INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

次回、ウィッチウォッチとスケットダンスがクロスオーバー【漫画小ネタ集】






まて、おいら最後に大コマで早乙女ロマンとヒメコ出てきたから解ったけどさ、ほかというか出席者全体が関係者、という構成であること気付かなかったわ。
結婚式がロマンやヒメコの知り合いってことかー、面白いけど取ってつけた感あるな、とか思っちゃった。

スケットダンスとウィッチウォッチが次回コラボ

ちなみにメインの「映像取り違えたけど、結果的に話がうまくつながって誤解されたままになる」ってギャグ、落語などの類似例で考えれば十分水準以上ではあるんだけど、本気で考えたらごくわずかに解消し切れない矛盾もなくはないわな。(さすがにそれを欠点とすべきではないけど)


にしても、このおかげでずっと,過去に書いた早乙女ロマンの紹介文記事に来訪者が絶えない。
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星逃田」が彼女の先輩として存在する、という指摘(こじつけ)をしてるのはここだけだろうからな(笑)



なお、当方はこういうネタの研究者というとおこがましいが「コレクター」であり、過去にこういうコレクション陳列棚を作っている。
こちらも興味あればご覧ください。あと、ほかに新情報あったらください。
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同一作者だけでなく、もちろん別の作家によるコラボ、というのもあって、そっちも時々紹介しています。
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伝説の「ゴッチですよ!(合唱)」「やってもいい?」を追体験せよ…NHK『明鏡止水』が(再び)配信開始

本当は地上波放送の時もお知らせすべきだったが、すまんかった。8日まで現在視聴可能の、NHKプラスの配信URLをお知らせする。

明鏡止水~武のKAMIWAZA~ 柔術温故知新

2/1(水) 午後11:00-午後11:29
配信期限 :2/8(水) 午後11:29 まで

共有

公式サイト
格闘技界を席巻するブラジリアン柔術に注目!▽驚異!王者クレベル・コイケ三角締め▽84歳の達人・石橋義久が一度に3人を倒す神業を披露▽秘伝を特別公開!大東流合気柔術の「返し技」▽技のおもちゃ箱!早川光由の華麗な寝技▽岡田准一VS.柔道金メダリスト松本薫の組み手争い▽トリンドル玲奈がロールエスケイプに挑戦!▽達人列伝は「柔道の神様」三船久蔵


https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023020127566

ただ、いまだによくわかんないんだが、今回初回放送扱いになっているのに、番組自体は間違いなく昨年11月放送のものと同じなんだわ。
まあ「アナザーストーリーズ」もそうで、NHK内部の「再放送扱い」「初回放送扱い」に何やら複雑なルールがあるみたい。ただ、初回放送扱いだから配信もしてくれるわけで、問題はないさ。

で、その昨年11月の時に見どころを記事にしてた、すでに。
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(略)‥‥松本薫が、柔道流の裏技として、相手の亀を崩すときに「グリグリ」をします、といったら、岡田准一とケンドー・コバヤシが本当にハモるように声をそろえて「ゴッチじゃん!」と。
そもそも連想する段階ですげーよ!!それを一般向けの放送で発するのもかなりすげーよ!

骨で相手をえぐる技を「ゴッチ式」と喝破する岡田准一

(後略)

※配信で、放送開始後10分30秒参照



(略)…岡田准一は番組の流れの中で、ブラジリアン柔術早川光由、柔道の松本薫の組手などを受ける役を演じるわけだが、そこで相手の技を受けて「ヒャッ、やられたッツ、なんともすさまじい!!」という感じで次のテイクに行けばいいのに、秘技で松本薫の、袖の縫い目にそって指を絡めた、必殺の組手を切ってしまうなど、だいぶ対応してしまうのである(笑)



その結果、笑顔で「うわー(岡田さん)強い!(組手切られて)くやしい!」とか言ってた松本薫はその表情のままどこかを振り返り

「やってもいい?」とか言い放つ(後略)

※配信で、放送開始後21分30秒参照

岡田准一を)やってもいいですか?と尋ねる松本薫NHK「明鏡止水」柔術回)

よく考えたらテロップ「殺ってもいいですか?」とすべきだったかもだ。

あと、2022年の「配信」では権利の都合でカットされています、とテロップのあったRIZIN映像が使用可能になってました。

なお「岡田准一と武道」については以下を参照のこと

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【新書メモ】「承久の乱ー日本史のターニングポイント」(本郷和人)紹介。当時はマイナー題材への果敢な挑戦でした…

