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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「まんが画廊」時代のゆうきまさみ氏を知る人の回想…「その頃から『範額御前』の絵とか描いてた」

この情報、あとで目立つところにおいてシェアしておこうと思った。
かいたこの記事に寄せられたコメント。
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流転

ゆうきまさみさんは昔々の大昔、約半世紀前の1970年代末、小生が東京の江古田に在ったその筋の者のたまり場、「漫画画廊」に入り浸っていたころに共通の知人を介して紹介してもった事がありました・・・、その頃から、画廊備え付けの自由ノートである「落書き帳」に「範額御前」(巴御前と並ぶ女武者)なんて絵をかかれていて、日本中世史それもマイナーなものに対する嗜好はこの頃からのものだと思います。

いや、伝説の目撃者だよ…たとえば黒崎キックボクシングジムで練習に励むタイガーマスクの姿を見ていた、とか、ニューヨークでバディ・ロジャースに挑戦するジャイアント馬場の試合を現地観戦した、みたいに。

というこの記事にもコメントが付き、資料が増える循環設定。

流転

どうも、歴史の目撃者なんていわれると面映ゆい限りですが・・・
当時の「まんが画廊」でもその描くもののシャープさで周囲から一目も二目もおかれる存在でしたね・・・なんといってもヤマトのパロディ漫画が大傑作で画廊で知り合った友人に「イヤ、凄いの描くひとだね」といったところ「ああ、その人なら良く知ってるから紹介するよ」といわれてゆうきさんを紹介してもらって色々とお話しさせていただいた思い出もあります・・・、今はもう昔々の年寄りのおもいでです・・・

流転

あと、思い出した事ですが、「画廊」での繋がりの人脈だったかは記憶が定かではないのですが、ゆうきさんのご友人のアニメ演出家の知吹愛弓さんが落語家春風亭柳昇さんの息子さんでそこから「究極超人あ~る」の春風高校や柳昇(やなぎのぼる)校長の名になり「あ~る」のオーディオドラマへの柳昇師匠の出演に繋がっています。ちなみに同じオーディオドラマに出演されている声優の川村万梨阿さんも当時の「画廊」の常連の一人でみんなからマリアちゃんと言われて人気者でしたね・・・

究極超人あ~るは漫画の中では間違いなく、読まれ続けている寿命の長い作品ですが、背景の情報はこうやって記録しないと埋もれていくわけですよ。



「まんが画廊」なるもの(たしか喫茶店だよね?)が存在し、それは単なる物理的なたまり場というものではなく、今のSNSのように…置かれた落書き帳を経由して同好の士が集い、語り合い、相互に刺激し合う結節点となっていた。
だが、いまだにその詳細な記録の決定版は無く(「たまり場」な以上、完全にそこを把握するものはいないのだ)、大きな歴史の空白になっている、とも言われる…。
いちおう、ウィキペにも記載はあるが,いつからいつまで経営してたのか、とか店長は誰?とか、席数や広さなどの記述は全く無い。
ja.wikipedia.org


この時代、この場所の「歴史書」…トキワ荘物語のようなものが必要、という話はさんざん書いてきた。
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で、ゆうき氏が日本史、それもマイナーと言っていい中世史に昔から興味があった、という話は、機動警察パトレイバームック第一弾収録のゆうきまさみ小松左京対談を読んでいれば知っている話(老害)。

ここで「北条(※鎌倉時代の方ね)を主役にした歴史ものとかはできないか」という構想を語っていたのだった。

だから、今回のスピリッツ三谷対談での

ゆうきまさみ 北条家を描く構想が以前からあった

という話も腑に落ちる。

しかし今回のコメント欄の

廊備え付けの自由ノートである「落書き帳」に「範額御前」(巴御前と並ぶ女武者)なんて絵をかかれていて

という話は、俺的には歴史の新証言で…そこで保存し、皆さんにシェアする次第だ。


ただ自分も「範額御前」の名を今知った。調べると…

板額御前

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
凡例板額御前

芳年武者无類 阪額女』月岡芳年作, 1885年(明治18年
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 不明


板額御前(はんがく ごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。名は『吾妻鏡』[注釈 1]では「坂額」とされているが、後の古浄瑠璃などの文学作品では「板額」と表記されている[2]。ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永城長茂らがいる。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきた。


生涯
城氏は越後国の有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。『吾妻鏡』の建仁元年(1201年)には、越後国において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。これは板額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた。

板額は、反乱軍の一方の将として奮戦した[3]。『吾妻鏡』では「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」と書かれている。

しかし最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。板額は鎌倉に送られ、2代将軍・源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾された。その後、一男一女をもうけたという。

板額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において生涯を過ごしたと伝えられている。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚がある[4]。

容姿に関して『吾妻鏡』では「但し顔色に於いては、ほとほと陵園の妾[注釈 2]に配すべし(但於顏色殆可配陵薗妾[注釈 3])」「件の女の面貌宜しきに似たりと雖(いえど)も心の武(たけ)きを思えば」、すなわち美人の範疇に入ると表現されているが、『大日本史』など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されたためと解釈される。

生誕地とされる熊野若宮神社新潟県胎内市飯角)には、2001年(平成13年)板額御前奮戦800年祭(鳥坂城奮戦800年を記念)が開かれた際、旧中条町によって石碑が建てられている[6]。

一説に身長6尺2寸(約188cm)といわれる[注釈 4]。


後世
のちに浄瑠璃・歌舞伎上の人物となった。また、江戸時代以降、醜女の蔑称ともなった[3]。これは原文で「容姿は美人ゆえに後宮で妬まれ、陵園(皇帝の陵墓)に送られて一生を過ごした女性に匹敵する」と述べている個所を、江戸時代に出版された伏見版や寛永版の付訓で、『但し顔色に於いては殆ど陵園の妾より醜かる可しと』と読み下したことで、「陵園の妾より醜い」という誤った解釈が広まったからである[7]。


板額御前 - Wikipedia

最後の読み下し間違いの誤解は、かわいそうすぎるなぁ(笑)


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わむ

70年代後半~80年代前半の「プロとアマチュアが凄く近かった東京(関東)」と「腕の立つアマチュアが独自に爪を研ぎやがて東京に進出していった関西」の対比は興味深いです。

いま調べたら以前は存在していた関東伝説のサークル「怪獣倶楽部」の単独ページがウィキペから無くなっていて残念。

6日前 delete
gryphon

ウィキペに「これは不要だ」として記事を削除したり内容を削るヤカラがいるっぽいんだようなあ。
彼らにも正義はあるのかもだが、俺とは相容れぬ