台湾の高速鉄道で刃物を振り回している男を止めた人、表彰式の記者会見で「ヒンメルならそうした」と言い放った
いい話です。もちろん、一般の人は危険を避けるためにまず自分の身を避難させる、ということがあっても一向に批判されません、という前提を置いた上で。
さらにまた、雑感。過去話の再掲載。
フィクションをロールモデルとしてふるまうことについて
(略)…思い出したのは、山本夏彦氏の文章。
……私はついこの間まで日本人も皆そうだったことを思い出した。主人は店の者にお前なんのために芝居を見ていると叱った。「伊勢音頭」の主人公は「身不肖なれども福岡貢(みつぎ)、女をだまして金とろうか」と言うから、見物は女をだまして金とるのが最低だと知るのである。忠臣蔵は芝居の独参湯(どくじんとう)だといわれた。私たちの冗談もしゃれも笑いも、みんな芝居をふまえていた。
大正十二年の大地震のとき、すでに火は日本橋の私の母の実家に迫っていた、店の若い衆”金どん”はつづらを背負った、その姿があんまり大時代なので店の女たちがどっと笑ったら、金どん”延若”の声色で「つづら背負ったがおかしいか」と言ったという。石川五右衛門のせりふである。
ふだんの会話のなかにかれにシェイクスピアがあるように、われに忠臣蔵以下無数の狂言があったのである。大震災を境にそれは滅びた。私たちはとり返しのつかないものを失ったのである。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/9323/sonota/sonota12.htm
山本夏彦著 「オーイどこ行くの」の中から「時代遅れの日本男児」勧善懲悪や教訓のために芝居があるわけではないが、その一方で、やはり物語やそのキャラクターは否応無く「ロールモデル」として扱われる。
芝居や物語は「こういうときには、こうふるまうのがカコイイんだ」という先例集でもある。
中国の史書も、またそういうふうに扱われた。過去の事例に自分をなぞらえ、そのように自分もふるまうぞ、と奮い立たせる。斉に在りては太史の簡 晋に在りては董狐の筆
秦に在りては張良の椎 漢に在りては蘇武の節
厳将軍の頭と為り 嵆侍中の血と為る
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%8C「自分」は負けそうになっても「いや、あの時の○○はこうだった。だから俺もそうしなきゃ」と…
こんな歌もあったな
逃げるのか?諦めるのか?一生を闇の中ですごすのか?
いやです
少年の頃、お前はテレビを見なかったのか?
見ました
思い出せ、彼らは絶対の危機の危機の時にどうした?
もダメだというその時、彼らはどうした?答えろ!立ち向かった
ならばお前もそうすればいい、それをやれ!
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あのうっとおしいほど熱血な藤田和日郎はこう語る。
「自分を信じる」よりは「自分の好きなものを信じろ」!
「自分を信じろ」という薄ら寒い言葉があるじゃないですか。「わかるけど、どういうことだよ!抽象的過ぎて腹の足しにならないよ!」…(略)新人によく言うのは、『好きなものを信じろ』。僕は映画の『ターミネーター』が好きなんですけど、本当に好きだから、この信頼は裏切られません(略)…これをカッコいいと思う自分を信じている。
唐々 これは、強いですよね。少なくとも、揺るがないで生きていけますよね。
藤田 そこが、最後の宝じゃないかと思うんですよね。
にた話は以前のインタビューでも語っているんですよね。
d.hatena.ne.jpにて「名言集」を抜粋した、http://booklive.jp/feature/index/id/ivkf_01のロングインタビュー。
藤田:オレは「私のようになりたまえ」って説教している漫画ってあまり好きではないんですよね。
それよりも、自分の中の「あんな風になりたい!」っていう憧れを読者に伝えたいって気持ちが強くて、だから「鳴海(なるみ)のような男になりたいんだよな」とか、「あんな風に生きたいんだよな」とか、それを伝えるために描いているのが漫画家としてちょうど良いスタンスじゃないかと思ってるんですよ。
だから、「お前の言う通りアレはカッコ良いよね」って読者から言ってもらったら、それが凄く嬉しいんだよね!