最近読んだ新書などを、ざっくりまとめるシリーズ。

※あまり構成を工夫せず、メモ的に書いていきます
※音声入力するので、誤字など放置の方向で。



承久の乱ー日本史のターニングポイント」本郷和人

『日本史のツボ』(文春新書)、『ヤバイ日本史』などで知られる人気歴史学者が、専門である鎌倉時代を舞台に、満を持して取り組んだ意欲作です。本郷さんは鎌倉時代の基本史料『現代語訳 吾妻鏡』の編者の一人でもあります。

誰もが日本史上の重要トピックとして覚えた経験はあるが、敗れた後鳥羽上皇隠岐島島流しにされたこと、北条政子の演説で鎌倉武士がひとつにまとまったことくらいで、実はよく知られていない「承久の乱」。

そもそも後鳥羽上皇はなぜ幕府に戦いを挑んだのか?
「錦の御旗」を敵に回して勝利したリーダー、北条義時はどんな人物だったのか?

それを理解するには、後鳥羽上皇が歴代天皇のなかでも指折りの文武に長けたカリスマだったこと、そして頼朝以降の鎌倉幕府で繰り広げられた、血で血を洗う「仁義なき政争」を知る必要がある、と本郷さんは説きます。

さらにこの戦いは、朝廷と幕府の関係を決定的に変えました。以後、明治維新までのおよそ六百五十年間、武士が日本の政治を動かす時代となったのです。まさに承久の乱の起きた一二二一年こそ日本史の大きなターニングポイントといえます。

日本史ブームの中、第一人者による決定版の登場です。

主な内容
鎌倉幕府の正体は「頼朝とその仲間たち」
・まったく異質だった武士の殺生観
上皇の絶大な経済力
・北条氏よりも優遇された比企氏、平賀氏
・なぜ源氏将軍は三代で絶えたのか?
・血で血を洗う闘争に勝ち残った北条義時
・武士の切り崩しに成功した後鳥羽上皇
・実朝暗殺の“仕掛け人”は?
・戦いの本質は「在地領主vs.朝廷支配」だった


承久の乱ポイント。
朝廷から武士の時代に。このあと650年続く
東が初めて西を制したケースである

それほどの大事件なのに映画やドラマでも取り上げられたことがない(この本は2019年刊)

軍事的には鎌倉幕府の圧勝だった
だから見所は戦争が起きる前段階
承久の乱後鳥羽上皇から仕掛けた
結果から見ると無謀なように見えるが、後鳥羽上皇天皇家の歴史の中でも傑出した能力の持ち主。
鎌倉幕府は源氏の将軍が途絶えた状態。それでも勝利したのはなぜか?


※上の話も含め、2022年に大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でまさにこの時代が描かれたことにより様々な状況が一変している。
特に歴史上の事実関係(粛清と暗殺を巡る固有名詞)については個人的に、かなりドラマによって新情報を得た。よってこの要約も、その部分は大幅に省略する(笑)

結果、理論の部分を大目に収録する。


源平の戦いは源氏と平家というだけでなく在地領主 VS朝廷政権と 見た方が分かりやすい。

頼朝が富士川の戦いで勝利しても京都に進撃せず、関東に止まってその支配を固めたことが決定的に重要だった。これによって上記の構造を確立した。

時に当時の武士は本当に野蛮である。鎌倉時代後期に「男衾三郎絵詞」という絵巻物があり、主人公は架空の存在だが物語内の設定はリアルである。
その中に「馬庭の家に生首絶やすな」「門外通らん乞食、修行者めらは…駆けたて追物射にせよ」という言葉がある。
侍の家には、基本的に生首がなければいけないものである。無いなら通行人(の下層階級)を適当に弓で打て…これが当時の武士のたしなみ(笑)

ただしさすがに強いだけの乱暴者だと武士とはよべない。
どう分類すべきかと言うと国司が任期中に行う「大狩」 という狩猟行事に招待される人間が正式な武士。それで、乗馬技術や弓の技術も必須となる。

ある時外国人の研究したに「御家人というのは何人いたのか」ときかれ、そんな資料はないから必死で計算して推計してみた。だいたい千数百人ぐらい。年収はいまに直すと2000万程度。鎌倉幕府の中心にいたのは駿河、伊豆、相模、武蔵。例えば下野や千葉はその中に入らない。近いように見えて当時の千葉は利根川の支流が何本も流れて、別の地方と言うイメージがされていた。


