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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

”日本教、かくキリスト教に勝てり”「沈黙―サイレンス」感想(※ネタばれ有り)

※ https://twitter.com/gryphonjapan/status/826222663597072385 からつながる連続ツイートを再構成しました。

この前、映画「沈黙」を鑑賞しました。
平日最後(午後五時台からの上映)だが、客は5人。こんなの観測範囲の問題けだから何とも言えぬが、興行収益的に成功すればいいですね…
英語の映画だが、日本人俳優たちは多くが熱演、名演だったと思います。高山善廣も一瞬登場。
特に心の弱いガイド・キチジローを演じた窪塚、村のリーダーの一人を演じた塚本晋也シンゴジラでは、タオルを首に巻いた生物学者役やってたね)、奉行の井上を演じたイッセー尾形は、実に印象に残った役どころでした。
ジイサマは誰だっけかな?


さて、ストーリーなのだが…原作を高校時代に読んだけど、大半忘れてた…が、覚えていたのが

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

・キチジローは神父たちを二度、三度と裏切る(反省し悔いるからこそ何度も裏切れる皮肉)
・奉行の井上は悪辣なサディストでなく知的で温順な人
そして重要な
・主人公が転ぶとき、踏み絵のキリストが「私を踏め、それでいいのだ」的なことを言う………たしか、そういう点を覚えていたのだけど、大体そこはあってた。


で、思うのだが、邦題「沈黙―サイレンス」は、独自の副題を作るべきだった。
例えばの邦題は…
「沈黙―日本教、かくキリスト教に勝てり」とね(笑)。



実は…たぶんこの作品が描かれた時と比べると、江戸期のキリシタン禁制を「野蛮で残酷な行為(いやそうなのだけど)」と『世界に恐縮』するような風潮自体が、減ってる感がある。
ぶっちゃけ、当時の日本のキリスト教に対する態度を論評するなら、いろんな意味で
 
「17世紀相応、であるなあ」


という風に個人的には受け止めている。それ(というか戦国時代直後)相応に残酷で野蛮でありつつ、措置は良く見ると、慈悲や常識のブレーキもそれ相応に働いていたし、何と言っても、当時は映画にも描かれている以上に「思想的、知的方面でのキリスト教批判」が相当な水準で行われ、それらの内容は今でも「ふんふん、なるほどなあ」と十分思わせるものなんである。
それは、映画の中の井上らの言葉としても生かされている。posted at 09:39:45

戦国江戸期の日本人によりキリスト教の思想批判
 
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140912/p4
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080311#p4
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160406/p1
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160407/p2

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

日本思想論争史

日本思想論争史

西洋紀聞 (東洋文庫 (113))

西洋紀聞 (東洋文庫 (113))

これらの著作などを見ると、『野蛮な東洋の暴君暗君が、近代的で人道的な愛と平等の宗教・キリスト教の偉大な教えをおそれ、ヒステリックに弾圧した』…という話ではない(かつては、それっぽいイメージな作品も多かったんだよ!)

映画にも一寸描かれたけど「内心と行動の分離」みたいな話も出ている。踏むのは形式的でいいのだ、と。
こういう描き方、「カムイ伝」にも出てきたっけ(カムイ伝は、ややキリシタンの聖化があった作品だが)。どっちが先だったのかな。

http://blog.goo.ne.jp/kamakura_champroo/e/917d6abea37835d8ff11a368ce86e4b0

・ 目付の配下の非人頭・横目がキクがクリスチャンであることを知り、目付に報告
・ 目付は日置藩内で邪宗門改め(踏絵)を行う。藩内に50名ほどのキリシタンがいることが判明。問題は夢屋問題から隠れキリシタン問題に変ってしまい、収拾に悩む城代家老と目付・軍太夫
・ 夢屋の番頭にやつした抜忍・赤目が牢よりキクを助け出すが、キクは自らの意思で戻り、捕まっている他の信者と行動を共にする
・ 目付は形式的にでも信者を転ばせて事態を収拾しようとするが、信者たちは信仰を捨てない。
・ 信者たちは迫害され、火あぶりの刑となる。あわやというところで、クシロが乱入し、手足を切られながらも、左卜伝、赤目の助けでキクを助け出す。


まあ、「最後の誘惑」を監督したスコセッシだから、そのへんのことはきっちり描くだろうな、と思ってた。

そして原作の核心的な問題に入っていく。


「誰かを助けるため、教えを捨てる、それも許されないのか」
「神は、神を裏切る者さえも愛すのではないか」

ああ、自分も「日本教徒」だなあ…と思うのは、こういう問いに第一の反射、皮膚感覚では
「そりゃ許しますよう、神はお優しいんだから。」
と感じちゃうのだよね。

そうかもしれないが…だがホントにそうなら矛盾が出てくるのだよ!

