【トンガ噴火お見舞】INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

豊臣秀吉が朝鮮出兵講和で「日本国王」に激怒した、は後世の俗説らしい【メモ】

センゴク権兵衛、改易から、陣借りで北条攻めに加わって奇跡の大名復帰を果たすまでで、そこで終わり…とならず、その後の豊臣政権を腰を据えて見つめ続け、描くのが非常に難しい「朝鮮出兵」にまで踏み込んで描いていて必読…という話はお伝えしました。

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その話がいまや、いよいよ第一回の侵攻(文禄の役)の講和交渉にまで至ったのですが……秀吉が望んだ「貿易」ではなく「冊封」に留めることを明国は決定、その冊封使節がやってまいりました。

この交渉は決裂にしろ成立にせよ…そしてその諸条件にせよ、イエズス会はじめとするキリスト教諸国が「状況次第でうちはどうなる?」と不安を抱え、大諜報戦争を実施していたそうです(記録が膨大に残っている)


そして・・・・・・・・・

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センゴク権兵衛 秀吉は「日本国王」に激怒…はしなかった?

あれれ???
ぼくがちいさいころ読んだカゴ直利(だったと思う)の「日本の歴史」では、明の使節がほっとしたような顔で「汝を日本国王に任命し…」といったらその場で秀吉が大激怒、即座に第二次出兵を決める……みたいな流れだったんですけどね。


ま、たしかに考えればうそくせー。
というか逆に、ここで激怒しないと、「天皇家をないがしろにして明から国王号をもらうのか」「とんでもない売国奴だ」「天皇への不忠者だ」という史観が、あとから生まれたからな(どうせ水戸学だ)……。その史観から逆算して、「我らの太閤殿下は、自分を『日本国王』にするという明の”無礼な”対応に激怒したはずだ!いやそうでなければいけない!!」となったんだと思うのです。


ちなみに、以前から考えですが、「朝鮮出兵は日本からしたら、史上に例を無い形での戦争だけど、歴代中華帝国から見たら「辺境の蛮族が、その地域をまとめて力をつけたんで、わが属邦に攻め込んできた。宗主国として援軍を送ったが、負けもしないが勝ちもしない。ああ、うざったいのう…とりあえず称号をやって、黙らせとけ」はデフォですよね(笑)。ちなみに周辺の蛮族をけしかけて、共食いさせる対処法も考えていて、島津に使者を送っていたそうです(笑)

call-of-history.com
…彼らの報告書は『秀吉の生い立ち(「サル」のあだ名の情報も)と天下をにぎるまでの経緯、後継者鶴松の死や甥の秀次、秀吉の側近情報、朝鮮出兵に関連して大友義統の改易や被虜朝鮮人、在日明人の状況、長崎・薩摩の情報まで多岐にわたる』(上里P155)が、特筆されているのは、秀吉に反感を持っている諸大名の存在だ。特に島津義久は『心中では一日たりとも秀吉への恨みを忘れていない』(上里P155)と報告されているという。

この報告書を元に、明政府では密かに島津氏懐柔工作が実行に移されている。1595年と98年にそれぞれ使者が島津義久の下を訪れて豊臣政権からの離脱を促した。
(略)
史世用を派遣した福建巡撫の許孚遠は1594年に軍船二千、兵二十万での日本侵攻計画を上奏、1598年に島津氏に派遣された使者は明軍が朝鮮奪還後に琉球、シャム、ベトナムポルトガル連合軍約一万隻で薩摩から日本に侵攻、島津氏はその先陣を務めて豊臣秀吉を討つという計画を打診している。また許儀後は福建の明軍が二万で薩摩から上陸して島津軍四万と共同で秀吉を討つという計画を明側に提案したという。また、明の兵部尚書石星もシャムが援軍を申し出たことをうけてシャム軍を対日戦に投入する計画を検討しており、かなり大規模な対日反攻計画案が東アジア海域を巻き込んで…


ただ、こういう話は「事実か否か」のあと「事実じゃないとすれば、だれがどのように創作したの?」という話も追っていきたいもの。

なんにせよ、この部分…最初の和平交渉での「日本国王」に、秀吉は激怒…「しなかった」は、重要知識のアップデートです。皆さん、済んでいますか。
そして、それならなぜこの第一回講和は破綻したのか?それは今後のストーリーにて…

コメント欄より

流転
1965年から1966年に週刊誌に連載された山田風太郎の「妖説太閤記」ではそれまでの天下取り戦略に従い潜在的な敵同士を戦わせて「漁夫の利」を狙う(本能寺の乱もその成果。発案者は竹中半兵衛、彼も秀吉の毒牙に倒れる)に従って秀吉にとってのの潜在的な「敵」日本中の大名に新たな「敵」朝鮮・明を与えるために始めた対外戦争だったが想像以上の泥沼化に、ウヤムヤなかたちで停戦しても良いか・・・と、考え出した秀吉を驚愕、恐怖させたのは主戦派の急先鋒と思っていた加藤清正の「こちらの面子が立つなら、まぁ勘弁してやっても良いのでは・・・」というセリフに代表される大名たちの厭戦・避線ムードの蔓延でした、そこに徳川家康北政所ねねの提携を見た秀吉は再度の出兵に踏み切る。
という展開でしたね、あと日本の対外戦争について、勝利あるいは、まぁまぁな結果に終わったものは全て主な戦闘が半年以内に終わったものに限られる、等という指摘もあります。


明国の国書を怒って引き裂く話の初出ではないかもしれませんが、世上に広く流布したのは、頼山陽の「日本外史」のようです。山田風太郎も基礎資料の一つにしていた徳富蘇峰の「近世日本国民史」にもその話が出てくるようです。