(中盤は「鎌倉殿の13人」で描写された権力闘争と粛清のドラマを紹介している。ドラマのおかげで略す)

後鳥羽上皇上皇という地位や、鎌倉幕府の執権などを見るときに重要なのは、日本史の法則として「重要な人物がその地位に着けば、それに付随してその地位に重要な意味が与えられる。つまり人に地位が付いてくる」こと。藤原摂関政治もしかり。


摂関政治を終わらせたのは後三条天皇の荘園整理令。きちんとした手続きのない荘園は没収され、力の源泉である経済力が削られた。
そして天皇の荘園整理に対抗するには、上皇ほどの権威がなければいけない。

天皇が支配する国家が、公有地として荘園を接収しようという時、上皇が妨害する…というのもあまりに奇妙だが、現実としてそうだった。
そういう中で後白河上皇後鳥羽上皇が権力を結果的に持つようになった。


ちなみに後白河上皇は無能だったかしたたかだったか、という議論があるが。自分は無能説。成り行き任せで空手形を出して、私服を肥やすというだけの人だった。

後鳥羽上皇は逆に、歌人としても名高いが、武人としての能力も高かった。盗賊を自ら捕えて、赦免して部下にするということもあった。
相続者の途絶えた荘園を、自分の「内親王(娘)」に継がせた。内親王に継がせると、この当時は独身のままが多いので、結果的に親の自分の経済基盤となる。これによって財力を蓄えた。


そして後鳥羽上皇は自分の警護隊を称する「西面の武士」を編成。大物武士の大内惟義も加わった。近畿周辺の六か国の守護でもある。それが幕府に仕えつつ後鳥羽上皇の部下でもあると言う非常に微妙な状況になった。著者の本郷和人は、そんな重要な地域を支配していたのは、逆に朝廷から幕府に、大内をそこの担当にせよ、という要請があったとみている。

鎌倉幕府のタブーであった、幕府を通さずに武士に官位を与える、という行為も言葉上皇はし始めた。

この時期の日本史の見方として「権門体制論」と「東国国家論」の二つがある。ざっくりいえば、やっぱり天皇を中心に一つにまとまっていたよ、という見方と、幕府はほぼ独立した存在で相互に不干渉の自立した権力が東と西にあった、という考え方。本郷和人は東国国家論に近い立場だが相互に不干渉ではなく相互に干渉していながら、やはり二つの王権があったという。ちなみに学会では権門体制論が主流だと言う。


戦の推移も、 かなり端折りながらドラマでやったんで省略するけど、宇治川を突破した幕府軍がたった一か月で圧勝する。
後鳥羽上皇は責任を全部部下たちにに押し付けて(笑)、全面降伏のような院宣をだす。
ただ京都に進撃した鎌倉武士たちは、ほとんどその院宣が読めない(爆笑)



それはそれとしてなぜ後鳥羽上皇の軍隊は敗れたか。

京都の軍隊は、それを指揮する武士たちの、元々の郎党ではない。「大番」のために、各地から上京していた地方武士たちである。後鳥羽上皇派の守護が、地元に根こそぎ声をかけて動員したわけではない。だから士気も低いし、そもそも兵力が鎌倉軍に比べて少ないのである。

しかも後鳥羽上皇派の守護は、地理的な理由で西国が多い。だがこの時期の西国守護は、平家滅亡後に乗り込んできたいわば占領軍。これではやはり地元から動員することは難しくなる 。何代も前からその土地を支配してきた東国の守護達とは違っていた。

承久の乱のその後の影響としては朝廷から武力と権威が失われたということがある。


ただ面白いことにその結果、朝廷の「住民サービス」がクオリティ上昇(笑)。 だってそうしないと生き残れないんだから。「雑訴」と言われる細かい土地問題について裁定、解決するようになり、そのために能力優先で人材を抜擢した。

そして京都の占領支配(六波羅探題を務めた)によって、そういう 当時として先端の政治学を学んだ北条泰時は、 その良い面に学んで「御成敗式目」を作り出す。

結果的に 幕府と朝廷、どちらも「法による支配」「民を慈しむ”撫民”」を統治原理に組み込むことになる。結果的にはそんなポジティブな影響をもたらしたのが承久の乱であった。



