私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話|四谷三丁目|note
という、評判を呼んだ(なにしろ1000越えのブクマだ)記事。
ここに付けた当方のブクマが、まぁタイトルの通りのことを書いたのだった。
私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話|四谷三丁目|noteb.hatena.ne.jp『海賊にはなれないが◯◯はできる』で区分するなら『盗んだバイクで走り出す』や『窓ガラス壊して回った』が『実行可能だから社会の信用を得るため自主規制すべき表現』のジャンルに入るだけではないか?との疑問。
2020/09/01 17:21
この件について、別に冷笑してるわけでも
大喜利をしているわけでもないし、あちらも真面目に書いているので、
もう少し手間を割いて説明しよう。
リンク先ではかく言う。
「小児型ラブドールを使用することで小児への性加害が助長されると言うなら、とっくに海賊漫画に影響されて大航海時代が来ている」
「トミカを買ったら車泥棒予備軍になるのか?」
「ルパンが流行ったから日本は怪盗だらけだなww」という大喜利大会、冷笑しぐさなんだろう。
ハッキリ言うけど、こんな幼稚な言動をしている場合じゃない。
マジのマジレスするけど、現代日本で生活を捨てて船を買って海賊になるのと、その辺を歩いている小学生を暴行するのがなぜ比較になると思うんだ。考えてみてくれ。私は多分一生かかっても海賊にはなれないが、小学生を襲うなら明日にでもできる。実行に至るまでに必要なハードルが全然違う。
この種の分離……なにしろ、怪盗や殺し屋や革命家などが主人公のピカレスク・活劇もの、剣や銃や一子相伝の憲法や異世界魔法で「バトル」する物語はどうにも人気ジャンルの地位をずっと保っており、まあ合法に視聴されているので、そことの分離をするために「海賊になるのなどはハードルが高いから、皆がフィクションだと自覚している。/(だがセクハラや性犯罪はそうではない)」という論法がひところ、局地的に流行ったのですな。
しかし、それなら当方がブクマで付けたとおりに
『盗んだバイクで走り出す』や『窓ガラス壊して回った』もやる気になれば、健全な若者が、明日からでもできるわけであり…
尾崎豊生誕50周年らしい。20年ぐらい前に世間ではまだ騒いでたんでネタにした気がする。描いてる途中で友人と電話してて「危ないからやめとけ。尾崎ファンは右翼より怖いぞ」と忠告されたんで、そんままネームに入れさせてもらった覚えがある。 pic.twitter.com/ervA28UzNO
— 松田洋子 (@matuda) 2015年12月2日
そう、物理的、肉体能力的な意味合いにおいて「実行可能」なレベルの、法的には犯罪となるものが物語やアートの中で登場することは、海賊王なみに普通にあることで…これを「社会的責任」の名のもとに封印できるかどうかは。
んーと、これ以上に話すこともあまりないので、第二部と行こう
そもそも「一匹と九十九匹」の話じゃないかな、これ。
- 作者:福田 恆存
- メディア: 単行本
……十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)
(略)…天の存在を信ずることのでぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に看取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてもなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。
善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名のもとにおこなはれるのである。
くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としてゐるにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。
しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。
なんで保守主義の神髄を極めたとされる、このひとの論が、多くの”リベラル”よりも、……リベラルなの?
「ぼくはただ うそをうそといふのが 商賣です」