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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

【新書メモ】「ドリフターズとその時代」〜既に”歴史”となった彼らの歩み、努力、そして葛藤とは

最近読んだ新書の内容を、とりあえずざっとまとめるシリーズ、第二弾です。


文春新書「ドリフターズとその時代」 笹山敬輔を紹介。

国民をテレビの前に集合させた男たち
視聴率五〇%を超えた「全員集合」はどのようにして生まれたのか。ザ・ドリフターズを気鋭の論者が舞台・演劇の視点から読み解く。


ドリフターズの起源は…と言うか芸能界そのものの母体は進駐軍クラブである。
にわかに需要の発生したこのジャズバンドには音楽家のみならず、高校生や大学生などのアマチュアも数多く参加した。
また彼らを斡旋する業者もここで経験を積み「芸能界」としてのプロダクションやマネジメント会社を立ち上げて行った。

そして占領が終わった後も1950年代に米軍基地などを中心に多数のバンドが活躍した。そんなバンドマンの中からドリフターズが誕生する。
バンドのメンバーは当時しばしば入れ替わったが、、そんな中でドリフターズに後のいかりや長介となる碇谷長一が加入する。

彼はギャグ大好きのコント志向であったが、一方で厳格な魚河岸の父に育てられ、ビシッとした「父性」を重んじる体質だった。
当時はどこの家庭も経験したかもしれない戦争、 父親の徴兵、空腹や貧困を経て、戦後の自由な空気の中でいかりやは映画や音楽を親しみ、ついにはパンドマンになることを目指して静岡から上京する。

米軍の前でも演奏し、その中で言葉が通じなくてもウケる、体を使ったギャグなどを試行錯誤の末身につけていた。


そしてメンバーの入れ替わりの激しいドリフターズにいかりやは参加、ギャグで頭角を現す。そこに加入したのがまだ10代の加藤茶
いかりやとの初対面を「あの顔に慣れるのに30年かかったね」と回想する。


当初は内気で、ステージで顔も上げられないほどだった加藤だが、ある番組で鼻の下にちょび髭をつけ自分を「カトちゃんです」と名乗ってから覚醒する。

どんどんドリフターズはギャグ重視となり、途中参入したはずのいかりや長介の「家長」体質もあらわになり、一部が分裂して「ドンキーカルテット」になるなどの幕間劇もあったが、 加藤といかりやは世代差を超えた友達感覚もあり、その分裂劇でも最終的に怒りやといっしょ2やることを選択する。

そして高木ブー 仲本工事荒井注が加わり ついにドリフターズの幕が開く。

特に加藤茶がアイドル的な人気も出て、グループを牽引する。笑いに関しては天才肌とも、相手のリアクションに対して受けが上手いとも、集団就職の若者代表的なイメージがあったとも言われる。


芸名はハナ肇が酔っ払いながらつけた、とも言われる。ひとつひとつに理由はあるらしいのだが「メンバーは誰一人納得していなかった」ものの、業界の大先輩から言われたらそれにせざるを得なかった。


ドリフは日劇にも出演し、そこで徹底的に鍛えられる。「リアクション」が重要だと言うこともここで学び 、舞台装置は大きな音が必要だとも知った。


クレイジー人気がやや低下したの同じ時期ドリフターズが急成長し、お笑いの世代交代を印象つけていた。しかしここでドリフターズ長く続く強烈なライバルが登場する。

それはもちろん「コント55号」。



ざっと書くコンセプトなのに、まだここまでで半分!志村けんも出てこない!!だが書きかけでまずUP。可能なら続きかきます。


【続き】

1960年代にテレビでは「演芸ブーム」が巻き起こり、それが終わったあと頭一つ抜きんでて生き残ったのがドリフターズコント55号。この二つには共通点と違いがあった。どちらも「テレビでは同じネタの繰り返しは通じない。次々新しいギャグを出さねばならない」ことに気づいた。だが、コント55号は浅草で培ったアドリブの才能があった。萩本欽一が言う…「コントには(スラングで)天丼、仁丹、丸三角という基本形があるのね。浅草の芸人はみんなそれを知ってるから「今日は天丼で」と決めて、何かの衣装と設定を決めればあとはアドリブでできる」。ドリフターズはバンド上がり、そんなことはさすがにできない。…そこで徹底的に稽古する仕組みをとった。
だから55号はレギュラーを 週に13本も持ったことがあったが、ドリフは絶頂期でも「全員集合」一本きりになる。

1968年にいかりや長介が長期入院したこともあり、この時期はコント55号が圧倒的にリード。そんな時に土曜夜8時…フジテレビ「コント55号の世界は笑う」という番組が30%以上の視聴率を取っている枠に、ドリフが殴り込みをかけることを TBS が決めた

