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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「天賦人権説」の議論(否定論)について、ちょっと資料を記憶で紹介しつつ

いま、twitterを中心にネット上では「天賦人権論」についての議論がわーっと盛り上がっているっす。正確にいえば、今はその盛り上がりのピークをちょっとすぎたかな・・・。

リンク集的なものもいろいろあるみたいだけど、まず
天賦人権 togetterでの結果を紹介する。

そしてわれらがはてなダイアリーの関連記事は、「はてなキーワード」で一目瞭然だっ。

はてな「天賦人権論」
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%B7%C9%EA%BF%CD%B8%A2%CF%C0
はてな「天賦人権説」
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%B7%C9%EA%BF%CD%B8%A2%C0%E2
 
あるいは、はてな内の関連で、一番ブクマがついてるっぽい記事
■ 天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか?
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20121212


自分が遅れて今から書き始めるのは・・・ふたつの資料を探していたのだが、山に埋もれて結局みつからず、捜索をうちきりにしてこれから記憶頼りに書き始めるからだ。かなり記憶は正確だと思うのだが、実際にその原文を紹介できるのよりはインパクトは薄れてしまうだろうけどね

天賦人権論で呉智英西部邁vs福島瑞穂というマッチメークがあった。

ときは1989年大晦日!! 大晦日に、その年1年を振り返る朝まで生テレビを行う、という企画が始まって、たしか2年目。視聴率も話題性、社会的反響も絶好調のころで、こうやって活字化もされていたのだ。
「激論!平成の日本と90年代の道」

当然1989年大晦日の討論会、ということは「昭和天皇崩御」「天安門事件」「ベルリンの壁崩壊」などがテーマになり・・・あとは空前のバブル景気による人手不足で「外国人単純労働者受け入れ」が大きな討論テーマになっていた、というのが時代かな。

そこに、まだ一介のタレント弁護士であり、後に社民党を率いる政治家になるとはつゆほどにも思われていなかった福島瑞穂氏が出演、まだ髪の毛があったころの呉智英氏も登場していたしだい。で、まさにどんぴしゃの議論をしていたのだな。
福島氏「人権というのは天から降ってきたように、われわれにあって・・・」
呉氏「そんなはずは無いでしょう!」
そこに西部氏が野次というか途中参戦して、福島氏を散々に否定した
と。

うーん、記憶頼りだとこの議論のニュアンスが再現できねー!
 
録画はしてあったが、映像ビデオなんかどこにあるかわからんし、あってもカビまみれだろうし・・・だれかにyoutubeをあげてもらうか、該当活字化本を入手してもらうしかない(トホホ、どこかにはあるはずなのだが・・・)


さて、ところで呉智英氏は、どこかのメイのおねえちゃんと同じ名前の人がいうような、

katayama_s 2
国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!

な話なのだろうか。というとそーではねー。だからややこしく、正確に文章を引用したかったんだけど。
要は
「それって真理じゃなく、虚構の概念だよね?ひとつのイデオロギーだよね?。ありていに言えばウソだよね?」
という一点に集中している、のですよ。

で、この議論を集中的に書いているのが、実質的な呉智英のデビュー作

封建主義者かく語りき (双葉文庫)

封建主義者かく語りき (双葉文庫)

だったのだが・・・おいおい記憶頼りに書くとして、手元に資料がある
サルの正義 (双葉文庫)

サルの正義 (双葉文庫)

から引用したい。
ここには「民主主義をこそ疑え」「民主主義・人権思想の裏側」とい2本が、1992年に書かれた文章として収録されている。その「裏側」にこうある。

人権思想、すなわち、民主主義を容器とするその中身は、果たして人類の至宝のような真理なのだろうか。結論を先に言おう。人権思想なんて、何の根拠も無いただの妄想にすぎない。妄想が言い過ぎなら、イデオロギーと言い換えてもいい。イデオロギーの時代が終わって人権重視の時代が来ただなんて、覚醒剤をやめてシャブを始めましたと言っているようなものだ。

最後のくだりは、かなり我々の界隈では受けた言いまわしで、当時流行語となった(笑)。


これって頑固オヤジのくりごと?
いや、彼はこの根拠を、当の人権を格調高く訴える文章から引用する

私は奇矯な言辞を弄しているのではない。ここに、世界の主要な人権宣言を集成した「人権宣言集」(岩波文庫)がある。

人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

この本は、私の主張とは全く逆に、人権思想・民主主義がいかに大切ですばらしいものであるかを訴えるために編まれた。その解説文にこうある。
人権宣言には「形而上学的傾向」がある、と。
また、このことは、人権宣言全文の「最高存在の前でその庇護の下に宣言する」という条にも読み取れる、と。
ここで「形而上学」とは、論証不可能な超越的原理に依拠した観念体系という意味である。つまり妄想体系、イデオロギー体系ということだ。人権思想・民主主義を広める意図で編まれた『人権宣言集』にこう書いてあるのだ。

