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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

赤塚不二夫が率いた「よくわからないけど面白い連中が集まる場」の情景。「トキワ荘」や「ジャンプ放送局」もかな?

水道橋博士のメルマガ「メルマ旬報」は相変わらず超ボリュームである。ちなみに「秋山成勲 ヌルヌル事件とは何だったのか」も最終盤である。


それとは別に、前号(2016年6月10日号)の話…杉江松恋の『芸人本書く派列伝』から、ちょっと気になったことを引用する。

11.杉江松恋の『芸人本書く派列伝』
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【プロフィール/杉江松恋

1968年生まれ。ライター、文芸評論家、書評家。
ミステリー小説の書評を中心に雑誌やWeb上で執筆活動を行う。
また、映画や漫画などのノベライズ作品も執筆。



山本晋也『カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春』(双葉社)から以下の情景を引いていく。

 197×年某月某日、新宿2丁目にそのころあった、ひとみ寿司の座敷で怪しい集会が開かれていた。
 怪しいといっても過激派・カルト集団というような物騒なものではなく、漫画家・赤塚不二夫を中心とする「面白グループ」の人々である。これは赤塚の交友関係から自然発生した親睦集団で、当時としても豪華な面子が顔を揃えていた。NHKの演芸ディレクターでありコント55号の育ての親としても知られる滝大作放送作家兼評論家の高平哲郎、ピンク映画監督の山本晋也、ジャズマンの山下洋輔坂田明、コメディアンの内藤陳、歌手の三上寛といった面々である。そこに九州から上京してきたタモリが迎えられ、デビュー仕立ての所ジョージTHE ALFEE坂崎幸之助といった後に名をなす人々が加わっていった。山本晋也も自身の監督作品常連であったたこ八郎柄本明らを伴っている。
 寿司屋といってもそこでは誰も寿司は食わず「ブッカキ氷の上にキャベツの千切りを載せて、塩と胡椒と味の素を混ぜた赤塚先生特製の香辛料を付けて食う」だけ、酒は焼酎「白波」の番茶割りだ。つまりグルメや贅沢とは程遠く、大のおとながどれだけ馬鹿なことだけを言い合いして時間を浪費していけるか、ということを競う場だったのである。

 面白グループが残した足跡については、まだ未評価の部分が大きい。私的集団で表立って行ったことが少ないのがその一因だろう。赤塚という庇護者をつけてタモリを世に出したことが最大の功績であるのは間違いないが、タモリだけではなく、所、坂崎らにオールナイトニッポンのパーソナリティを持たせ名前を周知させるなど、グループが人脈を駆使して行ったことは決して少なくなかった
 その一方で赤塚不二夫は、面白グループに熱中していた時代が、人気が頭打ちとなって下降する時期と重なっている。
(略)
決して順風満帆な時期ではなかった。1974年に「週刊少年サンデー」で連載していた『レッツラゴン』が終了…
(略)
 見ようによっては、少年誌では発揮できなくなった才能を面白グループという集団の中で発散することでバランスをとっていたようにも思える。…(略)赤塚の弔辞でタモリが「私もあなたの作品の一つです」と読み上げたのは、正鵠を射た言葉であった。この時期の赤塚が、タモリという創作物を世に出すために力の多くを使っていたことは事実だからである。


タモリが世に出たきっかけ」にまつわる伝説は、あまりに有名で今更語るまでもないだろう…さいとうたかをが「大宰相」で70年代の文化的事件として、この場面を絵にしたりしてるもんな。あ、今手元にないや…(※あとで見つかりました。後述)
その絵を紹介できないのは惜しいが、いくらでも検索すれば出てくる。

偶然だけではなかった…タモリがタレントに転身した“伝説のきっかけ”の裏話 http://biz-journal.jp/2014/05/post_4941.html


彼が、タレントの道を歩み出した「きっかけ」は「ある扉」が偶然に開いていたからだった。
 博多でジャズフェスティバルが開催されたある夜。タモリさんは、ホテルで知人と酒を飲んでいた。翌日の仕事に備えようと帰ろうとして、ホテルの廊下を歩いていると、騒がしい部屋の前を通りがかった。ドアが開いていたので中をのぞいて見ると、ジャズフェスティバルの出演者であるピアニストの山下洋輔さんとその仲間たちがいたのだ。
 その人たちは、頭にゴミ箱をかぶって虚無僧のマネをしてバカ騒ぎをしている。それを見たタモリさんは「これは自分と波長が合っている!」と感じ、部屋に入り、そのゴミ箱を奪うと自分でかぶり、虚無僧のマネを始めたのだ。
 突然、飛び入り参加してきた見知らぬ男に驚いた中にいた男たちは、メチャクチャな韓国語で抗議する。すると、タモリさんは、はるかにうまい「ウソ韓国語」で切り返す。「なんだ、コイツ、面白いぞ!」という事になり、4時近くまでバカ騒ぎをすることになる。
 帰り際、山下さんはこの乱入者に対して「ちょっと待った、あんた誰なんだ?」と聞くと、「私は森田と申します」とタモリさんは答えたという。
 この出来事が、タモリさんが上京する「きっかけ」となる。半年後、再び博多を訪れた山下さんが「あの時のモリタを探せ」と大捜索を行い、見つけたタモリさんを東京に呼び寄せた。その後、飲み会で赤塚不二夫と出会い、赤塚家での「伝説の居候生活」がスタートすることになる。