しかし、ドリフで大丈夫か?やはりそれ以上の大物クレイジーキャッツでは?という不安の声は大きかったという。
この番組の一年半前、ドリフの裏方仕事を行う「ボーヤ」に一人の新人が加わる。志村康徳、のちの志村けんである。


志村の家もいかりやと同じくとても厳格で家庭の絶対君主である父親がいた。そんな厳格な父親がお笑い番組では唯一笑顔を見せた、というのが、志村が芸人の道を志す理由の一つだったという。その父親は40代後半で事故の後遺症があり、記憶障害を持つようになった。志村演じるボケたお年寄りはこの悲しい記憶も影響している。


志村は非常に笑いに貪欲、研究熱心で、ドリフ以外にも多くの喜劇を浴びるように見て吸収していった。というかもともと、ドリフのメンバーになるということは想像もできなかったので、ドリフでは笑いの作り方を勉強してその後独立することを考えていた。ドリフの付き人時代も、高校生からそのままボーヤの生活では社会経験が足りない、それがコントなどの幅を狭めることになる…と考えて1年分”脱走”して あえて様々なバイト経験をしたという。
それを終えて、なんとかもう一度ドリフに戻りたい、と謝罪した時、いかりやは「2度も弟子入りするぐらいだからよくよく好きなんだろう」といったという。復帰後の志村は加藤担当となり、加藤茶宅の居候になった。

そんな何者でもない志村の名前を、最初に知ったのは萩本欽一だ。
彼はテレビのスタッフから「毎週、うちのところに来てコント55号の台本をもらっていく新人がいる」と聞いていたのだ。そんな熱心な若者がいると…


そんな中全員集合がいよいよ本格的に始まる。
本格的な舞台美術(それが崩れるなどの仕掛けもある!)、山本直純(後に弟子のたかしまあきひこ)の音楽、有名芸能人がコントにも参加するという、当時としては無謀な企画……これによってコント55号を猛追する。放送8ヶ月でコント55号の番組は視聴率的に破れていき、土曜8時から撤退した。

コント55号自体も2年間の絶頂を追え、レギュラー番組が次々と終了、 コンビも単独の仕事が増えていく。プライベートでコント55号とドリフは仲がよかった。しかし笑いの真剣勝負であったことも間違いない、と著者は言う。

その後「8時だよ全員集合」は加藤茶の交通事故(自分も怪我したが加害者側であった)、一旦番組が日本テレビに移る(そんなことがあったんです!)などの紆余曲折を経ても、50-30%というとんでもない視聴率を確保していた。 ちなみにオープニングのおなじみの曲は、この再開の時から始まったそうだ。

1977年にいかりやは事務所を設立してナベプロから独立。番組内でも、いかりやを中心にしてドリフが1からギャグを作る仕組みが始まった。いかりや長介の「家長」気質がいい方向にリーダーシップを持った一方で、番組内には緊張感と言うか重い空気が流れ、いかりやと加藤茶の衝突も生まれるようになった。(それまでは加藤のアドリブに笑いを任せていたが、台本にはめ込む形式になっていたのだ)


しかしドリフの快進撃は続く。加藤茶も「すんずれいしました」「ちょっとだけよ」 などのギャグが大うけ。ただし厳しいいかりやにメンバーの不満が溜まることもつづく。
そして荒井注が、体力の限界を理由に脱退。そして志村けんが新メンバーになる。


最初の一年は全く勝手が分からず受けなかった志村けん
おまけに裏番組として「欽ちゃんのドンとやってみよう!」が始まる。テレビの鬼だった萩本欽一が「これからは素人の笑いだ」と開眼、コント55号とは全く別のコンセプトで始めたこの番組はあっという間にドリフに肉薄していく。

この時ドリフは何と番組を3ヶ月「休養」させ、戦略を練り直して合宿特訓する。
この時、他のメンバーと違って音楽バンドマンの経験のない志村けんに合わせて、コミックバンドたることを諦め純粋なコント集団になることを決意した、ともいう。


そして1976年3月「東村山音頭」で志村がついに大ブレーク。ドリフ黄金期が始まる。



それを支えたの が「TBS 美術に不可能はない」と豪語する舞台セット。
何しろ本物の車が飛び込んできて落ち、なんて設定まで実現化したのだから…屋台が崩れるオチも下手したら大事故。責任者は毎回胃痙攣を起こしていたそうだ。この仕掛けなどはドリフと美術スタッフがアメリカのディズニーランドから歌舞伎まで視察しいいものをどんどん取り込んでいった。

加藤から志村への主役交代…加藤はもちろん内申のライバル意識もあるんだが、結果的にはかなりスムーズに進んだと言っていい。それはやはりバンドマンというものが、全体の調和を考える性質があるからでは、と著者は考えている。いかりやもそれを守る立場に立つ。