そのくだりを探してみっかー。
http://yaplog.jp/onvaaparis/archive/11

En conséquence, l'Assemblée nationale reconnaît et déclare, en présence et sous les auspices de l'Être Suprême, les droits suivants de l'homme et du citoyen.
したがって 国民議会は最高存在の目の前で そしてその保護のもと、次にあげる人間と市民の権利を承認し、宣言する。

あ、あった。呉智英は上の文章の中で、フランス革命中に行われたこの「最高存在」の祭典を「統一教会の集団結婚式もかくやと思わせる」と皮肉っている。
 
もうひとつ、アメリカ独立宣言を取り上げよう。
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/declar.htm

・・・自然の法や自然の神の法によってその資格を与えられている独立した,対等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となるとき,人類の意見をしかるべく尊重するならば,その人民をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要とされるだろう.
我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている・・・
・・・宣言を支えるため,神の摂理への堅い信頼とともに,我らは相互にその生命,財産,そして神聖なる名誉を捧げあう・・・

うむ、神様か。
だから意地の悪い言い方をすれば、「最高存在」「創造主」というものがそもそもウソ、不存在な場合、これらの宣言の効力って? 
あるいは「創造主や最高存在の実在は認めないが、この宣言には賛成」という立場があるか、どうか。
たぶんあるんだろうな。
なら「天賦人権説を否定するが、人権規定には賛成」という立場はあるか。

実は、呉智英はさきに上げた福島瑞穂とのテレビ論争で「実定法としての人権規定はすべて認めていい。だけど、なんで人権が天から降ってくるんですか」(記憶による要約)と、まあそう言ってるんですね。

このへんの「事実か、事実でないか」については、また類似した論争があって・・・と、すいません、これも記憶頼りです。
福田恆存丸谷才一の論争があった気がする・・・

丸谷氏が憲法批判・・・といってもいまのじゃないですよ(笑)、大日本帝国憲法を批判した。それは「日本国は万世一系天皇之ヲ統治ス」というのを、「万世一系が本当かもわからないし、これから続くかもわからない。そういう『ウソ』を大日本帝国憲法は書いているのデス」と見得を切ったのに対し、福田氏はまさに上のアメリカ独立宣言を紹介、「虚構によって支えられているのはどこの国も同じだ」と反論した・・・はずです(福田全集のどこかに入っていると思う。自分は全集しか読んでいないから)。


さて、そんな話をしたところで、「封建主義者かく語りき」も記憶頼りで紹介したい。
「国家は『借家』で十分である」というくだりが、たしか同書にはあったはず。
ここでは
「人民の、人民による、人民の政治」という有名なリンカーン演説の一節を論じる(別の訳し方については、とりあえず置く)

呉氏はいう。

「人民による政治」、「人民のための政治」は必要だということはわかる。しかし「人民の政治」って?「主権」ということ? それって、だれが持ち主かという議論ならば「気分の問題」なんじゃない?

と。
まあこれも実感としてわかるな。
「女王陛下の国」で公正な選挙や自由な言論、出版が保障されているのと、
「民主主義人民共和国」においてアレがアレな状態なのと、どっちがいい? と並べれば一目瞭然だ(笑)。これと同じ区分けを、これまた福田恆存氏が50年代か60年代にしていたっけ。
それに「この国はだれのもの?」は、たしかに観念の世界の話ではある。

何度かネタにしたが、神聖モテモテ王国ながいけんには早すぎた、中ニ病を描く「心の魔王 平口君」シリーズがある。
平口君は全宇宙を支配する魔王で、全人類は彼の下僕。ただ、彼一人がそう心の中で思っているだけで、地球はこともなく平和だ・・・というストーリー。いうこと聞かないやつらは「クーデターをたくらむ一派」だそうだ(笑)。