こちらも

タモリさんの成功へのスタートは、ホテルの半開きのドア。 http://iinee-news.com/post-5027/

※最初に「あるはずだけど見つからない」と書いた、さいとう・たかをの筆による「タモリ、伝説の登場」の場面の画像がありました。



※「オリジナルサイズを表示」だとより鮮明になります
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以上、さいとう・たかを「大宰相」6巻より(単行本は「劇画・小説吉田学校」という題だった)。政界の栄枯盛衰と権力闘争を描く合間に、その時々の世相を描写するパートがあり、そこで昭和51年の世相として「タモリ、深夜放送で人気」が描かれた。


世代的に離れているはずの自分はなぜかこの集団の存在を知っていて、なぜかなーと首をひねっていたけど、分かった、メンバーの一人でもある筒井康隆の全集を読んでいて、ちょっと小さいコラムやエッセイまで読んでいたからだな。
あっ!思い出した、村松友規「ダーティ・ヒロイズム宣言」にも一章を割いて描かれていたわ。


こういうサロンは作ろうと思って作るものなのか、
自然発生的なものなのか、
赤塚不二夫のような「スポンサー」や「パトロン」がいてこそのものなのか…
なんというか、わからないのだけれども、今現在もこういうグループはどこかにあり、世に出る何かのきっかけを待っているのか。
そして今は、ネットで同行の士やすぐれたセンスの持ち主は距離を越えて自然発生的につながる。
リアルに会って飲む機会は必ずしも必要としない。
それはいいのか、悪いのか?


赤塚不二夫を中心(パトロン)に、東京でなんだかわからないけど面白い連中が集まってワイワイ騒いでいたら、そこから文化が生まれた」
というのは古き良きロマンにも見え、今ではもう起き得ない奇跡、伝説の世界の様にもみえる。その一方で、「これを参考に、意識的にこんな集団や環境を作れそう」にも見える。

そもそも赤塚不二夫は、若いころまさに「新漫画党」(トキワ荘)という、まさに伝説中の伝説たる面白集団、面白グループの中にいて、貧乏ながらもまさに楽しくて楽しくてたまらない青春時代を過ごした。

お金ができた自分の成熟期に、こういうグループに惜しみなくお金を注ぎ込んで、集団を作ったのは…「トキワ荘の夢を、もう一度みたい!!」という、そんな思いがあったんじゃないかな?なあんてことを思ったりもするのです。


以前から気になっていたので、情報をきっかけにちょっと書きのこしてみました。


と同時に、このテーマだといつも書いてる気がするけど、豊田有恒を中心(パトロン)に、自然発生的にとり・みきゆうきまさみ出渕裕河森正治、とまとあき、火浦功……とかかしら、そういう人たちがやはり集まってダベることで熟成されたパラレル・クリエーション(パラクリ)とその時代」についての、資料がほしいなあ…と思うのである。


あ、もうひとつ、さくまあきらとか堀井雄二?とか、そういう集団が集まり、なぜか日本一の人気雑誌の投稿欄ページを任され、しかもなぜかそれがアンケート上位に来てしまう!!というようなことを成し遂げたジャンプ放送局」周辺の面白集団…このへんも気になるな。自分が知っているのだから、断片的に記録が残っているのだろうけど。

http://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/momotetsu/2
土居くん(※)もこのグループにいたし、慶応大学には『ポポロクロイス物語』の田森庸介くん(※※)もいたし、本当にお友達同士でその後も仕事をしていたんですよ。
 というのも、僕たちがちょうど就職活動になった時期に、オイルショックが来てしまったんです。僕も、本当は親父が日産に勤めていたからそっちに入社したかったのだけど、ダブっていたのもあって上手く行かなかった。仕方なく、僕たちは自由業になり、ライターやカットを描いて生活していたんです。それで貧乏だったんですよ。
(略)

――小池一夫さん(※)の主宰している「小池一夫劇画村塾」は、その漫画研究会仲間で行ったのですか?

さくま氏:
 元々、小池さんのファンだったのもあって、僕が最初に行ったんです。そうしたら、私塾だから当時の高橋留美子さんのような若い女性から男性のお年寄りまでが同級生になってしまい、もう年齢も性別もバラバラの友達がたくさん作れてしまったんです。それをみて、「面白そうだ」と堀井くんや宮岡くんたちが来たんですね。

自分に縁がある話でもないけど、
才能ある人はどうか是非、この日本のどこかで集い、語り、飲み…しかしべき出番の時のために、刀を磨いていてほしいものです。

追記「フイチン再見!」より

この記事をかいたあと、2017年に村上もとか「フイチン再見!」で描かれた話でも、当時の赤塚は「もう面白いギャグマンガが描けない」ことに悩んで、その代償行為としてのバカ騒ぎでもあった、とあらためての村上もとかの画力で描かれ、粛然と…
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