ブームが起きて30年。ゴスペルを歌う日本人の9割以上が非キリスト教徒。その矛盾に悩む人、気にしない人、キリスト教に入信する人……。ゴスペルにハマる日本人と、日本人の「信仰なきゴスペル」に戸惑う黒人たちの本音に迫ったドキュメンタリー映画「GOSPEL」【日本初配信】https://t.co/nwaE4ddS3L pic.twitter.com/rnNb1eM7b0
— アジアンドキュメンタリーズ (@asiandocs_tokyo) December 2, 2022
2014年製作/作品時間56分
撮影地:日本・アメリカ
製作国:日本ゴスペルにハマる日本人と、日本人の「信仰なきゴスペル」に戸惑う黒人たちの本音に迫ったドキュメンタリー。ブームが起きて30年。日本の音楽シーンに根付いたゴスペルだが、ゴスペルを歌う日本人の9割以上が非キリスト教徒だ。にもかかわらず彼らは、歌の中で神を賛美し祈りを捧げる。米国のゴスペルシンガーは「理解できない」とあきれ顔を見せ、日本人のゴスペル講師は「マス・コーラスという一つの音楽形態に落とし込んで、宗教色を出さない」と割り切る。クリスチャンではない者がゴスペルを歌う。その矛盾に悩む人、まったく気にしない人、キリスト教に入信する人……さまざまな人間模様とともに、日本人とゴスペルの微妙な関係を追究した。
監督:松永大司
プロデューサー:飯塚冬酒
なに、またも「神々の微笑」(芥川龍之介)案件?
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「誰だ、お前は?」
不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
(略)
「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」
老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須(デウス)もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須は全能の御主だから、泥烏須に、――」
オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀な口調を使い出した。
「泥烏須(デウス)に勝つものはない筈です。」
(略)
「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ。」
「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多(したあるた=ブッダ)の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
クリスマスは作り変えた、ハロウィンも作り変えている。ゴスペルなど、その前座にもなるまいに_________。
うむ、そしてこれは「文化の盗用」だ。そして「文化の盗用」なるもの、それ自体がぽんこつ概念だ。
そうでないというなら、確かに唯一の神とそのひとり子に帰依せぬ非信者は、ゴスペルうたうべからず聴くべからず。返上せよ。
日本教、またもキリスト教に勝てり、…かな?
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もちろん、口にゴスペルを乗せつつ、もう一方で信者なんかじゃありませんよ、という人間は、(ひょっとして存在するのであれば)最後の審判の際に救われることはあるまい。
いや、万人が救済される、との説もあろうが。
「人々の前で私の味方であると宣言する者を、私もまた天におられる父の御前で私の味方であると宣言する。しかし、人々の前で私を否む者を、私もまた天におられる父の御前で否むであろう。」
— 教会の栄光 (@glory_of_church) 2017年1月29日
(マタイによる福音書10:32-33)
「人々はあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂で鞭打つであろう。…あなたがたは私の名のゆえに全ての人に憎まれるであろう。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
— 教会の栄光 (@glory_of_church) 2017年1月30日
(マタイによる福音書10:17,22)
「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
— 教会の栄光 (@glory_of_church) 2017年1月30日
むしろ、体も魂も地獄で滅ぼすことができる方を恐れよ。」
(マタイによる福音書10:28)
「自分の十字架を取って私に従わない者は私にふさわしくない。」
— 教会の栄光 (@glory_of_church) 2017年1月30日
「自分の命を保とうとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを得るであろう。」
(マタイによる福音書10:38-39)
これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。すべての人が、結局は救済を経験するとし、イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させると断言する。
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昔から好きだったのが「ジェリコの戦い」だけど、あの陰惨な結末を迎えた戦争をこんなに陽気に歌っていいのか、とは確かにちょっと思うな(笑)。
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16 七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。
17 この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った使者たちをかくまったからである。
18 また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。
19 ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。
20 そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。
21 そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。
22 その時ヨシュアは、この地を探ったふたりの人に言った、「あの遊女の家にはいって、その女と彼女に属するすべてのものを連れ出し、彼女に誓ったようにしなさい」。
23 斥候となったその若い人たちははいって、ラハブとその父母、兄弟、そのほか彼女に属するすべてのものを連れ出し、その親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外に置いた。
24 そして火で町とその中のすべてのものを焼いた。ただ、銀と金、青銅と鉄の器は、主の家の倉に納めた。
25 しかし、遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するすべてのものとは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブは今日までイスラエルのうちに住んでいる。これはヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者たちをかくまったためである。
26 ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、/その門を建てる人は末の子を失うであろう」。
27 主はヨシュアと共におられ、ヨシュアの名声は、あまねくその地に広がった。
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某教会の解釈
6章21節
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
城壁の中に入った神の軍隊は、ラハブの家の者以外は全て滅ぼし尽くさねばなりませんでした。
「殺してはならない」と命じる神が「滅ぼし尽くせ」と言うことに、つまずきを覚える人もいます。聖書にはその他にも、「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもロバも殺せ」(サム上15章3節・新改訳)ともあります。
「聖絶」なる聖書の主張は、「罪は徹底的に裁かれねばならない。そこに哀れみ・妥協・曖昧さ・人間的許しなどはあり得ない」ことを示しています。これはヒューマニズムとは合致も融和もしません。神は、「自由を持ち、自由を与えると共に、徹底的に責任を持つ」お方ですが、人は、「自分の自由は欲しても他者には与えないし、徹底的に責任逃れをする」者です。神は自分を犠牲にして人を救いますが、人は他者を犠牲にして自分を救おうとします。ヒューマニズムの正体は自己中心と自己至上主義ですから、それは神を徹底的に嫌います。
友よ。罪に対する神の厳しさは、人に完全な救い(全き義)を備えるためです。聖絶は、神の奥義であり、人間の知性では理解できない聖書の真理です。ただしこれは、十字架を見上げ続ける者に聖霊が教えてくださる、聖書の奥義です。
こえー。