チャッピーとゆかいな下僕ども 大増補版

チャッピーとゆかいな下僕ども 大増補版

また小松左京は「売国奴」ならぬ「売地球奴」を描いたSSを書いている。ある商人が告白する。
「もう地球はすべて、とある宇宙人の持ち物。私が売り飛ばしちゃいました。ただその宇宙人は粋な通人で、そのままの地球を愛でてくれているので、何も変わりません」と。
メフィラス星人よりは、とりあえずイキであるな(笑)。
 
イランの故ホメイニ師
イスラム政府とは、神によって国民を統治する政府のことである。この政府の運営では、主権はもっぱら神に属し法は神の意思と命令によって制定される」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000189753/
と語った。イラン政府はこと中東限定ではトップクラスの民主制が敷かれている(マジ)一方でとんでもない抑圧もある。しかし、主権が神にあるから抑圧は神の責任なのか、あるいはある程度の自由は神のおかげかというとたぶん違うだろう(笑)。
 

もちろん、主権の大切さというのは別の形から論じることもできる。おそらく「保障」ということだろう。それは「国の主権」というものとも比較できる。


ただ、「人民の人民による、人民のための政治」のうち、どれかを捨てる事態(へんな設定だが)になったら、とりあえず「人民の」が一番ダメージが少ない・・・というのは、共通認識なんじゃないかと思う。
さて、そのとき下にコマを貼ったナポレオンは証拠か、反証か。

でも天賦人権にしろ国民主権にしろ「『ある』と見なす」ほうが便利なんじゃない?

でしょうね。
実は呉智英氏、また最初に戻るけど、上のテレビでの天賦人権論ならなにやらの発言のとき、記憶によれば前もって「実効性の無い議論をさせてくれ」と断っていたのである(笑)。で、他のテーマをしゃべりたくてうずうずしている他の論者から「実効性の無い議論はそのくらいにして」とか「NHK教育テレビみたいな議論」と言われていた(笑)。


片山さつき氏らが「実効性の無い議論」として上のような話をしていたかというと、たぶん一番遠いところにいる(笑)てゆーか、今回の話題が盛り上がったところで「天賦人権論の否定は大暴論である」となると、上の独立宣言や人権宣言に創造主や最高存在が持ち出された「形而上学性」「虚構性」を指摘する議論まで暴論扱いされかねないと懸念して、今書いているんだが。つまり「こっちくんな」的な(笑)。

もっとも、上のさまざまな検索記事の中にはこの部分を織り込んでいるものも予想以上に多かった。
たとえばこれ

■天賦人権説はフィクションだとして、その後は・・・?
http://d.hatena.ne.jp/dokai3/20121212/p1

概念として「王(権力)より上」のものがあるありがたさ―湯武放伐論から

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/moushi002.html

[口語訳]斉の宣王が尋ねておっしゃった。『殷の湯王は、夏の桀王を放逐し、周の武王は、殷(商)の紂王を討伐して天下を奪ったというが、これは事実なのか?』孟子はお答えして言った。『歴史の伝承記録ではそのように伝えられています』宣王は言われた。『家臣の身分でその主君を殺すというのは認められているのか?』孟子は言った。『仁の徳を破壊する者を賊といい、正義の実践を邪魔する者を残といいます。残・賊の罪を犯して徳を失った者は、単なる一夫(一人の民草)に過ぎません。武王が天命を失った一夫である紂を誅殺したとは聞いていますが、いまだ君主である紂に反逆して殺害したとは聞いたことがありません。』

まさにアジアにおける革命思想であり、宮崎滔天が通っていた結社には看板にでかでかとこの「聞誅一夫紂矣,未聞弒君也」の文字が掲げられていた、とか。
 
ウィキペディアの「孟子」も見てみよか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90

孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の革命説の原型をなしている。
孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下を遣り取りすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断されるのである。
(略)
このように、孟子の天命説は武力による君主の放伐さえも容認するものであった。しかしながら、孟子は革命の首唱者であっても革命家ではなかった。その天命説も放伐を煽動するのではなく、むしろ規制するためのものであったといえるだろう。
(略)
孟子が湯武の放伐を正当化したのは、あくまでそれが天命によってなされたからであり、もし天命によっていなければ、つまり君主が不仁不義でなければただの簒奪となる。周王室の力が衰え、各地で君主が臣下に国を乗っ取られる乱世にあって、孟子はその下剋上に道徳性を求めたと見るべきだろう。
このことはルソーの社会契約論と酷似している

ついでにいうと、万世一系の日本では危険な書として「孟子を積んで中国からやってくる船は嵐にあい沈む」という都市伝説?まで流布された(笑)。

しかしまあ、この偉大なアジアの革命原理も「本当ですか、ウソですか?」と聞かれれば、ごりごりの『儒教信者』以外は「まあ、ウソだろうね」「そんな『天』は実在しないよ」ということになろう。



