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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「センゴク」最終章、その役回りが「真田に敗北した徳川秀忠に寄り添う」って出来過ぎてる史実……

ナポレオン覇道進撃」と並んで、節目節目で紹介する歴史漫画「センゴク」。今最終章と言うか、エピローグであることはお伝えした通り。


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この時書いた話は、だいたい当たっていたようだ。

センゴクはどんどん史実を重視するスタイルとなってきたから、仙石権兵衛がこの時代(太閤死去から江戸幕府成立まで)に、八面六臂の大活躍をするというのはあり得ない。』

『だが、上のような「激動の時代を、舞台の中心に立っているわけではないが、ある場面では演者、ある場面では『特等席』で見つめている観察者」というポジションで描く戦国時代の終わりが、意外なほど面白い。』


そもそもで言うと、仙石秀久は大きな敗戦や改易を経験し、そこから這い上がって大名に復帰したのはすごいが、最終的に石高的には「こじんまりとした小大名」で終わった人物。
司馬遼太郎が「調べたけど小説にするまでもなく、エッセイに書いて終わらせた」人で、そのエッセイ集のタイトルも「余話として」ってのは、あらためて思うと地味にヒドい(笑)


しかも彼…司馬遼太郎はノリノリで「権兵衛程度の男でも、よくまあ大名になれたものだ。という実感が湧く」「元来その程度の人物」「こういう似而非大将ほど、自分の無能を権威と装飾によって隠そうとする」と、まあ言いたい放題でね、結論的には「仙石程の小物を重用するほど、秀吉は譜代の部下がいなかった」ことの証明にしてたり(笑)。
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自分がサラリーマンで見立てると
「順調に出世して、取締役に手が届くまで行ったが、そこで大失敗して網走支社に飛ばされた(「網走支社」への風評被害ご容赦)。だが、なんとか業績を上げて、元の地位とは言わないが部長級の役職に戻った」ひとなんです。


だが、そもそもその浮沈に注目して、名前の「センゴク」ともひっかけ、「もっとも多く失敗し、もっとも多く挽回した男」を戦国時代の象徴として敢えて注目した、というのがこの作品のコンセプト。

そうであることは知っていたが……。

この16世紀から17世紀初頭を彩り、そして終焉を迎えた戦乱の時代の締めくくりに、仙石が立った(あるいは観覧した)舞台が「のちの二代将軍・徳川秀忠が、後世にまで伝わる汚名を残した『真田討伐の失敗』に立ち会う」というのは、あまりに象徴的すぎるだろ。

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センゴクシリーズ、仙石秀久の最後の仕事は「真田攻めに失敗した秀忠に寄り添う」

なるほど信州・小諸の城主なら、位置的にも情勢的にもそこに参加しておかしくないが………

これが締めくくりなんて、ほんと「できすぎ」である。
いや、こんな関ヶ原のど真ん中ではない、サイドストーリー「でしかない」ものを「あまりにも出来すぎだ!象徴的過ぎだ!」と思わせるのは、そもそも最初からスコープの焦点を「失敗と挽回」に合わせていたからこそで……


うーんこれ、企画の当初から、連載開始時から見据えていたんだろうか?いや、それはさすがに…だってこの作品、シリーズを一体で考えれば、ヤンマガ連載陣で最長老の世代でしょ!? それだけ描いて、やっとここまで到達したんだよ?どこか途中で終わる可能性だって十分にあった(小田原の陣と、そこでの武功による大名復帰とかさ)


だとしたら、ジグゾ―パズルをやる時に必死で目の前のピースをくっつけていったら、あとは最後にぴしっ!と最後のピースがはまるようなものかもしれない。



上のサラリーマンの喩えでいうと、「ワンマン会長の後を継いで社長になったのは、その会長直系、子飼いではないが実力を誰しも認める重役。たまたま、その息子がプロジェクトリーダーになった企画に、部長に復帰した主人公もかかわったが、社長の息子は大失敗(その部下が暴走したり命令が急遽変更になったりで、本人は理不尽さを感じている)。失意の彼を、主人公は「私も大失敗を経験しました」という立場から寄り添い、心を通じ合わせる……」

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センゴクシリーズ、仙石秀久の最後の仕事は「真田攻めに失敗した秀忠に寄り添う」

って感じだよね。島耕作シリーズの脇役で出てきそうな、おいしい役どころだ(笑)

で、自分はこの回を読んで「ははあ、秀忠と仙石権兵衛を『ともに大敗を経験した男』というくくりで、共感しあうという設定にしたのか。非常にうまいねっ。まあ、そんな劇的な関係でもなくて、おそらく仙石はこの真田攻めの与力としてワン・オブ・ゼムだったんだろうけどね。ここで親しい間柄として描くのも、作者の想像力か」と思ったのだが…
実際に仙石のウィキペディアを読むと

(※注意!ここからは史実だからしょうがないんだけど、ネタバレでもあります。以下はそれを踏まえて自己責任で読み進めてください)

仙石秀久徳川秀忠から特別の親しみ、信頼を受けて厚遇されたのはまったくの史実らしいんですわ。

ja.wikipedia.org

……信濃徳川秀忠が着陣するとこれを単騎で出迎え、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いで城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名。所領面では旧領を安堵され、幕藩体制において信濃小諸藩の初代藩主となった。
(略)
幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分とも言える程の待遇で扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸に参府する時は例外的に道中の妻子同伴が許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。慶長13年(1608年)の冬には秀忠が江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されている。

こう言う雑誌の煽りは単行本では残らないから、これも記録しておこう。
「繋がりし敗将の縁」。

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センゴク 秀忠と仙石秀久、「繋がりし敗将の縁」


そして、まもなく「センゴク」シリーズはファイナルへ______
過去記事リンク集

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