つまり、神の愛が人間の弱さや裏切りを全面的に許すならば、あの映画は最初の踏み絵の場面で

「全員踏みました 役人は帰り村は平和でした 神はそれを許しました (完)」

で終わるのだ(爆笑)。



神学は色々で、異論異説も多いから断言はせんが…、一応正統的な教義では
キリスト教徒は、信仰を持っていることを隠さず公言せい。それで迫害されれば 黄泉路の先陣じゃ 誉れじゃ」(ドリフターズ風)が教えの一丁目一番地。

(薩摩は大友宗麟との抗争もあり、島原に劣らずもっとも過酷なキリシタン弾圧の地だが・・・・・・・)


だからこそ、踏み絵も効果がある。


旧約聖書マカバイ記
「母と七人の子の殉教」
http://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/apoca/28mabairesurrect.htm

…第二マカバイ記の復活思想は、主として7章で語られています。ここでは、7名の兄弟が母親と共に捕らえられて、律法で禁じられている豚肉を口にするよう強制されます。これを拒んだ兄弟たちが、一人ずつ拷問を受けて殉教しますが、母親は、これに最期まで耐えて自らも死にます。
(略)
ダニエル書では、受難の若者たちは、主の奇跡的な助けによって救助されますが、第二マカバイ記では、若者たちは全員死と復活を待望しつつ殉教します(ここに語られている律法違反への強制は実際に行なわれました)。第二マカバイ記には、これのほかに、14章でエルサレムの長老ラジスの殉教が語られます。(略)


 邪悪な王よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとするが、
 世界の王は、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる。
 我々が彼の律法のために死ぬのだから。
               (第二マカバイ記7章9節)
 たとえ人の手で死にわたされようとも
 神が再び立ち上がらせてくださるという
   希望をこそ選ぶべきである。
 だが、あなたはよみがえって再び命を得る
   ことはない。


「沈黙」感想15(※ネタばれ有)
基本、殉教を教会は讃えてるので…この前まとめた話になる

映画「沈黙」から〜原作者・遠藤周作の思想と、カソリックの教えに差異はあるか…、など(こなたま氏を中心に) - Togetterまとめ https://togetter.com/li/1052452

『たどり着いたキリストの姿というのがあまりに斬新で、見方によっては異端ともいえる概念…「読んではいけません」と信徒に説く教区もあった』(続く)


さらにこっちのまとめには、もっとガチな「沈黙」批判がある。

遠藤周作の思想と『沈黙』におけるジレンマ - https://togetter.com/li/1072363
『あれは「遠藤周作教」であって「キリスト教」ではない、』

あっ、ハイ…。

とはいえ鑑賞してるこちらは幸か不幸か異教徒、不信心の徒なので、「そりゃー、元の宗教がアレなんじゃない?」と思えるところがある意味で救いだ。
だから、逆に本当に熱心なクリスチャン、それも色々な宗派の人がこれを見たらどう感じるのだろう?と思う。


ちなみに最近知ったのだけど「状況がやばい時にはどうぞ信仰をお隠しなさい」との教義が、イスラームにおいて常に少数派だったシーア派にはあるんだそうですね。「タキーヤ(信仰隠し)」というそうで…

http://japaneoworld.blogspot.jp/2015/04/blog-post_47.html
シーアの特徴の一つでもある「タキーヤ(信仰隠し)」…タキーヤというのは、信仰により殺害など、害を加えられる恐れがある時に自分の身(命)や同信者などを守る為にその信仰を意図的に隠す行為をいいます。
 
具体的に言うと、例えば私たちムスリムが誰かに反イスラムや敵にあたる人間に捕まって偶像を讃えたり反イスラムなことをしてしまったりしたとしても、心の中には確かにアッラーへの信仰があり、命を守る為、あるいは恐怖心か出た行為ならば許される、
学校などでムスリムであることでいじめっ子に囲まれ、脅しなどからアッラーに背く行為をしてしまったとしても信仰がきちんとあるならば、心の中を全て御存知のアッラーは許される、
或いは私がシーアであることでアンチシーアにボコられるかも!(日本ではまずないですが)最悪死ぬかも!なんていう時にスンナ派のふりをしてもOK、というのがタキーヤです。
(といっても日本でボコられることはまず無いので、アルハムドゥリラー、実践を要することはまずないんですが...このように迫害の恐れがない場合はタキーヤは不要です。)

スンナ派ではこのタキーヤは偽善であるとかイスラーム外からのシーアの異説と捉えられ…
(略)
〜タキーヤの問題点〜
タキーヤは前述の通り、クルアーンハディースに示されているものであり、身を守る為に不信仰に見せかけた信仰なので、信仰に見せかけた背信、不信心とは全く別物です。
ですが、現代社会においてはこのタキーヤが拡大解釈され(ジハードと一緒ですね)、一部では例えば外交上のただの方便など、元来の意味合いとは少し違う使われ方をしている一面もあるようです。

http://www.way-to-allah.com/jp/quran/16.htm
ここの106に、その根拠があるようです。まあ当方、よくわからない上に余談ですので、このへんで本題に戻ろう。




