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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

世阿弥描く漫画「ワールドイズダンシング」の『卒塔婆小町』回、そこでの宗教論議に注目(無料公開中)

2話連続で無料公開されているので、まず第30話から
comic-days.com

そして問題の31話。
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ワールドイズダンシグ 卒塔婆小町

これについてのコメント。…
まず、それを狙ったかもしれないし、偶然かもしれないけど、とにかく大河ドラマに先立って始まった「超メジャーの戦国時代より前の、いわゆる中世」を描くエンタメの一本ではある(平安鎌倉室町を一緒くたに扱うのも乱暴かもだけど、それをひとまとめにしてもいいぐらい戦国時代がメジャーなことも事実でしょ)。
そして世阿弥が、文化の世界で、今なお重要な存在であることも疑いない。

第一話
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シェークスピアより昔に世阿弥がいた。「わびさび」の走り、世阿弥がいた。庶民の代表者である芸能者が、国を、社会を変える! 世阿弥こと鬼夜叉は、父親・観阿弥の命令でとりあえず舞っている美少年。観阿弥が頭をつとめる人気の一座・観世座に所属しているが、何故舞う必要があるのか常に疑問に思っている。そんななか、ある小屋で、貧弱な体と枯れた声、下手な動きで舞う女を見かけた。いいはずないのに、その姿に鬼夜叉は「よさ」を強く感じたのであった…。「身体」を武器にした中世ダンスレボリューション、開幕!!

(略)…彼女の死で「舞をすること」の必要性を感じた彼女は、「幽玄」な動きをする謎の農民、「虹の袂」で商売をする片腕の少女・五月との交流を経て、自分の舞の可能性を高めていく。そんななか、将軍・足利義満の前で舞う機会を得た…。「身体」を武器にした中世ダンスレボリューション、開幕!!初めての大舞台で、時の将軍・足利義満の目に留まった世阿弥こと鬼夜叉は「舞」の修業のため、将軍邸で生活することに。
そこで出会ったのは、田楽新座の少年、増次郎。良きライバルに見えた彼の、恐ろしい本当の顔を知ることになった。
舞競べ、獅子舞、「外側」の人間、今巻も様々な初めての経験をして、鬼夜叉は「身体」と「舞」を深めていく――。
のちに日本の芸能を作る少年の室町ダンシング成長譚!!


といいつつ、自分は能楽にはまったく疎い。
卒塔婆小町」という演目があることも初めて知った。ただ逆に、これの像があることは知っていたので、ああ、これを演じていたのか、と知った。

平安時代前期の「六歌仙」の一人にあげられ、絶世の美女として知られる小野小町。だが謡曲などでは、なぜか老いて落魄(らくはく)した姿で描かれる。ゆかりの地の一つとされる随心院(ずいしんいん)(京都市山科区)の「卒塔婆(そとば)小町座像」も老いた姿だ。
www.nikkei.com

小町坐像を初公開 藤田美術館所蔵の名品 奈良博

2022年1月13日 09時03分
初公開の内山永久寺(廃絶)の「卒塔婆小町」像 初公開の内山永久寺(廃絶)の「卒塔婆小町」像
奈良市奈良国立博物館で開催中の特別展「名画の殿堂 藤田美術館展―傳三郎のまなざし」で、明治に廃絶した奈良県天理市・内山永久寺伝来の「卒塔婆小町」像が初公開されている。明治初期の古美術愛好家のコレクションの中でも学術的価値の高い文化財群が一体性を保って…

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藤田美術館卒塔婆小町像

www.chugainippoh.co.jp

fujita-museum.or.jp


紫式部が「物語・フィクション…すなわち”ウソ”をついたかどで地獄に落ちている」という説話(式部供養)があるのとは別に、小野小町は容色を鼻にかけ、男を袖にした云々で語られることが多いけど、やはりこの没落する平安期の有名女性、という共有された幻想は、また共通する何かもあるのかね。


そして、今回のワールドイズダンシングで描かれた場面で一番印象に残るのはこのへん。

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卒塔婆小町 仏は悪も救うのか?
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卒塔婆小町 仏は悪も救うのか?
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卒塔婆小町 仏は悪も救うのか?