かといって「じゃあこの考え方は間違いなんですか?」と聞かれれば、「いやいや為政者たるもの、そして一般民衆も心しておかねばならない政治原理である」となるだろう。


「天賦人権」も、構造は同じなんだ。というかあらゆるイデオロギーはその構造は同じなんだ。そしてそうだけれども、なんか神聖な、不可侵なものである「かのやうに」振る舞われている(いなければならない)ものなのだ。

こうすることによって実務的に有効なのは「ある時期の議会多数派が『多数決』で決められることに制限を課す」ことができることにあるだろう。議会で「4年の任期やめて、今いる議員は終身制にしようず!!」という案が出たら、誘惑に駆られる議員は多いだろう。しかし、それは認められないとか・・・ちょっと例がアレだったな。



・・・と書いて、これを説明する、ぴったりの言葉を思いついた。
それは
ケーフェイ
なのだが、惜しむべしこの言葉に一般性が無さ過ぎる(爆笑)。

天賦人権(民主主義)のイデオロギー性は「密教顕教」なのか?たとえば学校教育で・・・

最後に。
この話は「実効性がない」というのが呉氏も認めるところであるが、呉智英氏は一方で「民主主義の『顕教』と『密教』について書いていた・・・お、手元の資料から見つかった。

危険な思想家 (双葉文庫)

危険な思想家 (双葉文庫)

収録の「民主主義の顕教密教と人権朱子学の崩壊」である。
ご存知の通り、仏教の顕教密教という言葉を、戦前の天皇イデオロギーの比喩として使った久野収氏の論考があって、それを呉智英は語る。

顕教密教とは・・・広く衆生にも理解されるように顕(あきら)かに説かれたのが顕教、真理が理解できる者にのみ密(ひそ)かに説かれたのが密教、という区分である。天皇制にも同じ二側面が観察でき、尋常小学校卒業程度の大多数の国民には顕教として天皇は神であると教え、高等教育を受けるエリートには密教として、天皇は神ならぬ単なる機関にすぎないと教える。これが天皇イデオロギーの狡知である、と久野収は言うのだ。

久野氏をほとんど評価しない呉智英氏も、この論を「見事な説明だ」と賞賛する。しかし・・・そこに付け加えるのだ。「民主主義や人権についても、この顕教密教はあるんじゃない?」と。
で、民主主義の卸問屋たる岩波書店の本の中にすら、既に紹介したように「人権宣言の特徴は形而上学的傾向」があると書いている、と皮肉る。


実際、今回の「天賦人権」騒動は騒動だけど、
「天賦人権はフィクションであるが、そう考えるといろいろ便利なんです。だからそれがあるかのように、みんなで見なしているんです」
ということに納得する人は、これは結構多いのではないか。

かといって、小中学生に「人権」を学ばせるとき、センセイが「はーい、よいこのみんなは覚えておいてね。人権というのはフィクションなんです。確実に根拠があるというものじゃないんです」と教えていいかどうか・・・・・・。



さて、疲れてきたので、なんか言い残したことがあるような気もするけどおしまい。

追記、おお、「おおやにき」12月15日付でこの話題だ!

関連エントリー紹介機能で見つかった。はてなすげーYO。
今から読み始めるが
題名が
憲法使いの弟子」という段階でワクテカ(笑)

憲法使いの弟子
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000904.html

おおや (2012年12月15日 20:45) | コメント(0) | トラックバック(0)
 
「だまれ俺は芦部信喜教授の孫弟子の同期だぞ」ってのはどうか(挨拶)。憲法問題だから「ノモス主権論尾高朝雄教授四世の孫弟子」の方がいいかな。しかしその、尾高宮澤論争以来の敵対派閥(笑)だからというのではないが・・・(略)
 
国家の存在しない無人の砂漠の真ん中にひとり装備もなく放り出されたとして、そのとき私の行動や選択を束縛する何物も存在しないので自由はまったく損なわれていないというのも一つの解釈。でもそれすぐに死んじゃうし結局どんな可能性も実現できないよねえというのも一つの解釈。前者は古典的人権としての自由権に対応しており、後者はより新しい人権概念に基づいている

追記2 呉智英の動画

あ、後で見つけた。
ちょっと違うけど3分20秒ぐらいのところが関連しているトーク
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