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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「戦に負けて、外交で勝つ」~タレーランがナポレオン戦争後に見せた「外交芸術」(「ナポレオン覇道進撃」より)

今回は次号発売日前にお知らせできるか。

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 「ナポレオン覇道進撃」が、皇帝ナポレオンのロシア遠征失敗から、欧州連合軍に敗れてエルバ島に流される今の展開になって傑作が自然と多くなり、そのつど紹介してきました。

そして、史実もそうだから当たり前なんだけど、この場面でもっとも存在感を発揮するのが”表裏比興”のつわもの、フランスの外相タレーランでした。例の「良いコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い」の名言でも知られる。

あ、2019 年からこのマンガを紹介した4本の特集記事のうち、2本の題名に彼の名前を入れているな(笑)
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そのタレーランが、最も光を放ち、そして奇跡を起こして世界を驚かせたのが、最初にナポレオンが敗北・退位した後の国際秩序を決めたウィーンの和平会議でした。「会議は踊る、されど進まず」で知られるやつ。

教科書的に解説するとこうなる。

 1814年9月から1815年6月まで、オーストリアの首都ウィーンで外相メッテルニヒが議長となって、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を回復させるため開催された国際会議。19世紀前半のウィーン体制を成立させることとなった重要な会議であり、パリ条約(1856年、クリミア戦争後の講和会議)、ベルリン会議(1878年、東方問題での国際会議)とならんで19世紀の重要な国際会議のひとつである。
ウィーン会議の主な参加者

 ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世、イギリス代表カスルレー、ウェリントンオーストリア皇帝フランツ1世と代表メッテルニヒプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世と代表ハルデンベルク、フランスのタレーランらが出席。議長はメッテルニヒが全会一致で選出された。


 フランス革命ナポレオン戦争後のヨーロッパを、それ以前の状態に戻すこと(フランスのタレーランが唱えた正統主義)理念として会議が始まったが、実際には各国とも領土の拡張と有利な条件の獲得を狙って腹を探り合い、なかなか進捗せず、代表たちは舞踏会などでいたずらに時間を浪費したため『会議は踊る、されど進まず』と揶揄された。しかし1815年2月、ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて、列国は合意の形成を急ぐこととなり、1815年6月にウィーン議定書の調印にこぎつけた。この会議によって、19世紀前半の保守反動体制であるウィーン体制が作られた。
ウィーン会議

本当だったら、ただの敗戦国・戦犯国として弱肉強食の「肉」になるはずだったフランスが、いかなる魔法か最低限の犠牲しか払わず、欧州の強国の位置を保持したのであります。

しばしば「外交は芸術である」と言われるが、その通りであるならこの時のタレーラン外交は、ダ=ヴィンチの「モナリザ」、あるいはベートーベンの「第九交響曲」のような人類不滅の財産、不朽の『古典』といえましょう。



それを生んだタレーランの外交というのも、古典芸術がそうであるようにいちいち基本を押さえて…というか、この例がその後の「基本」となった点でも古典芸術と同様だ。


まず、しれっと「負けた体制」と現在の体制を分断させて、「全ての責任は旧体制にあり、自分達もその被害者、皆さんと共に戦う同志です!」という立場に収まる。この芸の、すばらしい継承者がイタリアなんだろうか(笑)

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芸術としてのタレーラン外交(ナポレオン覇道進撃より)


そして、自分が利益にあずかれる、プラスを得られる場面じゃないなー(この時のフランスの勝利条件は「マイナスを最低にする」で、さすがにプラスの利益を受けられる案件ではない)という所では、重荷が無いのを利用して、おもいっきり「理念・正義、建前、そして小国の味方」という立場に立つ。

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芸術としてのタレーラン外交(ナポレオン覇道進撃より)


しかし、ここが重要なのだが、その時に掲げる正義や理念は、利益・権益を求める側にもなかなか響くものであり、そういう理念面でのプラスが得られるなら、現実の利益の方で少し妥協してもいいかな?と思わせるものでなければならない。

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芸術としてのタレーラン外交(ナポレオン覇道進撃)


そして最後にものをいうのは武力、軍事力であることを片時も忘れない。密かに「秘密協定」を結んで、兵数の有利も確保する。

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外交芸術としてのタレーラン(ナポレオン覇道進撃)

その結果………

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芸術としてのタレーラン外交(ナポレオン覇道進撃)

この、芸術としての外交におそらく感動しただろう吉田茂が、昭和20年8月の敗戦に際し
「戦争で負けても外交で勝った例はある」と、このタレーランによるウィーン体制を念頭において自他を鼓舞した、とも言われる。



しかし、この外交交渉の中で風聞として「列強はナポレオンをエルバ島領主のままにしてはおかず、拉致して南海の孤島に送り込むらしい」という話が広がり、それがナポレオンを乾坤一擲、最後の大勝負に賭けさせる。

「私の軍艦を、英国の軍艦と同じ色に塗り直しておけ」ー--人口2万人の「エルバ島領主兼皇帝」の秘密命令がくだされた!!


というところで次号に続く…今月末に出る号だろうな。「ドリフターズ」がその号に載っているかはわからない(笑)