ヒゲダンスやカラスの勝手でしょ、なども大ヒット。(この時加藤茶はギャグに恵まれずかなりきつかった時期。志村が動きだけのヒゲダンスを提案し救われたと回想)

これは志村が当時はかなり珍しい黒人音楽…ソウルやディスコに造詣が深く、最先端を吸収していたからだそうだ。ヒゲダンスのもと曲「Teddy」が、アメリカでリリースされ3ヶ月後にもう導入したという。
いかりや長介離婚、志村と仲本が競馬のノミ行為に参加するスキャンダルや、「俗悪番組」と批判されつつも……


しかし1980年代、新たなチャレンジャー「オレたちひょうきん族」が登場。
萩本欽一が「漫才ブームの後に日本の大衆の笑いの質が変わる」と予言していた、それが実体化した…

言葉の笑いに重点が移り、芸人がカリスマとなり「笑われる存在」ではなく「笑わせてやる存在」になったそんな時代の変化に全員集合は抗い続け「家族みんなで見てもらう笑い」にこだわる。

一方でドリフは高齢化し、売りの動きも悪くなる。50歳になったいかりや長介は体力的な疲れもあり、これまでのようにすべてをひっぱっていくのは無理…と言いつつも、そうでなくなればやっぱり面白くないという複雑な思いを抱く。 志村けんも逆に、今夜ドリフのエースとして自分の意見をまげない状況が増えてきた。報道などでもドリフ内部の葛藤や確執が取り沙汰される。


だが傍から見てると「二人は似た者同士」「親子喧嘩」にも見えていたのも一面の事実。それは志村けんが後に自分のコント集団の「座長・家長」であり続けたことからも見える。


1985年、全員集合はまだまだひょうきん族と互角の戦いをしつつも終了。
5人はそれまで認められなかった個人活動を行う事も決めた。

最終回のED「ババンババンバンバン」の締めは「また来週!」ではなく「長い間ありがとう!」であった。


その後、それぞれは独自の活動に乗り出す。
いかりや長介独眼竜政宗で老臣を演じるなどしたが、まだこの時期は台詞だけで精一杯。役者としての開花はもう少しあととなる。

仲本工事高木ブーはドラマや舞台俳優として活躍。




志村けん加藤茶は土曜8時に再登場、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で、土曜8時ひょうきん族にリターンマッチ。時代はバブル、膨大な制作費用をかけて志村のイメージを具現化する豪華なコントが実現した。一方でyoutuberの元祖と言われる、視聴者投稿ビデオコーナーが世界中に真似され、今に続く笑いの潮流となった。


そして「バカ殿様」の大ヒット、だいじょうぶだぁと、志村は喜劇王への道を歩み始める。
そして前述したように、番組制作の形は志村の絶対独裁、徹底したコント稽古……といかりや長介そっくりに(笑)。

その愛憎のもつれは、この時期に同じ番組(ドリフ大爆笑)に出演しながらも共演NGという事態にもなった。

それでも90年代にはドリフ再集結のコント番組がうまれ、この愛憎を抱えながらの関係が続いた。1995年、いかりや長介64歳、志村けん45歳……志村けん死亡説、というデマが流れる不思議な事件もあった。ただそれは、志村けんの人気も当時低下し、テレビの露出が少なくなっていたことも影響している。

1997年、いかりや長介はドラマ「踊る大捜査線」での和久平八郎役が高い評価を受け、俳優としての地位が揺るぎないものになる。他のメンバー音楽活動も再開した。1999年は富士フィルムのお正月 CM で荒井注も加わった6人ドリフが揃い踏みしている(その3ヶ月後に荒井注は逝去)。

そして2004年、いかりや長介が癌で亡くなる……。出棺する霊柩車には「オイッス」「次行ってみよう!」の声がかかった。

その後、志村けんはコントの大衆演劇化という夢にのり出し、多くの後輩芸人ならリスペクトを受ける喜劇王になり……そして2020年、コロナで突然の別れをつげた。



そんな、ドリフターズとその時代…(了)

コロナは減少してるけど「〇〇したから減った」の手ごたえないよね…

www3.nhk.or.jp

www.sankei.com

www3.nhk.or.jp



減ったー。けどさ、なんでかね?〇〇をしたから減少した、的なことを考えると…「増える時期が過ぎたから、減少した」としか。


たとえば「今コロナが減っているのは、岸田政権の対応が適切だったからだ」とかも「岸田政権が適切に対応すれば、死者はもっと少なかった」も、全部あまり証明できそうにない。


マスク着用も効力あると思うし、ワクチンは言わずもがな……だがそれでも、何となく今回「増える時は増えるし、それが過ぎて減る時期になれば減る」的な感じで、政治が何をしても、何をしなくても変わらんのかもしれん……と思ったりもする。