奉行のイノウエ役・イッセー尾形は非常に軽みがあって昭和天皇も演じればこれも演じられるのだな。立つ座るに人の手を借りる演出や扇子でぺちり、は面白かった。
ただ、ただの中間幹部に見せて実は噂の大幹部イノウエでしたー、という演出はやや失敗な気が。


原作では「イノウエも元クリスチャン」と描写されてたと記憶しているがそれは今回直接描写がなかった。見逃しか原作記憶違いの可能性もあるが。
窪塚は他の演技とか知らないけど、非常にいいと思いました。
高山は「ドンフライとやったあいつか!」と誰か喜んでくれればなあ。


あと、この映画本当は日本でロケしたかったのに諸事情(公の協力の差)で、台湾ロケになったとか。その問題を追ったtogetterもあった筈なので一読をお薦め…ってみつからんな。単独ツイートをかわりに。



おまけ 似た話 似てるかもしれない話

最後の〆として、またもや余談を。
キリスト教の殉教者の精神的な「強さ」は、沈黙の主人公らの「弱さ」に照らされ、逆に光り輝く。
だが、宗教なのか非宗教なのか…儒教朱子学)の「義」や「節」が、キリスト教の殉教なみの姿を現したことがある。それは明時代の永楽帝が、甥の皇帝を追い落とし即位した「靖難の変」である。
即位を簒奪とした儒学者は、一族847人が殺された、という。


山本七平「現人神の創作者たち」(上より)

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

マカバイ記との比較も、この本に出てくる。


別の役人の話は、苛烈すぎて、日本のキリシタン政策と同様に当時相応かも、と思いつつも、弾圧側だけでなく「節と義を守る」側にも、少々ついてけませんわー、という気がしますわなー。
…てか、漫画のグロい場面ばっかり切り取ってネットで表示するあの広告かよ!…なお話!!



そんな、儒教的な「節と義、朱子学への殉教(?)」も視野に入れて、殉教の問題を見ていったら興味深いかもなあと思いました。



仏教…それも浄土宗系も「阿弥陀様は慈悲深いから、罪あるわしらも極楽にいけるだ。もちろん浄土を信じてない連中も…(なのか?)」


そしてキリスト教の異端「万人救済主義

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%BA%BA%E6%95%91%E6%B8%88%E4%B8%BB%E7%BE%A9

万人救済主義ユニバーサリズム、英語:Universal Reconciliation、Christian Universalism)はキリスト教の非主流派思想のひとつ。これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。すべての人が、結局は救済を経験するとし、イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させると断言する。これは、ユニテリアン・ユニヴァーサリズムとは異なっている。
万人救済主義は地獄の問題と密接に関係がある。救済に至る方法や状態に関して様々な信仰と見解があるけれども、すべての万人救済主義者は、究極的にすべての人の和解と救済に終わると結論する。
(略)
福音派は、万人救済に反対し、永遠の地獄の教理を弁護して、20世紀の数十年の間に多くの出版物を出した。しかし,今日、福音派教皇と称されるジョン・ストット[1921-2011]は伝統的かつ正統的教理である地獄に反対する声をあげるようになった。
日本の福音派日本福音同盟は第一回日本伝道会議、第二回日本伝道会議において、リベラル派(エキュメニカル派)の万人救済主義新普遍救済主義(ネオ・ユニヴァーサリズム)と呼び、異端として退けている。新普遍救済主義エキュメニカル派万人救済主義であり、アルミニウス主義普遍救済主義と区別される。[

「あっ、そっちは踏み絵をふんだお前! そっちは転び伴天連! そっちはパードレ様を密告して銀300枚もらったお前! わしらを処刑したお奉行様まで…」
「わしらも天国に連れてきてくれるぐらい、神の愛は無限大だったのじゃ」
「いや…いいんだけどね…神をたたえますけどね…… 逆さづりや簀巻きで海に投げこまれた、わしらの苦痛っていったい・・・・・・・・・・」


あと、何度も紹介してるから今更だけど芥川龍之介 「神神の微笑」ね。青空文庫から。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html

「あなたは天主教てんしゅきょうを弘ひろめに来ていますね、――」
 老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須デウスもこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須デウスは全能の御主おんあるじだから、泥烏須に、――」
 オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀ていねいな口調を使い出した。
「泥烏須デウスに勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須デウスばかりではありません。孔子こうし、孟子もうし、荘子そうし、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉ごの国の絹だの秦しんの国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙れいみょうな文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか?

(略)

 オルガンティノは口を挟はさんだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教おんおしえに帰依きえしましたよ。」
「それは何人なんにんでも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多したあるたの教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
(略)

「(略)支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇ばらの花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明ゆうあかりにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」

ちゃんちゃん