログが言い続ける(笑)が
故みなもと太郎「風雲児たち(無印)」の中盤のメインプレイヤーは、まさにこの田沼意次ー松平定信時代の「自由と統制、奢侈と倹約」を巡る政治劇、そしてそこに翻弄される文化人…(絵や小説の創作者でなく、科学者・政治思想家がメインだが)その姿だった。
ドラマで関係する話題が出たら、ことあるごとに「風雲児たち」を引き合いに出すのでよろしく、と断っておくのがこの記事の主題だ。
何しろ今年は半額セールで無印・幕末ともに電子書籍を購入し、どの画像でも引用可能なので隙は無い。
もっとも…
通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。
徳川黎明会徳川林政史研究所編著『江戸時代の古文書を読む―寛政の改革』においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が…
※後述
今回のドラマでも
田沼意次が創り出した自由な空気の中、江戸文化が花開き、平賀源内など多彩な文人が輩出…しかし時世は移り変わり、田沼意次は失脚。代わりに台頭した松平定信による寛政の改革では、蔦重の自由さと政治風刺は問題になり
という描き方がされるそうな。
これも超名作、参勤交代の道中をテーマにした「つらつらわらじ」も謹厳で融通の利かぬ定信を、「俗も聖も呑み込む懐深いお殿様(備前岡山藩がモデル)」と対比させていた
m-dojo.hatenadiary.com
「わしは正しい。備前公にも自分の正義があるのだろう。だが・・・」と、相手を認めているからこそ許せない、ことを示唆する
田沼意次が賄賂と腐敗と無能、松平定信が清廉と秩序と有能………という戦前史観というか、その前からの江戸幕府の公式な史観でもそうだったし、NHKでもかつては「天下御免」などでそういうステロタイプから描かれていたものを、
山本周五郎やみなもと太郎や、大石慎三郎らが物語の世界や学問の世界で逆転させ「自由と寛容の田沼時代、統制と不寛容の定信時代」とイメージの逆転に一部では成功した、それ自体が戦後の歴史界隈の一大偉業……ではある。
山本周五郎作品の著作権は満了し、すでに青空文庫でかなりの作品が公開されているが田沼意次を描く「栄花物語」は未公開だな
www.aozora.gr.jp
のだけれども。
その結果として、松平定信の描き方は逆のステロタイプ化が行き過ぎている感じがある。
togetter.com
基本的に相当に有能だったし、
実際に定信が身に付けていた朱子学的、儒教的な要素の強い政治思想で運営しないと救荒の囲米、七分積金など、「庶民の生活を(統制は別にして)安定させる、飢えさせない」という行政の方向には進んでいかなかったのではないか、と。
地方地方ではすでに「名君」がレジェンドも現役も含めて沢山いて、彼らも多くは儒教思想からの演繹によって、庶民の生活を安定させる「仁政」を試みていた。
それを老中として国政イッシュー、あるいは将軍が統治する江戸と関東のイッシューにしたのはやはり一つの功績であったろう、と思うのです。
こういう仁政を体系的な思想にするために、若き日の松平定信は、先輩の「賢君」にインタビューというか教えを熱心に乞い、それがネットワークになっていったらしい。
大名間の交際って昔は幕府が警戒したはずだけど、この時代はユルんでいたのか、吉宗の孫だから黙認されていたのか…
それでも、若き超高貴なプリンスである松平定信が「自分もあなたのような”賢君”になりたいんです、経験を教えてください」と頭を下げて話を聞きに来たら「ういやつじゃ」と、凄く好感を持たれたろうな。
その「賢君ネットワーク」についての詳細を知りたいところである。
あと「昌平坂学問所」設立は、逆に田沼意次の立身出世以上に、身分制度に風穴を開ける結果を生んだ。
(儒教を推し進めると、結局科挙(的な物)によって、身分制度が否定されるんだわ。)
結局、地頭もいいし、学問的な研鑽を積んだ秀才が集約されるから、その後の西洋文明も結局このグループが吸収の主力になった部分もあるのよ。
これは清、朝鮮も同じらしいが・・・・・・・・
また、この話はドラマで描かれるかもしれないけど、公の老中としては、蔦重の出版物や読本の作者、はては政治論集(林子平「海国兵団」)まで取り締まったけど、実は一個人としては文芸がとても好きで、自ら戯作や自伝エッセイなども多数書き残したのだった。
(働き盛りで老中を首になって、かなり暇になったし(笑))
で、どうなったかというと…