また新型株が入って、新しい波が来るかもしれないが。

コロナ減少

ANAの「羽田空港第2ターミナル、大型デジタルサイネージ撤去へ」でSNSがプチ騒動。

その反応
※このリンクはかなり早めに無効になります。上のツイートの「引用リツイート」を見た方がいいかも?(あとレス部分)

https://twitter.com/ANA_travel_info/status/1619832892120522753/retweets/with_comments


自分の感想というか提案。

もし費用が問題なら「ここにうちが費用負担で設置します!代わりに広告入れさせてね?or名称にうちの企業名入れてね!」が可能では。サムスンとかファーウェイとか(笑)


どうなんだろうね?そもそも「コスト負担が撤去の主な理由」なのかどうかもわかんないしさ。


【新書メモ】「戦国日本の軍事革命」〜なぜ16世紀に戦は変わり「天下人」が生まれたか?

最近読んだ新書の内容を、とりあえずざっとまとめるシリーズというのを始めてみたいと思います。

個人的に、普通に書評を書くと、どうしても面白い所に集中し、そこで膨大に書いて全体像を書ききれないことが多かった。
それはそれで意味があるが、全体的にメモしておきたい本もある。そういう風に使い分ける。


音声入力を使うので誤字脱字も多くなるかもしれません。

それでは中公新書「戦国日本の軍事革命」(藤田達生) 要約します。

16世紀中頃、戦国日本に伝来した鉄炮。砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人により国内に広まると、長槍や騎馬隊が主力だった戦場の光景を一変させた。さらに織田信長は検地によって巨大兵站システムを整え、鉄炮の大量保有を実現。鉄炮や大砲を活用する新たな戦術を野戦・攻城戦・海戦に導入し、天下統一へと邁進した。軍隊や統治のあり方をも変えたこの「革命」が豊臣秀吉徳川家康と引き継がれ、近世を到来させるまでを描く。

日本において軍事がが歴史学の重要分野となったのは比較的最近、1990年代から。
それまではいろいろな理由によって、忌避されがちであった。

軍事革命というのはヨーロッパでも日本でも確実にあった。
それは一言で言うと銃の発達である。

10が発達するとどうなるか。
ぶっちゃけで言うと戦争が完全決着する。

槍や刀で戦っているときはなんだかんだと相手を完全屈服させるのが難しく、それが前提だった。種子島の一斉射撃によって、相手の根拠地を学情させ完全させるようになる。

ただそのためには種子島と弾丸と火薬を膨大に準備しなければいけない。
そのためには最終的には海外との貿易ルートが必要だった。

特になまりと硝石は、当時海外からの輸入が必須だった。

ちなみになぜ弾丸は鉛でないといけないか

・比重が大きい。だから空気抵抗に強い。
・柔らかいため着弾した時弾頭がキノコの傘のような形になるマッシュルーミングという現象が起きるこれによって相手に大きなダメージを与えられる。
・融点が低いから兵隊たちが手作りできる。鉛が手に入らないため銅や鉄玉を使うところもあったが、これは当然鍛冶屋さんじゃないとできない。また、銃ごとのの口径の微妙な違いや、火薬のカスが付いた後にそれによって口径が縮まることにも対応できる。

なぜ戦国時代の銃弾は「鉛玉」でないといけなかったか(戦国日本の軍事革命

今鉛のルートは、古戦場から掘り出した魂の元素によって判明する。タイの鉱山から取れた鉛が古戦場の弾丸から出てくるなんてことは珍しくない。

朝鮮半島から朝倉市一乗谷広島県を経由して入ってくる鉛などもある。

織田信長が朝倉家を滅ぼし、柴田勝家が越前支配したのは鉛の輸入に関して大きな意味があり、後に武田氏や北条氏が鉛不足になるのもここが関係しているようだ。

逆に、紀州一揆が起こると、そのルートから雑賀衆にタイ産鉛が入る…などの現象も起きる。

そうやって銃撃戦が戦場のメインになると、要塞攻略戦も「付け城」とか、「仕寄せ」と呼ばれる塹壕戦が主流になってくる。すなわち大規模土木工事こそが重要になる。これもまた金のかかるため、大大名に有利なようになった。

本書では付け城攻城戦について詳しく例を挙げ説明している


当時、伊賀甲賀から雑賀宗まで、高度な自治と平和を保つ地域勢力があった。
その一方で彼らの多くは傭兵である。と言うかむしろ、安心して傭兵として外で戦争ができるようにするために高度な自治が地元で発達したんだ。