ちなみに最後のあとがきで「承久の乱と言うマイナーなテーマは売れないと思われてるらしくて企画実現までにすごく苦労した。ある出版社では編集者は乗り気だったが偉いさんからてんでだめだと却下された…そんな中、文藝春秋の編集者さんは承久の乱でやろうよ、面白いよと、積極的になってくれたので、ついに20年来の夢が叶った!こんなマイナーな題材で新車を出してくれる文藝春秋の懐は深い…」と感謝感激雨あられ

2019年に承久の乱を新書にするのは、大冒険であったらしい(あとがき)

その3年後に、この時代がドラマ化され、本として十分にペイした……であろうから、めでたいハッピーエンドであった。


※なお本郷和人氏は、非常に著書も多くファンも多数いる売れっ子だが、その一方で 毀誉褒貶というか、かなりのアンチもいる様子。
そのへんは過去にも記事を書いたので、ご参照ありたい。

【新書メモ】「ドリフターズとその時代」〜既に”歴史”となった彼らの歩み、努力、そして葛藤とは

最近読んだ新書の内容を、とりあえずざっとまとめるシリーズ、第二弾です。


文春新書「ドリフターズとその時代」 笹山敬輔を紹介。

国民をテレビの前に集合させた男たち
視聴率五〇%を超えた「全員集合」はどのようにして生まれたのか。ザ・ドリフターズを気鋭の論者が舞台・演劇の視点から読み解く。


ドリフターズの起源は…と言うか芸能界そのものの母体は進駐軍クラブである。
にわかに需要の発生したこのジャズバンドには音楽家のみならず、高校生や大学生などのアマチュアも数多く参加した。
また彼らを斡旋する業者もここで経験を積み「芸能界」としてのプロダクションやマネジメント会社を立ち上げて行った。

そして占領が終わった後も1950年代に米軍基地などを中心に多数のバンドが活躍した。そんなバンドマンの中からドリフターズが誕生する。
バンドのメンバーは当時しばしば入れ替わったが、、そんな中でドリフターズに後のいかりや長介となる碇谷長一が加入する。

彼はギャグ大好きのコント志向であったが、一方で厳格な魚河岸の父に育てられ、ビシッとした「父性」を重んじる体質だった。
当時はどこの家庭も経験したかもしれない戦争、 父親の徴兵、空腹や貧困を経て、戦後の自由な空気の中でいかりやは映画や音楽を親しみ、ついにはパンドマンになることを目指して静岡から上京する。

米軍の前でも演奏し、その中で言葉が通じなくてもウケる、体を使ったギャグなどを試行錯誤の末身につけていた。


そしてメンバーの入れ替わりの激しいドリフターズにいかりやは参加、ギャグで頭角を現す。そこに加入したのがまだ10代の加藤茶
いかりやとの初対面を「あの顔に慣れるのに30年かかったね」と回想する。


当初は内気で、ステージで顔も上げられないほどだった加藤だが、ある番組で鼻の下にちょび髭をつけ自分を「カトちゃんです」と名乗ってから覚醒する。

どんどんドリフターズはギャグ重視となり、途中参入したはずのいかりや長介の「家長」体質もあらわになり、一部が分裂して「ドンキーカルテット」になるなどの幕間劇もあったが、 加藤といかりやは世代差を超えた友達感覚もあり、その分裂劇でも最終的に怒りやといっしょ2やることを選択する。

そして高木ブー 仲本工事荒井注が加わり ついにドリフターズの幕が開く。

特に加藤茶がアイドル的な人気も出て、グループを牽引する。笑いに関しては天才肌とも、相手のリアクションに対して受けが上手いとも、集団就職の若者代表的なイメージがあったとも言われる。


芸名はハナ肇が酔っ払いながらつけた、とも言われる。ひとつひとつに理由はあるらしいのだが「メンバーは誰一人納得していなかった」ものの、業界の大先輩から言われたらそれにせざるを得なかった。