…と、「登場人物がロールモデルになるフィクション『もある』」からって、フィクションにそういう方向性への型を(法的規制で)はめろ!は愚の骨頂。
これについてはふたつの最強コンビの用心棒をお呼びするので、先生やっちゃってください、である
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これ(※漫画「ザ・ワールド・イズ・マイン」のこと)暴力シーンさっきから出ているでしょ。良識家の人が「こういうのは…」とか言う。(略)大学でこういうのを扱うときもいってるんだけどね、こういう、ある意味けしからんマンガなわけですよ。そういうものをどう考えるかっていうときにね、ふつう言論の自由とか表現の自由なんて言うけど、俺ね、そういうバカなこと言いたくないから(笑)、いつもね俺、本居宣長のこういうのを引用するのね(笑)。
本居宣長の歌論、文化論ですね、うた論。
(歌の中には)
政のたすけとなる歌もあるべし、
身のいましめとなる歌もあるべし、
また国家の害ともなるべし、
身のわざわいともなるべしってんだよね。で、そういうものがあっても人間の真実が描かれているものは芸術であり文化であるって、本居宣長が言ってるんだよね。
ぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)
…(略)このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に看取した精神のそれである……かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてもなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名のもとにおこなはれるのである。くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としてゐるにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。
「ヒンメルならそうした」と「香炉峰の雪はいかならむ」に違いはあるのか?
このネタも追い続けてますな、われながら。もともと最初のまとめにも、この件でコメントブクマつけてた
毎回の話だけど「香炉峰の雪は…」の時代から、互いに知ってるテキストやカルチャーに言及し「うんうん、アレ知ってる!」は世界共通の快感なのだな。で、「教養」認定は、現在それに権威があるかないかにすぎぬ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4754467748970339328/comment/gryphon
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つまり、このふたつに差があるのか?だ。
ピン! ときた私は、すぐに そばにいた女房に御格子を上げさせ、また、私自身 御簾を高く巻き揚げて、宮様のほうを振り向き「これでいかがでしょうか」というように目配せいたしますと、宮様は 満足げに にっこりと微笑まれました。
お側にいた女房たちも はじめのうちこそポカーンとして見ていましたが、そのうちに一人の女房が「ほら、あの香炉峰の雪は簾を撥げて見るっていう、アレのことじゃないかしら?!」と言ったのをきっかけにして、みなが口々に「さすがは少納言さん!」、「私だって、そのお歌は知っていましたけれど、とてもとても そんなにとっさには思いつけるものではないわ」などと感心してくれたのでした・・・
(清少納言)↑
↓
(げんしけん)
ただ、理論、理屈としては同種であっても、やはり現実として、マンガアニメの名セリフ引用は微苦笑を誘い、漢詩古典シェイクスピアからの引用はホーっと手放しで感心される、のは事実。
じっさい今回の「ヒンメルならそうした」も、日本コンテンツが海外でも愛されていることを含めて嬉しい話だが、ちょっと微苦笑というか照れ笑いが顔に浮かぶのも、また事実でしょ。自分はそうだった。
ただ、これも本当に変わるんでね……
ぶっちゃけ映画「カサブランカ」や「チャップリンの独裁者」の台詞を引用したら、教養っぽい。ただ「仁義なき戦い」からの引用だと、どうじゃろうのう?ササラモサラかのう?
落語も、教養とそうでないところで微妙かのう。もちろん寿限無寿限無を最後まで暗唱出来たら大したもんだが「この丸太んぼうめ!てめぇなんか血も涙も…」「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様という……」を暗唱したら、200%ひかれる。「チャンラーン!」や「私の鞄には、まだ若干の猶予がございます」だとどうかな。某学会では教養の印かな(笑)
そうは言い条、マンガの「権威」は若干増しており、だから台湾の「ヒンメル」はドン引きされないという感じもある。
権威というかお洒落感かな。いわゆるスクールカースト上位が話題や趣味だと公言して大丈夫、的な。これ、実はラノベ方面の「権威」と比較してそう気づいたという面もある(笑)
一方で「権威」とか「教養」って
「そんなもの、わざわざ自分の時間を使って接して覚えたくないのに、あの人は頑張って全部覚えてるんだね、すごいなぁ」というのが背景にあるような気がする(笑)。すなわち「権威」や「教養」になるということは……
「手塚治虫と藤子・F・不二雄かー、別に読みたくないけど…学校の課題図書なんだよな、やだなぁ、ちゃっちゃと読んで、…感想はAIに書かせたらバレちゃうかな?」
とかなったら、これは勝利なのか、敗北なのか。
台湾の勇者のひとことで、過去のこんな考察や思いを、あらためて思いました。(了)