とすると、天下統一は必ずしもミクロ的な平和や安定を意味しない。日本全体が戦乱状態だからこそ、平和や自由を保てる地域勢力はたくさんあった。ここを誤解しがちである




こうやって大大名になる巨大な軍事動画作られてくると、軍法もかなり緻密で厳しいものになる。要は動員した国衆等に対して 統制力が強まった。

それは軍法が成立し、勝手気ままな略奪などが使用は禁止されるようになったこととも繋がっている。抜け駆け禁止なども厳しくなった。



そして信長は1580年に大阪本願寺を撤退させて、近畿地方に敵対的勢力のいない状況を成立させた。そして一国単位の「仕置き」を行うようになった。「一職」という。荘園、寺社、国人…などの複雑な領有関係の重複を解消させたのだ。

ちなみに信長はこの革命において、銭でなくコメ単位で経済力を定義する石高制を採用。

後退したように見えて、輸入通貨をはじめとする様々な通貨の流通と変換ルートを、日本全国どこでも取れる米によって統一、安定した「通貨」として流通させる効果があった。


そして天下人のしたの家来は「知行地」を与えられ、それはどんどん別の時に交代するのが当たり前になってくる。その土地土地を独自に支配していた、は関係なくなってくる。在地性の否定。


そしてそういう支配システムの確率は、より巨大な軍事動員が可能となり兵站も巨大になった。


こういうシステム変更を実現するにあたっては大規模な「検地」が必要となり、それは増税だから地元の小規模地主=地侍にとっては大変な反発をうんだ。
逆にその反発する抵抗勢力をすりつぶすことで「織田・豊臣の統一戦争」は完成したという。武田や朝倉との大名同士の戦争よりある意味重要だったかもしれん。



これはやはり近畿や東海地方を中心に発達したもので、その結果として伊達政宗の軍隊と蒲生氏郷の軍隊を比較するだけで、政宗軍の軍律などはかなり古いものだった、という指摘があるある。


他、島原の乱や、江戸の平和が来てからの 軍事体制についても興味深い話が多かった。

全日のガチ練習(渕正信vs 岩釣兼生スパー)に関する、補足の議論。「佐藤昭雄が優秀過ぎた仮説」等々

以前のこの話について、ちょっと小さな継続情報があったので補足します
m-dojo.hatenadiary.com

ゴン格の最新号、
吉田豪氏は前号の話について、本編では無くマクラでちょっと語っている

吉田豪氏、全日のガチ練習について考える

これを読む限り、吉田豪氏も、あまりディープな周辺情報やオフレコトークを聴いてるとかじゃなくて、素朴に北原光騎のインタビューと、渕正信の武勇伝がつながらない、という疑問、という感じのようだ。



で、これはやはり前の記事で書いた様に
吉田氏の「渕は全日もガチスパーしていたというけど、北原はそれを否定してる」の話マシオ駒逝去以降に、時間が経過して変わっていった」で説明つくかと思う

74年 渕正信入門

76年 マシオ駒逝去

79年 佐藤昭雄日本帰国

87年 北原光騎入門

真面目で練習熱心、会社の為に尽力した駒に対するジャイアント馬場の信頼は非常に厚かった。その為駒が急死した際、馬場は「なぜなんだ!」と言ったきり絶句したという。
日本プロレス時代の後輩にあたる山本小鉄は、駒同様に大変に練習熱心な人物として知られるが、二人はライバルであると同時に仲が良かった[5]。日本プロレスが崩壊する過程で、駒は全日本へ、山本は新日本プロレスへと違う進路を取る事となったが、共に若手の指導を行う立場となり、両団体がほぼ断交状態にあった中でも、練習方法や指導方法について相談し合う事が多かった。ザ・グレート・カブキの回想によると、駒は山本同様若手にはガチンコを徹底指導し、大技を使うことを厳しく制限していたという。そのため、駒の死去後もこの指導方法が暗黙の了解として残り、佐藤昭雄が指導方法を改革するまで、新人や若手は大技を使うことを制限されていた。
ja.wikipedia.org

北原の入門はマシオ駒逝去の11年後、佐藤昭雄帰国後8年後。
10年程度で変わるのか?といえば、10年は練習方法が大きく変わるには十分だと思う。
カブキ証言によれば、ある時期までは「暗黙の了解」でマシオ駒のやり方を引き継いだそうだから、ゆっくりとした変化だったのかも。


新日本も、スパー廃止ということはないのだろうが、猪木が「馳によって変わってしまった……」と嘆く程度には、新日道場は馳体制で変わったらしい。
togetter.com


Uインターも安生らが主導して練習方法をあらため(先輩がずっと極めては放し続けるいじめ的なものでなく、一本極めたらまた最初のポジションから始める。そんなことで……)、そこにディスコで金原弘光らと知り合ったエンセン井上が参加して技術を伝えただけで、いい方向にガラガラッと変わったのだから、むしろコーチによってほんの1、2年で劇的に変わるもの、なのかもしれない。
高校生の部活の、指導者異動による強豪校の変化なんかも連想する。