ドリフは日劇にも出演し、そこで徹底的に鍛えられる。「リアクション」が重要だと言うこともここで学び 、舞台装置は大きな音が必要だとも知った。


クレイジー人気がやや低下したの同じ時期ドリフターズが急成長し、お笑いの世代交代を印象つけていた。しかしここでドリフターズ長く続く強烈なライバルが登場する。

それはもちろん「コント55号」。



ざっと書くコンセプトなのに、まだここまでで半分!志村けんも出てこない!!だが書きかけでまずUP。可能なら続きかきます。


【続き】

1960年代にテレビでは「演芸ブーム」が巻き起こり、それが終わったあと頭一つ抜きんでて生き残ったのがドリフターズコント55号。この二つには共通点と違いがあった。どちらも「テレビでは同じネタの繰り返しは通じない。次々新しいギャグを出さねばならない」ことに気づいた。だが、コント55号は浅草で培ったアドリブの才能があった。萩本欽一が言う…「コントには(スラングで)天丼、仁丹、丸三角という基本形があるのね。浅草の芸人はみんなそれを知ってるから「今日は天丼で」と決めて、何かの衣装と設定を決めればあとはアドリブでできる」。ドリフターズはバンド上がり、そんなことはさすがにできない。…そこで徹底的に稽古する仕組みをとった。
だから55号はレギュラーを 週に13本も持ったことがあったが、ドリフは絶頂期でも「全員集合」一本きりになる。

1968年にいかりや長介が長期入院したこともあり、この時期はコント55号が圧倒的にリード。そんな時に土曜夜8時…フジテレビ「コント55号の世界は笑う」という番組が30%以上の視聴率を取っている枠に、ドリフが殴り込みをかけることを TBS が決めた

しかし、ドリフで大丈夫か?やはりそれ以上の大物クレイジーキャッツでは?という不安の声は大きかったという。
この番組の一年半前、ドリフの裏方仕事を行う「ボーヤ」に一人の新人が加わる。志村康徳、のちの志村けんである。


志村の家もいかりやと同じくとても厳格で家庭の絶対君主である父親がいた。そんな厳格な父親がお笑い番組では唯一笑顔を見せた、というのが、志村が芸人の道を志す理由の一つだったという。その父親は40代後半で事故の後遺症があり、記憶障害を持つようになった。志村演じるボケたお年寄りはこの悲しい記憶も影響している。


志村は非常に笑いに貪欲、研究熱心で、ドリフ以外にも多くの喜劇を浴びるように見て吸収していった。というかもともと、ドリフのメンバーになるということは想像もできなかったので、ドリフでは笑いの作り方を勉強してその後独立することを考えていた。ドリフの付き人時代も、高校生からそのままボーヤの生活では社会経験が足りない、それがコントなどの幅を狭めることになる…と考えて1年分”脱走”して あえて様々なバイト経験をしたという。
それを終えて、なんとかもう一度ドリフに戻りたい、と謝罪した時、いかりやは「2度も弟子入りするぐらいだからよくよく好きなんだろう」といったという。復帰後の志村は加藤担当となり、加藤茶宅の居候になった。

そんな何者でもない志村の名前を、最初に知ったのは萩本欽一だ。
彼はテレビのスタッフから「毎週、うちのところに来てコント55号の台本をもらっていく新人がいる」と聞いていたのだ。そんな熱心な若者がいると…


そんな中全員集合がいよいよ本格的に始まる。
本格的な舞台美術(それが崩れるなどの仕掛けもある!)、山本直純(後に弟子のたかしまあきひこ)の音楽、有名芸能人がコントにも参加するという、当時としては無謀な企画……これによってコント55号を猛追する。放送8ヶ月でコント55号の番組は視聴率的に破れていき、土曜8時から撤退した。

コント55号自体も2年間の絶頂を追え、レギュラー番組が次々と終了、 コンビも単独の仕事が増えていく。プライベートでコント55号とドリフは仲がよかった。しかし笑いの真剣勝負であったことも間違いない、と著者は言う。

その後「8時だよ全員集合」は加藤茶の交通事故(自分も怪我したが加害者側であった)、一旦番組が日本テレビに移る(そんなことがあったんです!)などの紆余曲折を経ても、50-30%というとんでもない視聴率を確保していた。 ちなみにオープニングのおなじみの曲は、この再開の時から始まったそうだ。

1977年にいかりやは事務所を設立してナベプロから独立。番組内でも、いかりやを中心にしてドリフが1からギャグを作る仕組みが始まった。いかりや長介の「家長」気質がいい方向にリーダーシップを持った一方で、番組内には緊張感と言うか重い空気が流れ、いかりやと加藤茶の衝突も生まれるようになった。(それまでは加藤のアドリブに笑いを任せていたが、台本にはめ込む形式になっていたのだ)