松平定信といえば朱子学狂いとの印象が強い。だが、実際の定信の主義思想は老中に就任する5年前に書かれた「修身録」にて、「朱子学は理屈が先に立ち、学ぶと偏屈に陥る」「学問の流儀は何でもよい。どの流儀にもいいところ、悪いところがあり、学ぶ側がいいと思えばいい。流儀にこだわるのは馬鹿の詮索だ」などとむしろ朱子学に批判的な意見を述べている。このことから、朱子学推進はあくまで官僚の統制に利用しただけで、むしろ本人の主義思想は朱子学ではなく、当時流行していた折衷学派の思想に近く、通説における朱子学を盲信する人物像と乖離した実像が見てとれる[39]。
また、寛政の改革では、卑俗な芸文を取り締まった定信であるが、私人としてはこうした芸文を厭っていたわけではなく、むしろ好み楽しむ一面を持っていた。例えば、『大名かたぎ』(天明4年頃)という大名社会を風刺した戯作や『心の草紙』(享和2年自序)など、自ら執筆した黄表紙風の未刊の戯作が存在する[40]。また、長じて執筆した膨大な随筆類には、市井の話題を熱心に取り上げるなど、公私で矛盾した一面があったものの、為政者としての立場から世情を理解しようとする側面が見える。
定信は当時はまだ庶民の物とされていた浮世絵を収集しており、老中退任後、愛蔵した浮世絵の詞書(前書き)を上巻は「田沼こひしき」と揶揄した大田南畝、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝といった処士横断の禁の際に処罰されたものへの依頼し、さらには、北尾政美、山東京伝に依頼し両名の合作で「吉原十二時絵巻」を製作させている。これは「十二時(昼間)の遊女」をテーマとしており、この絵巻の吉原の時間の推移を追いながら表現して行く手法は、京伝が咎めを受けた洒落本「錦之裏」と全く同じ趣向であった。
定信は軍事関係の知識を中心に洋学に強い興味を持っていた。定信はオランダ語を学ぼうとしたものの、蘭書を読む域には達せなかったため、寛政4年に元オランダ通詞である石井庄助を、寛政5年に蘭方医である森島中良を召し抱えている。石井は定信より定信が収集した洋書の翻訳を命じられ、軍事関係の事項を抜粋した「遠西軍書考」を編纂している。石井は寛政6-7年に「蘭仏辞典」を訳しており、これに稲村三伯らが手を加え、日本最初の蘭日辞典である「ハルマ和解」が完成した。寛政元年、北方の地理やロシアについての情報を得る為、「ニューウェ・アトラス」という地図を入手しオランダ通詞の本木良永に訳させている。さらに、田沼時代の幕府に折る改暦事業を引き継ごうとして、寛政3年には自らが所蔵する天文書をこれもまた本木良永に訳させ寛政5年に幕府に献上している。自然科学についての関心も深く、ガラス製のリユクトポンプ(空気ポンプ)を作らせ、鳥などを入れて空気を出し入れすることで、生き物にとって空気が不可欠であることを証明する実験を行っている。洋画収集を趣味として持っており、亜欧堂田善に洋式銅版画の技術を学ばせている。これは地図など海防上での利点の効果も期待していた。他にもトランペットの模造や「蛮国」製の万力の模造品を作らせ浴恩園にて操作させている。軍事本ではないが、オランダの植物学者ドドネウスが書いた草木譜CRVYDT-BOECKの翻訳を石井当光,吉田正恭らに全訳を命じ「ドドネウス草木譜」を作らせている[23][24]。
ja.wikipedia.org
おまけでもうひとつ。彼は極めて優れた格闘家であり、柔術には彼の編み出した「定信スペシャル」とでもいうべき技もある!という!!
大名ながら起倒流柔術の鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3000人といわれる邦教の弟子のうち最も優れた3人のうちの1人が定信だったと伝わる。自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した
起倒流柔術って、そのへんの有象無象の流派じゃないよ!! 講道館柔道にダイレクトに繋がる実戦武術だよ!!!(各自調査)
しかし、
公の発言では「庶民文化」「西洋かぶれ」を取り締まれ!!と言ってたけど、
実は読んでみるととても面白く楽しく、大好きだ…って、げんしけんの荻上かよ(笑)
だからね、実は大河ドラマを離れて…
「それからの武蔵」という、巌流島の決闘を終えた後の武蔵を描く作品があった。
「それからの海舟」という、これはノンフィクションだけど、明治維新以降の勝海舟を描いた半藤一利の本があった
こんな感じで「それからの定信」という、老中罷免後の松平定信の、上のような文芸や西洋知識への愛憎半ばな意識なども含めた話を読んでみたい気がするのです。
そしてそれは
「べらぼう」でも描かれる可能性はあるぞ、と期待しておく。
もっとも、それを言うまでもなく上でがっつり引用、依拠した「ウィキペディアの『松平定信』記事」そのものが相当に面白いのである。
これ、いわゆる「ウィキペディア文学」傑作の一本として推薦しておきたいんですけど、いかがでしょう?
ja.wikipedia.org