と同時に、今回補足したいのは、全日からガチスパーの風習が無くなったとしたら、そりゃやっぱりちょっと問題、弊害はあるだろうけど、佐藤昭雄があまりにも優秀で、その改革が、あまりにも効果的だったからじゃないか?」

という話です。
こういう認識に至ったのはつい最近で、佐藤昭雄って自分の中では「ずっと海外遠征中ってことになってて、ときどき謎の覆面レスラーの正体では?と雑誌にかかれる人」「ハクシ―のマネージャー『シンジャ』」というイメージしかなかった。

だが、昭和の忘れ物たる老害プロレスファンがくだを巻く(つまり大変ここちよい)雑誌「Gスピリッツ」で、佐藤昭雄氏は万能コメンテーターとして登場するんだけど…そこでの指摘って本当に理にかなっていて、納得せざるを得ない神コメント連発だったのだ。


佐藤昭雄がすごい!は、Gスピリッツだと雑誌という性質上、過去に遡りにくいから、この「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」を読んでほしい。

そこでの鶴田分析が……本当にぜんぶ、完璧にその通りだ!ってレベル。

m-dojo.hatenadiary.com
「試合作りっていうのは誰にでもできるわけよ。 ところが全体の試合の流れの中で波を作る、ジャンボ鶴田を作るっていうのは、ジャンボの責任なんだよ。 でもジャンボは責任を持たされてやった試合はなかったんだよ。( 馬場さんはそういう立場で自分も作ってきたが)でもジャンボは責任を持たされたことがないから、自分が何をやらなきゃいけないかっていうのを最終的なところでわかってなかった」


「タッグのパートナーがほとんど馬場さんだったでしょ。そうなると昔の吉村道明さんが馬場さんを作ったようなことを、他の連中がジャンボに対して行ったことがないわけ。」


「ジャンボはぽんと売り出されてトントン拍子に行ったけれども、ジャイアント馬場と肩を並べられると不安に思わせるようなところが全くなかった」


「はっきり言って馬場さんは『ジャイアント馬場』という存在は作れても、ブッカーとしてスターづくりをするということができない人だったよ。それまで上位だったレスラーにしっかりした形で勝つことで、初めてファンは新時代を感じるんだから」


これだけプロレスが「わかっちゃう」のは、ただものではない。文才で知られるTAJIRIもここまで明晰な分析はしていないと思う。

レスラーとしての佐藤昭雄はメインイベンターでは無かったけど、彼にブッカー権限を与えた馬場さんはやっぱり大したもんなのだろうな。
ジャンボだって納得するさ。

「ジャンボは俺(佐藤昭雄)が中(マッチメークやブッカー)に入ったことで、面倒なことに関わらなくてよくなったからほっとしていて。だから年下の俺の言うことを聞いてくれたのかもしれないよ。…いろんなことをやっていく中で、ジャンボからの反感はなかったからね。ある時にジャンボが俺にこう言ったんだよ。”あきおちゃんね、俺はプロレスの会社の社長になろうなんて気は全くないんだよ。でもリングの中では メイン イベンターとしてしっかり責任を持って試合をするから…”って。ジャンボがじゃあ俺やるよって、やる気を見せるまでちょっと時間かかったよ」
佐藤昭雄


ただ、佐藤昭雄が「巧い」のも「話が面白い!深い!」と思うのも、やはり公平に見て2000年にミスター高橋本が出て「ポストミスター高橋本時代」になったから、であるのは間違いない。
「あいつはプロレスが巧い」とか「こういう動きをすれば客が喜ぶ」「こういう風にスターを持ち上げる」とかは一種の”芸談”にならざるを得ない。
プロレスは昭和の時代にはなぁ(笑)、原則強いとか弱い、勝った負けたとかしか語っちゃいけなかったんよ!!
野球で「あのキャッチャーはうまい試合運びだ」とか「あの新人をエースに盛り立てる」とかは、普通に試合して普通に打ったり三振にとったり、を全力でやる、という意味で、プロレスもそういう意味合いで語らなきゃいけなかった。

その枠が外れて、”芸談としてのプロレス”を語れるようになったから佐藤昭雄の語りも凄くなった…というか、そもそもそういう話ができるようになった。

佐藤はそうやって全日の若手も育てた。

完璧な英語を習得していたため、全日本ではジョー樋口と共に外国人選手の通訳を担当。また、全日本プロレス中継解説者のほか、若手のコーチ役や入門テストの試験官も務めた。ジャイアント馬場に信頼を置かれており、マッチメイクも佐藤が行っていた時期がある。「大技は使ってはいけない」という前座試合の暗黙の了解をなくし、それを佐藤がすべて受け止めるなど、若手に自由自在に試合をさせるための空気づくりを行った。全日本の前座や若手の育成方法に多くの改革を起こし、三沢光晴越中詩郎らを育てた。三沢は佐藤を「心の師」と仰いで尊敬していたという。

