憲法記念日なので、少し床屋法哲学政談。
例によって、あまり急を要さないトピックなんだけどね…この前、何の拍子か(緊急事態の話か、共同親権の話題だったかな…)で、憲法学者の木村草太氏に関する5ちゃんねるスレッドに迷い込んだのよ。
特に全体的に参考になる、とかじゃなかったけど、このトピックには、うーーーーんと考え込みました。
以下では「4」氏と、「5」「6」氏が論争している形です
4法の下の名無し2016/09/27(火) 17:44:58.55id:aElU3iGl
自民憲法改正草案は、人権を踏みにじる憲法改悪であり自民党は自由と民主の看板を降ろすべき1 天賦人権を否定し憲法97条削除より人権の歴史的由来も削除したことにより、国賦人権が成立することになる。
人権は国家が保証することになり公共の福祉以前に国家権力が幾らでも人権を否定できる。2 国民を「個人として尊重」から「人として尊重」に変えたのは、国民の個性や信条、良心を否定し、動物的なヒトとしてしか尊重しないナチス的価値観の再来というべきものである。
3 「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」に変えたが公益にしても公の秩序にしてもイメージし易い分、人によりイメージの内容が異なる。右の人の公益と左の人の公益は全然異なる。
そうなると、政権交代毎に人権制約の基準が変更されることになり、法的安定性を害することになる。4 拷問の絶対禁止から「絶対」を削除した理由について何も述べてない。例外として拷問を実施することができる。
5法の下の名無し2016/09/27(火) 19:31:36.06id:G9KNHek0
>4
ドイツ連邦共和国基本法1条 Die Würde des Menschen ist unantastbar.
(人間の尊厳は不可侵である)これもナチスなのか?
6法の下の名無し2016/09/27(火) 20:18:23.73id:V3psTzjS
>4
http://i.imgur.com/tCHJOxu.jpg
無知すぎ
この中で、特に「6」が示したのは…
リンク先はここのようだね。
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf
わかりる????
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有(きょうゆう)を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
与へられる
与へられる
与へられる・・・・・・
与へられる・・・・・・・・・・・
エコーをかけてもしゃあないが、要はこの自民党草案作成者は、こうケンカを売ってるわけだ。
【「与えられる」ってことは、誰か(おそらくは「天賦」ならば「天」)がわれわれに人権を「与えてくれた」という立場に立つんだろ?うちは、誰かに『与えられる』じゃなくて、元から人間が「享有”する”」「侵すことのできない永久の権利”である”」としているから、むしろ誰かから与えられる、より権利は強化されてるんだよ。ドヤアアアアアア】
ちなみに、故西部邁は、この「与えられる」といったものにおいては、与えた主体を、『伝統』なるものであると仮定することでの保守主義を唱えた。
そこで、チェスタトンの「先祖には、墓石を以て投票してもらおう」と言った言葉を紹介してたな。
というか、西部氏は西部氏で改憲案を世に問うていたし。
- 作者:西部 邁
- 発売日: 2020/04/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
権利が天からか「与えられる」のか、元から「享有する」かなんて、絵空事の”架空設定議論”なんだろうけど。
実のところ、これが「架空設定」の議論だからこそ、自分は面白がって論じているのだけれども(笑)
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抜粋
もともと「主権」ってだれがどう持っても、実体なんて無くて百もしないシロモノである、という議論もあったよな。
これは例の呉智英氏の処女作
- 作者:呉 智英
- 発売日: 1996/07/01
- メディア: 文庫
封建主義者かく語りき (双葉文庫)
でも分かりやすく示されているね。
「国家は『借家』で十分である」というタイトルで、リンカーンの有名な「人民の人民による人民のための政治」という言葉を引き「人民による」「人民のための」は実際に必要な理念だが、「人民の」という部分は、ようは気分に過ぎないんじゃないか、という指摘をしていた。
例えば「この国の主権は、あの山のお天狗様にある。寄合集はその主権を代行して決めているだけじゃ」なんて法理論の国(どんな国だよそれ)があっても、ホントに天狗がやってこないかぎり、人民主権の国と実質的には代わらないと。それがいい政治か悪い政治かも、また別の問題でしかないと。
これって頑固オヤジのくりごと?
いや、彼(※呉智英)はこの根拠を、当の人権を格調高く訴える文章から引用する私は奇矯な言辞を弄しているのではない。ここに、世界の主要な人権宣言を集成した「人権宣言集」(岩波文庫)がある。
この本は、私の主張とは全く逆に、人権思想・民主主義がいかに大切ですばらしいものであるかを訴えるために編まれた。その解説文にこうある。
人権宣言には「形而上学的傾向」がある、と。
また、このことは、人権宣言全文の「最高存在の前でその庇護の下に宣言する」という条にも読み取れる、と。
ここで「形而上学」とは、論証不可能な超越的原理に依拠した観念体系という意味である。つまり妄想体系、イデオロギー体系ということだ。人権思想・民主主義を広める意図で編まれた『人権宣言集』にこう書いてあるのだ。そのくだりを探してみっかー。
http://yaplog.jp/onvaaparis/archive/11En conséquence, l'Assemblée nationale reconnaît et déclare, en présence et sous les auspices de l'Être Suprême, les droits suivants de l'homme et du citoyen.
したがって 国民議会は最高存在の目の前で そしてその保護のもと、次にあげる人間と市民の権利を承認し、宣言する。あ、あった。呉智英は上の文章の中で、フランス革命中に行われたこの「最高存在」の祭典を「統一教会の集団結婚式もかくやと思わせる」と皮肉っている。
イラン憲法は預言者ムハンマドからイマームが統治権を継承し、それがイスラーム法学者たちに受け継がれていると、ちゃんと書き込まれているとかいないとか。
この前クーデターでつぶれた民主エジプト?での憲法つくりでも、それが問題になった。
彼等は現在の憲法(確か第2条か?)の規定する「シャリーアの諸原則はエジプトの主要な法源である」との規定に代え、「シャリーアはエジプトの主要な法源である」であるとのより直截な表現に訂正することを要求している
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/4332281.htmlまあ「法律の源」は何か?なんてのは遡って考えると終わりが無い話で「人権」も「シャリーア」も「十戒」も「最高存在」も、どれもフィクションである。ならここに「わが民族の伝統と慣習」が入っても、かわらない・・・いや大いに変わるんだな。そして人権の神秘的な正統性もある意味失われる。
ただし、架空であっても「実際の権力者より、さらに一段上の存在」を仮定すれば、それが歯止めになる。
先月の「ヴィンランド・サガ」に絡めて紹介したいところだが、記事が長くなってしまうな。分割して、別の記事としよう。
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に書きました。
憲法11条の「与えられる」という言葉の意味は、深い…かもしれないし、何も考えてないかもしれない。
現行憲法の、この「与えられる」というのは、誰から与えられるのか、って話は、確かにあまり考えたことが無かった。
んで、「与えられる」を「享有する」にすると…正確には『基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に”与へられる”。』を『”享有する”。/永久の権利”である”』に変えると、むしろ一段、人権の保障が高まるだろ???
という、自民党草案の主張、自分は特に反論するすべはない…というか、あるとしたら、このあと別記事で紹介するヴィンランド・サガの話みたいなのになるからな。
そして、上に書いたように「どっちみち『架空設定』の話だろ?」という思いもある。
ただ、自民党草案なら、何かしらうさんくさいものだろう、という雰囲気での決め付けもしておきたい(笑)
なので、上記の「与えられる」より「享有する/権利である」という言い切り方のほうが進歩だろ!ドヤアア…という自民党案への反論、ブクマにでもしておいておくれ。