しかしドリフの快進撃は続く。加藤茶も「すんずれいしました」「ちょっとだけよ」 などのギャグが大うけ。ただし厳しいいかりやにメンバーの不満が溜まることもつづく。
そして荒井注が、体力の限界を理由に脱退。そして志村けんが新メンバーになる。


最初の一年は全く勝手が分からず受けなかった志村けん
おまけに裏番組として「欽ちゃんのドンとやってみよう!」が始まる。テレビの鬼だった萩本欽一が「これからは素人の笑いだ」と開眼、コント55号とは全く別のコンセプトで始めたこの番組はあっという間にドリフに肉薄していく。

この時ドリフは何と番組を3ヶ月「休養」させ、戦略を練り直して合宿特訓する。
この時、他のメンバーと違って音楽バンドマンの経験のない志村けんに合わせて、コミックバンドたることを諦め純粋なコント集団になることを決意した、ともいう。


そして1976年3月「東村山音頭」で志村がついに大ブレーク。ドリフ黄金期が始まる。



それを支えたの が「TBS 美術に不可能はない」と豪語する舞台セット。
何しろ本物の車が飛び込んできて落ち、なんて設定まで実現化したのだから…屋台が崩れるオチも下手したら大事故。責任者は毎回胃痙攣を起こしていたそうだ。この仕掛けなどはドリフと美術スタッフがアメリカのディズニーランドから歌舞伎まで視察しいいものをどんどん取り込んでいった。

加藤から志村への主役交代…加藤はもちろん内申のライバル意識もあるんだが、結果的にはかなりスムーズに進んだと言っていい。それはやはりバンドマンというものが、全体の調和を考える性質があるからでは、と著者は考えている。いかりやもそれを守る立場に立つ。


ヒゲダンスやカラスの勝手でしょ、なども大ヒット。(この時加藤茶はギャグに恵まれずかなりきつかった時期。志村が動きだけのヒゲダンスを提案し救われたと回想)

これは志村が当時はかなり珍しい黒人音楽…ソウルやディスコに造詣が深く、最先端を吸収していたからだそうだ。ヒゲダンスのもと曲「Teddy」が、アメリカでリリースされ3ヶ月後にもう導入したという。
いかりや長介離婚、志村と仲本が競馬のノミ行為に参加するスキャンダルや、「俗悪番組」と批判されつつも……


しかし1980年代、新たなチャレンジャー「オレたちひょうきん族」が登場。
萩本欽一が「漫才ブームの後に日本の大衆の笑いの質が変わる」と予言していた、それが実体化した…

言葉の笑いに重点が移り、芸人がカリスマとなり「笑われる存在」ではなく「笑わせてやる存在」になったそんな時代の変化に全員集合は抗い続け「家族みんなで見てもらう笑い」にこだわる。

一方でドリフは高齢化し、売りの動きも悪くなる。50歳になったいかりや長介は体力的な疲れもあり、これまでのようにすべてをひっぱっていくのは無理…と言いつつも、そうでなくなればやっぱり面白くないという複雑な思いを抱く。 志村けんも逆に、今夜ドリフのエースとして自分の意見をまげない状況が増えてきた。報道などでもドリフ内部の葛藤や確執が取り沙汰される。


だが傍から見てると「二人は似た者同士」「親子喧嘩」にも見えていたのも一面の事実。それは志村けんが後に自分のコント集団の「座長・家長」であり続けたことからも見える。


1985年、全員集合はまだまだひょうきん族と互角の戦いをしつつも終了。
5人はそれまで認められなかった個人活動を行う事も決めた。

最終回のED「ババンババンバンバン」の締めは「また来週!」ではなく「長い間ありがとう!」であった。


その後、それぞれは独自の活動に乗り出す。
いかりや長介独眼竜政宗で老臣を演じるなどしたが、まだこの時期は台詞だけで精一杯。役者としての開花はもう少しあととなる。

仲本工事高木ブーはドラマや舞台俳優として活躍。




志村けん加藤茶は土曜8時に再登場、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で、土曜8時ひょうきん族にリターンマッチ。時代はバブル、膨大な制作費用をかけて志村のイメージを具現化する豪華なコントが実現した。一方でyoutuberの元祖と言われる、視聴者投稿ビデオコーナーが世界中に真似され、今に続く笑いの潮流となった。