だけど!まだ全日は、マシオ駒の遺風もあったかもだし、馬場もなんだかんだと力道山門下生、アトキンスに揉まれた昔気質。
受け身も寝技も体つくりもそれなりにやっていたのだろうけど……佐藤昭雄がその鋭い頭でプロレスはプロレス、と割り切った時、寝技スパーも廃止(はっきり決めてはいないと思うが、自然消滅に近くなった)されてもおかしくないかと。



これはKAMINOGE斎藤文彦氏が座談会(プチ鹿島との対談+堀江ガンツ)で言ってたと思うけど、あのプロレスリングマスター武藤敬司が、フワちゃんのプロレスを見て「凄い完成度だ!」と驚いたんだって。まあハッスル以降そうなのかもだが「プロレスのある部分を集中的に、そこだけ徹底的に学んだら、その面で良いプロレスラー(グッドワーカー)になれる/だけど、それでいいのか?」という話。


この部分は正直グラデーションがあって
佐山聡
前田日明
アントニオ猪木
山本小鉄
ジャイアント馬場
マシオ駒
佐藤昭雄
マサ斎藤
グレート・カブキ
馳浩
獣神サンダーライガー
谷津嘉章
長州力・・・・・・・・などに、それぞれ濃淡があるのだろう。学生プロレスへの態度、なんかも似てる気がする。ライガーのいう「ナイフを持っているか」云々もそうだ。


そういう点で、佐藤昭雄はグラデーションの、薄いほうに位置してたんじゃないかな、と思う。
そして、佐藤昭雄イズムが徐々に浸透して、全日からガチ練習がフェードアウトしていったとしたら、そこから逆算して柔道家とスパーをした当時の渕正信に疑問符をつけるのは、少なくとも時系列的にはちょっとかわいそう、という気がします。

ただ、まあ、これを再検証するのも難しい。佐藤昭雄だって腕一本でアメリカを渡り歩いたプライドもあるはずで、やっぱり「あなたが全日の練習からガチスパー、セメントをとっぱらったんでしょ?」と正面から聞かれたら、それが事実でも事実じゃなくても、不名誉な話だと受け止めて怒るはずだ。だから厄介なんだな

ガチの基礎を身に着けた新弟子は、けっこう扱いが違う説



伝説の66000超えビューのtogetter(なんでこれだけ、こんなに読まれてるのか正直分からん)
togetter.com


そして中邑、木戸修矢野通の挿話(笑)。


こういう面……シューターあがりの北原だから、全日本の皆がスパー稽古を避けて、結果的に「全日はスパー練習なかったですね」となった、という話。これが事実ならそれはそれで情けないけど(笑)



最後に余談。今回の「書評の星座」本編は前田日明本書評なんだけど…

格闘王・前田日明の視点で読み解く、プロレスと総合格闘技の軌跡!
力道山、ゴッチ、馬場、猪木、UWF、リングス、そして、現代総合格闘技に従前とは異なる光を当てる。
電子書籍向けオリジナル企画】

 ※  ※  ※

 疫病と戦乱の生じさせた黒雲が世界を覆い尽くした2021年から2022年にかけて、前田の個人史に大きな節目が訪れた。自身のライフワークであるファイティングネットワーク・リングスが設立から30年、一応の閉幕から20年を迎えたのだ。22年は古巣・新日本の旗揚げ50周年にも当たる。予期せぬことではあったが、師であるアントニオ猪木に今生の別れを告げる仕儀ともなった。
 この機会に、前田自身の経験にあらためて斬り込んでみたい。そう考えた。幸運にも快諾が得られ、二度にわたるロングインタビューが実現。その全貌を基底とし、加筆・構成したのが本書に収めた2本の記事である。
(中略)
 2本のインタビュー記事で、私は新日本プロレス入門からリングス終焉に至る歩みを前田に問うつもりでいた。だが、現場で当人の口から語られたのはもう少し視野の広い大きな物語だった。
 力道山率いる日本プロレスが多団体時代を制した過程と裏面。アントニオ猪木が入門した当時のプロレス界の色と匂い。プロレスの神様カール・ゴッチを構成する成分や要素。前田にとって前史に当たるこうした事象への解釈や見識に始まり、総合格闘技の未来への貴重な示唆も含まれている。

【本書で前田日明へのロングインタビューを行った執筆者・片田直久による「まえがき」からの抜粋】

前田日明の”聞き手”が、某前任者から、片田直久氏になってほっと一安心、しているのは皆と同じ(笑)。

だけど、ここは驚くとこじゃあ、なかんべ?

