いま、やじうまワイドで報道を見て検索した。
http://www.kahoku.co.jp/news/2008/02/20080206t33026.htm
岩手県奥州市水沢区の黒石寺に伝わる伝統行事「蘇民祭」を13日に控え、関係者の緊張が高まっている。過去には一部参加者が全裸で境内を歩くなど風紀の乱れが問題視され、警察から指導を受けたこともあった。今年はJR東日本のポスター掲載拒否騒動で注目度が高まっており、寺や市などは「風紀が守れないと存続が危ぶまれる」と、下帯着用などマナー順守の徹底を呼び掛ける
このまつりは例の、JRがポスターを拒否したという祭り。
やじうまワイドによると、「警察から今年、強い警告が入った」らしい。
記事によると「もともと参加者は全裸だったが、戦後は下帯着用が広がった。」という形で既に変質していたが、ただ同じくやじうまワイドによると、袋を開けてお札をまく役目の人は「うまれたままの姿」でやるのが本来の伝統なんだという。
で、上の記事にはないけど今回は警察が厳しく「全裸は取り締まる」と言い出したそうなんだわ。
そりゃまあそうだな、まつり=伝統=宗教に、国家=法が対峙するその時には、原則として国家が全面勝利をするはず。
恒例じみてきたが、呉智英を引用しよう。
……網野善彦らがアジールに注目する著作を発表し始めた時、保守本流ともいうべき学者達はこれに対して冷笑的であった。なぜならば、近代においてアジールなどはあるはずもなく、もしあったとすれば絶滅されるべき陋習の空間に違いないからである……
…近代国家内部に国家権力の及ばない異質な空間などあろうはずがない。そんな異質な空間があるならば、国家権力と相互補完の関係にある人権がそこには及ばないことになる。そんな前近代的なことが許されていいわけがないからである。
論理としては、こちらのアジール冷笑派のほうが徹底している。
……世俗空間は、世俗権力の論理が貫徹されるべき空間であるのと同様、アジールにはアジール特有の聖なる論理が貫徹されているのである。世俗権力からアジールに逃げ込んだ者は、聖なる論理によって保護もされ、処断もされる……
そのまつりを「公界」にできない以上、やむなしか。