そして「バカ殿様」の大ヒット、だいじょうぶだぁと、志村は喜劇王への道を歩み始める。
そして前述したように、番組制作の形は志村の絶対独裁、徹底したコント稽古……といかりや長介そっくりに(笑)。

その愛憎のもつれは、この時期に同じ番組(ドリフ大爆笑)に出演しながらも共演NGという事態にもなった。

それでも90年代にはドリフ再集結のコント番組がうまれ、この愛憎を抱えながらの関係が続いた。1995年、いかりや長介64歳、志村けん45歳……志村けん死亡説、というデマが流れる不思議な事件もあった。ただそれは、志村けんの人気も当時低下し、テレビの露出が少なくなっていたことも影響している。

1997年、いかりや長介はドラマ「踊る大捜査線」での和久平八郎役が高い評価を受け、俳優としての地位が揺るぎないものになる。他のメンバー音楽活動も再開した。1999年は富士フィルムのお正月 CM で荒井注も加わった6人ドリフが揃い踏みしている(その3ヶ月後に荒井注は逝去)。

そして2004年、いかりや長介が癌で亡くなる……。出棺する霊柩車には「オイッス」「次行ってみよう!」の声がかかった。

その後、志村けんはコントの大衆演劇化という夢にのり出し、多くの後輩芸人ならリスペクトを受ける喜劇王になり……そして2020年、コロナで突然の別れをつげた。



そんな、ドリフターズとその時代…(了)

コロナは減少してるけど「〇〇したから減った」の手ごたえないよね…

www3.nhk.or.jp

www.sankei.com

www3.nhk.or.jp



減ったー。けどさ、なんでかね?〇〇をしたから減少した、的なことを考えると…「増える時期が過ぎたから、減少した」としか。


たとえば「今コロナが減っているのは、岸田政権の対応が適切だったからだ」とかも「岸田政権が適切に対応すれば、死者はもっと少なかった」も、全部あまり証明できそうにない。


マスク着用も効力あると思うし、ワクチンは言わずもがな……だがそれでも、何となく今回「増える時は増えるし、それが過ぎて減る時期になれば減る」的な感じで、政治が何をしても、何をしなくても変わらんのかもしれん……と思ったりもする。

また新型株が入って、新しい波が来るかもしれないが。

コロナ減少

ANAの「羽田空港第2ターミナル、大型デジタルサイネージ撤去へ」でSNSがプチ騒動。

その反応
※このリンクはかなり早めに無効になります。上のツイートの「引用リツイート」を見た方がいいかも?(あとレス部分)

https://twitter.com/ANA_travel_info/status/1619832892120522753/retweets/with_comments


自分の感想というか提案。

もし費用が問題なら「ここにうちが費用負担で設置します!代わりに広告入れさせてね?or名称にうちの企業名入れてね!」が可能では。サムスンとかファーウェイとか(笑)


どうなんだろうね?そもそも「コスト負担が撤去の主な理由」なのかどうかもわかんないしさ。


【新書メモ】「戦国日本の軍事革命」〜なぜ16世紀に戦は変わり「天下人」が生まれたか?

最近読んだ新書の内容を、とりあえずざっとまとめるシリーズというのを始めてみたいと思います。

個人的に、普通に書評を書くと、どうしても面白い所に集中し、そこで膨大に書いて全体像を書ききれないことが多かった。
それはそれで意味があるが、全体的にメモしておきたい本もある。そういう風に使い分ける。


音声入力を使うので誤字脱字も多くなるかもしれません。

それでは中公新書「戦国日本の軍事革命」(藤田達生) 要約します。

16世紀中頃、戦国日本に伝来した鉄炮。砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人により国内に広まると、長槍や騎馬隊が主力だった戦場の光景を一変させた。さらに織田信長は検地によって巨大兵站システムを整え、鉄炮の大量保有を実現。鉄炮や大砲を活用する新たな戦術を野戦・攻城戦・海戦に導入し、天下統一へと邁進した。軍隊や統治のあり方をも変えたこの「革命」が豊臣秀吉徳川家康と引き継がれ、近世を到来させるまでを描く。

