……13年12月22日の深夜、自宅に戻っていた高橋氏に事務局員から連絡が入った。防衛省が「南スーダンPKOに派遣されている現地自衛隊の部隊長が、韓国軍部隊長から要請された話」を伝えてきたという説明だった。韓国側は「銃弾が足りない。何とか助けて欲しい」と訴えていると
韓国軍の工兵部隊は当時、ジュバから約200キロの東部ジョングレイ州ボルで学校建設にあたっていた。同地は、18日に反乱軍に制圧された。韓国軍はボルの宿営地に避難民約1万5千人を受け入れていたが、隊員や住民を保護するための銃弾が絶対的に不足していた。
高橋氏は事務局員からの報告を聞きながら、「無理かもしれない」と感じたという。PKO法25条は「物資協力」を定めるが、政府は1991年のPKO法の国会審議の際、物資協力に武器や弾薬、装備は含まれていないという答弁を行っていたからだ。日韓の間には、物品役務相互支援協定(ACSA)も結ばれていなかった。
だが、その2時間後、事務局員から再び、高橋氏に連絡が入った。事務局員は「もう一度、PKO法をチェックしましたが、法的には弾薬を明示的に禁じていません」と語った。事務局員らは「韓国軍に銃弾を渡さなければ、すぐにも死人が出る」という現地の緊迫感に突き動かされていた。
高橋氏は「24時間以内に送らないと大変なことになるという様子でした。防衛省の熱量が特に高かったのを覚えています」と語る。自衛隊の現地部隊長は「韓国を見捨てるわけにはいかない」と訴えていた。当時、米軍も同じタイプの銃弾を使っていたが、韓国軍は「銃弾に余裕があるのは、自衛隊しかない」とも伝えてきていた。
高橋氏は「これは人道問題。やらないわけにはいかない」と思い定めた。同時に過去の国会答弁との整合性が問題になる。実現すれば、日本の弾薬が国連や他国に譲渡されるのは初めてのケースになり、武器輸出3原則との関係も問われ……(略)
10周年を機にした回想記事なのかと思ったが、10周年は来年だね。
これは韓国で新大統領が誕生するのに合わせての、日韓関係の問題を再度考えるということだったらしい。
だが、ブクマの反応も含め、忘れられている大前提がある。
[B! 韓国] 「銃弾が足りない。助けて欲しい」PKOの現場で、韓国から日本にSOS まさかの結末(GLOBE+) - Yahoo!ニュース
それは、この後に日韓の外交関係がどうなったであろうと、韓国軍のボル宿営地に非難した1万5千人の安全を、現地の武装勢力から守り切ることができた時点で、日韓両国にとって大大成功だったということだ。
この結論に異を唱えるものはおるまい。
ゆえに、その1万発の弾を当時から「友情の銃弾」と自分は呼んだ。
いい機会だから、ここに記念歌を発表する
1万発の弾丸、無事に戻ってきたのなら、日韓の友情を象徴する記念品として現物を(火薬は抜いて)保管し、記念に飾っておいていただきたい
どこに?
いろいろ腹案はあるが略す。ただ、マジでこの歴史的な物品は保存しておいてくださいな。
もう間に合わないかな。