うーむ、実は素朴というかシンプルに「神・仏は善に恵みを与え、悪を罰するものだ」でとどまっていれば話はそこで済むのだが…突き詰めていく中でそういう存在を「絶対的な存在であり、そもそも世界のすべてを生み、コントロールしている」とか「その慈悲は広く深く、もーこりゃだめだ、こりゃって感じの、現実世界ではひいちゃうような悪人でさえ救ってくれる」…みたいなものを突き詰めていくと

「悪も神が生んだものである」とか「神は、例えば神を信じない者も救ってくれる」という事に、おのずからなっていく。「空」という概念も…、「ならば善も悪も『空』」と……


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ja.wikipedia.org
万人救済主義(ばんにんきゅうさいしゅぎ、ユニバーサリズム、英: Universal Reconciliation、Christian Universalism)はキリスト教の非主流派思想のひとつ。これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。すべての人が、結局は救済を経験するとし、イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させると断言する。これは、ユニテリアン・ユニヴァーサリズムとは異なっている。

万人救済主義は地獄の問題と密接に関係がある。救済に至る方法や状態に関して様々な信仰と見解があるけれども、すべての万人救済主義者は、究極的にすべての人の和解と救済に終わると結論する。

万人救済の教理、信仰についての論争は歴史的に活発に行われ……


カソリックプロテスタントも、ほとんどはこの…キリスト教を信じようが信じなかろうがどんな大悪人だろうが善人だろうが、最終的には皆が救われるのだ、という「万人救済」という説を21世紀の今も敵視し、警戒している。ただし、なかなか根絶はできないようだ。


このへんの話が、ワールドイズダンシングで描かれた、僧侶と小町の問答と繋がるような繋がらないような…というのが感想でした。

ちょっと関連

………世の中に於て、多くの人間を殺し、多くの婦女を辱はずかしめた悪人が、監獄に入ると、キリスト教の感化を受け、死の苦悶を少しも感ぜず、天国へでも行く心持で、易々と死んで行っては、刑罰の効果は何処にあるのです。キリスト教にとっては、如何にも本懐の至りかも知れませんが、その男に依って、殺され辱しめられた多くの男女、もしくは私の如き遺族の無念は何処で晴らされるのです。幸にしてすべての被害者やその遺族が悉ことごとく基督キリスト教徒であり、左の頬を打れた時には右の頬を出すような人や、敵を愛し得るような人であれば坂下鶴吉の改宗を欣び、彼の欣々然たる死刑を欣んだでしょうが、私の如く姉夫婦を鶏か何かのように惨殺され、母までをその為に失ったものに取っては、坂下鶴吉が刑罰の効果を適当に受けることは、内心の絶対な要求であります。

私は国家の善良な臣民として其事を、要求する権利があると思います。刑罰の効果が、宗教的感化に依って薄弱となっては堪らないと思います。世の中に『死ぬ者貧乏』と云う諺があります。坂下鶴吉の殺した人達は、私の知る限りでは、国家の良民であります。然るに、被害者なり被害者の遺族なりが国家の手に依って毫頭慰藉ごうとういしゃを受けて居ないのにも拘らず悪人でも、坂下鶴吉の如き悪人でも生きて居る者には、宣教師との接見を許し、その改宗を奨励し、死刑の精神上に及ぼす効果を緩和してやると云うことは甚だ不当な片手落なことだと考えずには居られません。

坂下鶴吉はその告白の中に、こんな事を申して居ります。『私は今日では、有難い事には主イエスキリストの御慈愛に依りてこの身も心も共に救われた為に、今日の監獄生活は他の在監者が日々夜々煩悶に苦痛を重ねて、心の中では男泣きに涙を滾こぼして居りますが、私はそれと反対で日々夜々何一つの不安をも感ぜず、喜ばるるばかりでございます。これと申しますのも、嚢さきに申しました通り、他人ひと様から御覧下されば、何も有せざるに似たれどもすべての物を有するのでございまする。そこで私達が造った品物や金銭は使えば無くなりますに依って、限りがありますが、神様から私は頂きましたすべての物がありますから、如何程沢山に使いましても、それは無くなると云うことはなく無限でありまする。以上申述べましたのは、私の肉体上の生死を述べたのではございません。肉体の生死と云うことは今日では頭に置きませぬ』と、又こうも申して居ります。
『基督教信者は神様よりほかのものは、如何なるものにても、恐れませんのは、私がただ口実を以て申すのではございませぬ。マタイ伝に「身を殺して魂を殺すこと能わずる者を懼るる勿れ」と、あります。之が確かな宣言でございまする』

 以上、坂下鶴吉の言葉に依りますと、彼は監獄に在ってキリスト教の信仰を得た為に、彼の強盗時代よりも、もっと幸福に暮したようであります。そして死刑を少しも恐れて居ないことは、『身を殺して魂を殺すこと能わざる者を懼るる勿れ』と、申して居ることで明かであります。もし国家の監獄が基督教の修道院でありますれば、之で結構であるかも知れませんが、監獄が国家の刑罰の機関である以上、監獄に繋ぎながら、囚人を彼らの罪悪時代よりも幸福にし、刑法を、『身を殺して魂を殺し得ざるものとして』何等の威力なからしめて、それ監獄の目的死刑威力が発揮せられるでしょうか。…(後略)

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