日本において軍事がが歴史学の重要分野となったのは比較的最近、1990年代から。
それまではいろいろな理由によって、忌避されがちであった。

軍事革命というのはヨーロッパでも日本でも確実にあった。
それは一言で言うと銃の発達である。

10が発達するとどうなるか。
ぶっちゃけで言うと戦争が完全決着する。

槍や刀で戦っているときはなんだかんだと相手を完全屈服させるのが難しく、それが前提だった。種子島の一斉射撃によって、相手の根拠地を学情させ完全させるようになる。

ただそのためには種子島と弾丸と火薬を膨大に準備しなければいけない。
そのためには最終的には海外との貿易ルートが必要だった。

特になまりと硝石は、当時海外からの輸入が必須だった。

ちなみになぜ弾丸は鉛でないといけないか

・比重が大きい。だから空気抵抗に強い。
・柔らかいため着弾した時弾頭がキノコの傘のような形になるマッシュルーミングという現象が起きるこれによって相手に大きなダメージを与えられる。
・融点が低いから兵隊たちが手作りできる。鉛が手に入らないため銅や鉄玉を使うところもあったが、これは当然鍛冶屋さんじゃないとできない。また、銃ごとのの口径の微妙な違いや、火薬のカスが付いた後にそれによって口径が縮まることにも対応できる。

なぜ戦国時代の銃弾は「鉛玉」でないといけなかったか(戦国日本の軍事革命

今鉛のルートは、古戦場から掘り出した魂の元素によって判明する。タイの鉱山から取れた鉛が古戦場の弾丸から出てくるなんてことは珍しくない。

朝鮮半島から朝倉市一乗谷広島県を経由して入ってくる鉛などもある。

織田信長が朝倉家を滅ぼし、柴田勝家が越前支配したのは鉛の輸入に関して大きな意味があり、後に武田氏や北条氏が鉛不足になるのもここが関係しているようだ。

逆に、紀州一揆が起こると、そのルートから雑賀衆にタイ産鉛が入る…などの現象も起きる。

そうやって銃撃戦が戦場のメインになると、要塞攻略戦も「付け城」とか、「仕寄せ」と呼ばれる塹壕戦が主流になってくる。すなわち大規模土木工事こそが重要になる。これもまた金のかかるため、大大名に有利なようになった。

本書では付け城攻城戦について詳しく例を挙げ説明している


当時、伊賀甲賀から雑賀宗まで、高度な自治と平和を保つ地域勢力があった。
その一方で彼らの多くは傭兵である。と言うかむしろ、安心して傭兵として外で戦争ができるようにするために高度な自治が地元で発達したんだ。

とすると、天下統一は必ずしもミクロ的な平和や安定を意味しない。日本全体が戦乱状態だからこそ、平和や自由を保てる地域勢力はたくさんあった。ここを誤解しがちである




こうやって大大名になる巨大な軍事動画作られてくると、軍法もかなり緻密で厳しいものになる。要は動員した国衆等に対して 統制力が強まった。

それは軍法が成立し、勝手気ままな略奪などが使用は禁止されるようになったこととも繋がっている。抜け駆け禁止なども厳しくなった。



そして信長は1580年に大阪本願寺を撤退させて、近畿地方に敵対的勢力のいない状況を成立させた。そして一国単位の「仕置き」を行うようになった。「一職」という。荘園、寺社、国人…などの複雑な領有関係の重複を解消させたのだ。

ちなみに信長はこの革命において、銭でなくコメ単位で経済力を定義する石高制を採用。

後退したように見えて、輸入通貨をはじめとする様々な通貨の流通と変換ルートを、日本全国どこでも取れる米によって統一、安定した「通貨」として流通させる効果があった。


そして天下人のしたの家来は「知行地」を与えられ、それはどんどん別の時に交代するのが当たり前になってくる。その土地土地を独自に支配していた、は関係なくなってくる。在地性の否定。


そしてそういう支配システムの確率は、より巨大な軍事動員が可能となり兵站も巨大になった。


こういうシステム変更を実現するにあたっては大規模な「検地」が必要となり、それは増税だから地元の小規模地主=地侍にとっては大変な反発をうんだ。
逆にその反発する抵抗勢力をすりつぶすことで「織田・豊臣の統一戦争」は完成したという。武田や朝倉との大名同士の戦争よりある意味重要だったかもしれん。



これはやはり近畿や東海地方を中心に発達したもので、その結果として伊達政宗の軍隊と蒲生氏郷の軍隊を比較するだけで、政宗軍の軍律などはかなり古いものだった、という指摘があるある。


他、島原の乱や、江戸の平和が来てからの 軍事体制についても興味深い話が多かった。