存在を知ってブクマして、起きたら順調にブクマが増えてるわ
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・・・・・・『風と共に去りぬ』(大久保康雄・竹内道之助訳、新潮文庫、二〇〇八年六十一刷)のコピーも入れ、これも役割語の一種でしょうね、と尋ねた。金水はそうですと頷いた。
『風と共に去りぬ』の中で黒人奴隷はこんな風に話す。
「こまりますだ! ビートリス奥さまに叱られるのは、おいら、おまえさまがたがこわがるより、もっとこわいですだよ」
原文ではどうなっているんだろう。黒人は十分な教育が受けられなかったこともあり、文法的におかしい黒人英語を話す人もいる。二重否定が変だったりするのだ。でも黒人が東北弁は話さないだろう。そもそも南部の物語だし。
いま、ぱっと思い出す中ではオー・ヘンリーの短編でも、元解放奴隷の黒人はこういう口調だったな。
最近みた映画では、「ジャンゴ」がそうだった気がする。
そして、いま鮮烈に思い出すのは、テリー・ゴディとスティーブ・ウイリアムスの殺人魚雷コンビが日本からWCWに「逆輸入」されてあちらのトップレスラーを次々撃破していったとき、この2人のTVインタビュー字幕が、すべてこの疑似東北弁で表現されていた。翻訳監修は斎藤文彦氏だ。相当南部訛りを強調していたのだろう。
字幕無い版だが、こんなべしゃり。
WWE Alumni: "Dr. Death" Steve Williams & Terry Gordy
“Dr. Death” Steve Williams & Terry “Bam Bam” Gordy Promo During The Classic UWF Feud
おれには何訛りかはさっぱりわからぬが
ameblo.jp
そして最近の報道でも…
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想田和弘氏は「だわ」「のよ」といった、「女性言葉」の翻訳・字幕も問題だとしている
この番組に限らず、洋画の翻訳はなるべくジェンダーニュートラルでやった方が良いと思う。そうすると男っぽさとか女っぽさのニュアンスが伝わらないと言うかもしれないけど、そういうのは映像や声のトーンなどで伝わるもの。言葉で変に色づけすべきではないと思う。 https://t.co/ARzGAGT4JA
— 想田和弘 「精神0」公開中 (@KazuhiroSoda) January 6, 2019
これを受けてのもの
Netflixの『クィア・アイ』を観てたんですけど、ふと疑問が。
— BuzzFeed Japan (@BuzzFeedJapan) January 6, 2019
「ねぇ、○○よ」
「○○だわ」
こういう英語のセリフの男言葉・女言葉って、どんな基準で翻訳しているのでしょうか?Netflixに聞いてみました。 https://t.co/0mrXnb4cKp pic.twitter.com/lhGhPx0FFy
https://www.buzzfeed.com/jp/kaorunakamichi/netflix-queereye
ちなみにブクマでは呉智英氏を知らないひとによって、氏が「言葉狩り」を進めているように誤解されてる向きもあるがあの人の場合「差別かもしれないが、それでもいいではないか(※そこには「文化の厚み」という別の概念があるのだが、そこは略す)」という独自の解決法があるからな。それが採用されないだけで(笑)。で、「見過ごされているのに、思想的な意味では共通している」事例を発見するのが巧い。
過去にここでも紹介しているので、いくつか列挙しておこう。
…どうしてビキニなのか。「広辞苑」にこうある。
「ビキニ:南洋群島マーシャル諸島の北部に位置する小島。アメリカの原子爆弾、水素爆弾の実験場 2:(着用時の効果は戯れに核爆発になぞらえての称)胸と腰だけを覆う形の婦人用水着」
露出度の高い水着をつけた時の注目効果がまるで原爆並みという意味で「ビキニ」なのである。ユーモアの気持ちを込めて原爆が使われているのである。かくして夏の季語のように「ビキニ」という言葉は商品化され、人々の耳目をそばだたせて今に至っている。しかし良識家の家誰一人としてこれを問題にしようとしない。
既成事実となれば勝ちなのだろうか。外国のことだから許されているのだろうか。
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江戸黄表紙の研究に来日しているアメリカ人留学生に質問されて苦笑したことがある。「先生、日本って何だか飲食店従業員が犯罪に巻き込まれることが多くないですか。日本の特殊事情でもあるのですか」と。確かに、別の意味で日本の特殊事情によるものだ。
読者諸兄諸姉も、新聞やテレビの報道でこんなことに気付かれないだろうか。”飲食店従業員”が殺されたり、暴行を受けたり、監禁されたり、脅迫されたり、という事件が多いことに。そして、こんな報道を見ていると、飲食店従業員って危険な職業なんだなと思えてくる・・・ことはないな(後略)
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…『中華と中国』(単行本76巻)は、来日した支那の要人が日本の「支那そば」に怒り出す話で「支那という言葉がどんなにいい言葉であろうと、蔑称でなかろうと」「相手がいやだということはしない」というのがその啓蒙的な結論だ。
とうてい納得できぬ。「いい言葉」を「相手がいやだという」のなら、その蒙をひらいてやるべきだろう。その努力を放棄してきた怠惰で卑屈な連中が自称良識派なのだ。
つい先日の9月25日号の『美味しんぼ』では『恵みの貝』としてハマグリを扱っている。本当に美味しいのは桑名のハマグリで、広く売られているのは味の落ちる輸入・蓄養もののシナハマグリだ、としているのだが、この「シナハマグリ」はいいのだろうか。標準和名だとでも言うかもしれないが、「支那そば」「支那竹」に怒った支那の要人が「シナハマグリ」に怒らないとは思えない
……大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書)の真偽を巡って係争中の裁判の報道もあった。その中に、えっと思う記述があったので『沖縄ノート』を読んでみた。
第九章にこうある。
