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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「神様が全知全能なら、なぜ人間に悪をさせるの?」という問いにキリスト教はこう答えている(三浦綾子)

表題の議論は、前にも書いたけどキリスト教はしょっちゅうふっかけられている。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080311#p4
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090825#p4

彼は『ルシヘル』を創造しながら、その堕落を予見しえなかったデウスの無能力さについて『知らずんば三世了達の智と云へるは虚談なり。又知りながら作りたらば、慳貪(けんどん)の第一なり

・・・全能のデウスがアダムとイブの堕罪を予知できぬのもおかしく「知りたらば慈悲ノ上より科に落ちぬ了見を、アダン・エバに教えらるべき義」

しかし、これについては一応神学は模範回答を用意している…様子だ。
信仰においてかなりまじめな人だった三浦綾子はこう書いている。

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)

それにしても、なぜ神は、人間を神にそむかぬ者につくらなかったのか。わたしたちは幾度でもこう思う。だが轟勇一著「真100の質問」には、適切な比喩で次のように書かれている。

 ある有力者が、ある女性を力ずくで引きとどめ、「お前を愛しているのだ。わたしのもとにいたら何でも好きなようにさせる。だが離れることは決して許さない」といったらどうか。それは自分の力を頼み、見勝手な自己愛を貫く態度にすぎない。強制や無理強いに愛はない。真の愛は相手の自由と自発性を尊重した人格的な交わりであると、その著者は書いている。

わたしは改めて、神の愛に応える責任の重大さを思わすにはいられない。

納得できるかどうかはともかく、
こういう答えです。
つまり、すばらしい価値があるのは「自由」であり、その自由を、神は天使
やアダムとイブに与えたもうていた。その自由の上で、それでも神にそむかず生きることを主は望んでおられたが、ルシヘルやベルゼバブどもはその自由を悪用してしまい、堕天使となったと。アダムとイブも同様。
 
うちは自由放任の教育信条ですから、という不良の親のようだが。

しかし、昔から論理学のネタになっていた
「全能の神様は自分が持ち上げられないほど、重い石を作れますか?作れなかったら全能じゃないし、その石を持ち上げられないならやっぱり全能じゃない」
というクイズ(銀英伝では「自分の言うことを聞かない女を作れるか」というふうに改変されて登場していたね)があるけど、アダムとイブから考えると「作れる」が答えのようだね。