吉田豪前田日明の天下三分の計にびっくり

だってここの部分、むしろ前田が積極的に宣伝してた、キャッチコピーみたいなもんじゃん。

・ 今、オレは天下三分の計を考えている。PRIDE、K-1HERO’S、リングスの三国鼎立。これから赤壁の戦いだ。もちろんPRIDEが曹操だと思っている
kakutolog.cocolog-nifty.com

第二次リングスはK-1&HERO'Sと協力関係になり、「UFCが共通の敵になる」と米国進出さえも口にした前田。「天下三分の計がリングスとK-1とPRIDEだったのが、UFCにいきなり変わった。しょうがないよね」と世界の総合格闘技制圧を標榜しているUFCに真っ向から闘いを挑むつもり。
gbring.com

「俺は今、三国志諸葛孔明の役をやっているから。最初は劉備元徳のつもりでやってたんだけどね。その内、曹訓が暴れだすのでやっつけちゃおうかな。その次は天下三分の計をやるよ」という意味深な発言も。
gbring.com


それを受けて「天下三分の計?村八分じゃなくて?」とかド失礼なことを書いたブログまであった…だれだ、この失礼なやつ。
m-dojo.hatenadiary.com



いま、反省して
前田日明三国志に喩えるなら個人の武勇に抜きんでた呂布朝倉未来)を抱えることができたが、結局そいつが敵陣営に降ることで、むしろあちらの天下取りの原動力になってしまった丁原かな」
とかいう、さらにド失礼な総括をしてですね(笑)



そこで思うんだけど、吉田豪氏は、プロレスラーや格闘家・武道家のインタビューや回想の書を照らし合わせて、そこから知られざるファクトやストーリーを発掘・構築していくというやり方に関して”レジェンド”ではあるけど、やはりその後に芸能・サブカル関係のおしごとがわんさわんさと押し寄せてくる以上、プロレス格闘技の専業ではあり得ない。

いまの「書評の星座」も、往年の達人の模範演武であって、そこから学ぶことは大なりとはいえ、現役でリングに上がれるか、という今現在の強さ(ここでは、膨大なプロレス格闘技の記事をまず読んで、記憶し分類する情熱と能力)では、やはり第一線は外れているのではなかろうか、と。


今回の「前田日明の天下三分の計」と「10年程度で道場の練習が変わったとしたら謎」という話、そういう点では大元では繋がっていたのかもしれない。


反響で情報得る。「ガチンコの練習やってるとお前ら外されるぞ(栗栖が北原に)」/「仲野は馬場に直接怒られた」?


どじょうvsタガメ。「THE MATCH」(ワイルドライフ)

NHKらしく、サイトではぬるい書き方をしてるが、一部新聞の番組表では「どじょうvsタガメ」とシングルマッチであることを宣伝していた。

中国山地 奥出雲の棚田 ドジョウが水と土を活用 四季を生き抜く」

初回放送日: 2023年1月31日深夜
1月31日(火)午前0:25

島根県奥出雲。広大な棚田が広がる西日本有数の米どころだ。そこは日本の中でも極めて珍しい希少生物の宝庫でもある。田んぼには、ドジョウやヘイケボタルタガメなど、近年水質の悪化や水路の護岸などにより、全国で姿を消しつつある希少な生きものたちが数多く生息している。季節ごとのサイクルにあわせて、さまざまな理由で田んぼを巧みに利用する。人と生きものにとってかけがえのない里山の姿を、四季を通して見つめる。

www.nhk.jp


”うっかり銃撃戦”?を描く「アナザーストーリーズ あさま山荘事件」がネット無料配信中

あさま山荘事件 立てこもり10日間の真相」
初回放送日: 2021年2月17日

1972年2月28日におきた「あさま山荘事件」。連合赤軍メンバーが軽井沢の山荘に立てこもり、10日目に県警、機動隊の強行突入! 鉄球と放水、そして催涙ガスが立ちこめる山荘内での攻防戦。あの日、あの場所で人々は何を考えていたのか?突入を指揮した機動隊隊長、現場から中継を続けたアナウンサー、そして山荘に立てこもった犯人の一人が明かす貴重な証言をもとに10日間の知られざるアナザーストーリーに迫る。

配信中

www.nhk.jp


地上波再放送も予定
2月5日(日)午前2:20

もちろん、この表題は 話題のこちらから借用。

ブクマにぎわう
[B! 左翼] おきさやか(Sayaka OKI) on Twitter: "うっかり暴力沙汰を起こした左派グループもいたので、それを利用し保守陣営は情報戦に勝った。足並みの乱れた左派を尻目に、1980〜90年代の与党は新自由主義を取り入れて公共セクター労組潰しや公務員叩き、規制緩和をやった。欧州では女性の… https://t.co/dcmSrX0E9u"