沖縄住民に集団自決を強制した(と大江が断じている)元守備隊長は一九七〇年春、慰霊祭に出席すべく沖縄に赴いた。それは「二十五年ぶりの屠殺(とさつ)者と生き残りの犠牲者の再会」であった。自決強制の有無の検証は私の任ではない。私が驚いたのは虐殺者(大江の見解での)を屠殺者になぞらえていることだ。
これ、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として部落解放同盟と屠場労組の苛烈(かれつ)な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬ者はない。
一九八二年、俳優座のブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』は改題してもなお激しい糾弾に遭い上演は困難を極めた。これについて部落解放同盟などは「だれだれの作品だから差別はないと“神格化”したものの考え方を一掃したい」と言明した。
また、一九八九年には『沖縄ノート』と同じ岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)の中の「戦場という異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述が問題にされ、回収処分となった。
それで一言言うとさ、突然BSから教育テレビに変わっちゃうけどさ(笑)。
これ暴力シーンさっきから出ているでしょ。良識家の人が「こういうのは…」とか言う。(略)大学でこういうのを扱うときもいってるんだけどね、こういう、ある意味けしからんマンガなわけですよ。そういうものをどう考えるかっていうときにね、ふつう言論の自由とか表現の自由なんて言うけど、俺ね、そういうバカなこと言いたくないから(笑)、いつもね俺、本居宣長のこういうのを引用するのね(笑)。
本居宣長の歌論、文化論ですね、うた論。
(歌の中には)
政のたすけとなる歌もあるべし、
身のいましめとなる歌もあるべし、
また国家の害ともなるべし、
身のわざわいともなるべしってんだよね。で、そういうものがあっても人間の真実が描かれているものは芸術であり文化であるって、本居宣長が言ってるんだよね。
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……網野善彦らがアジールに注目する著作を発表し始めた時、保守本流ともいうべき学者達はこれに対して冷笑的であった。なぜならば、近代においてアジールなどはあるはずもなく、もしあったとすれば絶滅されるべき陋習の空間に違いないからである……
…近代国家内部に国家権力の及ばない異質な空間などあろうはずがない。そんな異質な空間があるならば、国家権力と相互補完の関係にある人権がそこには及ばないことになる。そんな前近代的なことが許されていいわけがないからである。
論理としては、こちらのアジール冷笑派のほうが徹底している。
……世俗空間は、世俗権力の論理が貫徹されるべき空間であるのと同様、アジールにはアジール特有の聖なる論理が貫徹されているのである。世俗権力からアジールに逃げ込んだ者は、聖なる論理によって保護もされ、処断もされる……
…美であると否とにかかわらず、差別は差別なのだし、差別であると否とにかかわらず、美は美なのである。二つは別の価値観によるものなのだ。とすれば、二つの価値観による組み合わせは次の四つになる。
1:美しくて差別でないもの
2:美しくなくて差別でないもの
3:美しくて差別であるもの
4:美しくなくて差別であるもの。このうち最悪の組み合わせである4は特に擁護する値打ちはなく、 批判されても誰も反論はしないから議論が起きない。最善の組み合わせである1も誰も批判や球団はしないから議論が起きない。2も消極同士の組み合わせであるから目立つことがなくやはり議論は起きない。結局いつも3の「美しくて差別であるもの」だけに議論が起きる。
そのため124を含む四つの判断の組み合わせがあること、すなわち二つの価値観の並立こそが議論の本質だということが見えにくくなっているのだ…
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…先月朝日新聞夕刊コラム「素粒子」が鳩山法相を「死に神」と呼んだ。就任から一年足らずで十三人の死刑執行を命じた法相を諷刺寸評したつもりらしい……「全国犯罪被害者の会」も、我々に対する侮辱でもあると、抗議している。
(略)
「素粒子」にも理がないわけでもない。これが権力者批判だという点だ。権力に携わる公人への批判には名誉毀損の例外条項もある。要するに、公人には批判を甘受する義務があり、国民やマスコミには公人を批判する権利がある。問題は……権力批判が差別と同居していることもある…(略)
ちなみに呉智英はこの「なぜか英語にすると見逃してくれる」風潮にも以前突っ込んでまして、アメリカの銃社会を批判する進歩的ニュースキャスターがアメリカをなんども「ガン・クレイジー社会」と表現したのに対し「なるほど、もっともである。ただし分かりにくいから、ぜひ日本語で言ってほしいものだ」と…
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「これは、十数年前には日共系の人々の間でしばしば論議になった「ピラミッド問題」と同種のものだ。つまり、民衆の文化・良い文化と支配者の文化・悪い文化という公理があって、ピラミッドはどうか、という問題である。ピラミッドは王族のために作られたことは否定できず、さりとて、一方で日共は、資本家たちが営利追求のために京都や奈良の文化遺産(多くは、日本の王族のものだ)を破壊することを非難しているし、ピラミッドは残すべきか、ブチこわすべきか、という問題だった。そこで、折衷的に言われたのが、「作ったのは民衆だ」というリクツである」
ここからが面白い、呉智英氏の面目躍如である。「このデンでいけば、侵略用の兵器は、特に近代の総力戦では「作ったのは民衆」である。
はい、半分も紹介し切れなかった(笑)。こういう芸風で大体半世紀おやりになっています。この機会に遡って紹介しました。
- 作者:智英, 呉
- 発売日: 2018/08/03
- メディア: 新書
- 作者:呉 智英
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- 作者:呉 智英
- 発売日: 1996/07/01
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