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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

親子(父子)の関係証明にDNA鑑定が義務付けられたら?−−科学が政治の上に立つ刻

■2008-11-22 国籍法改正問題:DNA鑑定を義務化すべきではないか
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20081122


有名ブログ「木走日記」と張り合っても勝ち目はないのだけど、「うわーん、自分も関連のことを考えてたのに先を越された」と残念。
正確に言うと、このたび話題になっている国籍法改正案に関してとはまったく関係なく、ふつうの結婚制度の中で、国籍法が改正されてもしなくてもこれをやったほうがいい…じゃないな、正直やってもやらなくてもどっちでもいいんだけど、「そういう制度がもし実現したらどうなるかな?」という思考実験というのはたいへん面白い、と言いたいのです。


実は、この話を考えたのはもうかなり前、1990年代です。
この時期に「プレステージ」という討論番組がありました。例の警官が銃を持つのが言いか悪いかで福島瑞穂がどーのこーの、という都市伝説の元では無いか?と言われた番組ですね。

で、たしかに弁護士時代の福島瑞穂氏はレギュラーでして、その中の一つとして「男性は離婚後すぐに再婚できるのに、女性はXXカ月(今調べたら300日だね)経過まで再婚できない。これは差別ではないか?」という討論テーマに出演して、撤廃論から論じていました。
彼女の論法は「この規定は明治時代に作られたもの。昔はともかく、今はDNA鑑定で親子関係が確実に分かるのだから、この規定の必要は無い」という主張。


これは私はめずらしく、福島氏と意見が一致するところです。
法律制定時、DNA鑑定の技術はなかった。
今はある。
使えばいい。ザッツ・オール。

……単純にして簡単、すなわち最強なリクツです。300日規定は、以前は以前で合理性があった(差別じゃないわな)けれども、今DNAによって違う合理性ができたということだ。



と、その一方で。。
以前からこういう言葉があった。


「母親になるのは事実である。父親になるのは”世論の結果”である」


これが人間社会は2000年から3000年続いていたのですな。
だから認知だなんだというややこしい制度が出来てきた。
実の親か、そうでないか・・・という話をめぐるエピソードは、漫画や小説でもやまほどある。父親・母親双方が不明の時もあれば、父親のほうだけが分からない、疑念があるという話もある。


ブラックジャックの「短指症の牧場主」のエピソード、
井沢元彦の大傑作歴史ミステリー短編「暗鬼」

暗鬼 (新潮文庫)

暗鬼 (新潮文庫)

はては銀河英雄伝説で「帝国の双璧」の片割れの人格を決定付けた瞳の色のエピソードなどなど。


それらはフィクションとしても、事実として今までは、父親が父親である(もしくは「父親ではない」)ことが、究極的には証明できなかった。
これは幸か不幸か。やっぱり不幸なのでしょう。
というか、人間社会は本来、「XXの親は○○である」ということを父親・母親ともはっきりさせたかったはずだし、それが正義ということになっていたのだが、それを技術・科学の壁が拒んでいたというだけだ。
その技術の壁が突破された。
おめでとう。
おめでとう。
パチパチパチ。


さあ、実社会にこの技術を応用しようでは無いか・・・・と思ったら、木っ端役人と利権政治屋どもの怠惰っぷりは図抜けている。DNA鑑定は、いまだに制度としてぜーんぜん位置づけられていないのだ。


市役所に出生を届け、名前を届ける時に、父親・母親のDNA関係とその子のDNAの証明書を一緒に出す。
これですべては円満に解決するし、何より科学的に合理的だ。
もちろん、俺の子じゃないとかいやあなたの子よというようなトラブルがあるときは、当事者から罰則付きで強制的にDNAを採取し、公平・客観的に分析できる合法的暴力のパワー、権限を官に与えてもやむなし。


これでコンガイシ(婚外子って変換できないのかよ!アホIMEめ)に関する問題は、物理的に親候補がどこにいるのかわからないよ、という以外を除いて9割がた、すべて丸く収まるでしょう。
だから国籍云々より先に、外国・自国を合わせてすべての出産、子供が生まれることに対してーーーDNAという親子関係(とくに父親と子の関係)を客観的に確認できる証拠があるのが望ましいのです。
この主張に、反論しようがあるまい。・・・・”オモテの論理”としてはね。


だが。
それこそ3000年以上、人間は「親子(とくに父親と子)が本当に親子なのかわからない」という状況を受け入れ、その前提に立って制度をつくり、そしていろいろとまあ、表面を糊塗していったというか(笑)。
まあいろいろとね、うまいこと社会を運営したってことがある。


ここで今更、「本当に父親が父親かどうか、科学的に確認・証明できる技術が出来ましたぞよ」といわれても、社会的にはノイズなのかもしれないんだよな(笑)。
そういう”ウラの論理”として、上に上げた、親子(父子)証明のための一律のDNA鑑定、なんて制度は排除されていくのだろうなと。
たぶん、オモテの論理で言えばNOを導く論理はないよ。やっぱり。
でも、ウラの論理のほうが当分優勢だろう。


それがユカイだな、というお話でした。
だから今回の国籍法改正も、DNA鑑定とかは結局盛り込まれることはなくなるわけでしょうから。



なんどかここで取り上げた「医学的合理性(科学的合理性)」が伝統・民主主義・人権などとあるときは深刻に対立し、場合によってはその上に立つ・・・という話の別バージョンですね。
※以前書いた、医学的合理性が他の”正義”と対立する(と私が思った)例に「自殺報道」があります

■「医学的合理性」は正義不正義の上に立つのだ。自殺報道も含め

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080429#p6

■[時事][犯罪][科学]自殺の連鎖について

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061113#p2

朝まで生テレビより 子供の「自殺問題」と「いじめ問題」は別なりと。

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20061125#p3

ちなみに星新一的SF思考実験として

何しろ十年以上考えてた話だから、
議論にもバリエーションがある。これをSF的に思考し、

「『ぺろりとなめるだけ、あるいは手でギュッと握る…だけで「実の親子(父子)」であるかどうかが99.999999%の精度で分かる』…というような機械や薬が、一個500円ぐらいの超安値で一般販売決定!!なんてことになったとき、社会はどうなるんだろう」…というふうに考えたことがある。


ストーリーを考えていたら、どうしても藤子・F・不二雄


「テレパ椎(しい)」
http://www.ffgallery.com/fujimoto/sftanpen/esp/index.html

という短編のようになってしまってやめました(笑)。
知らないことによる幸せ、ということをSF寓話によって語る大傑作だった。いつかはドラマ化にしてほしいものだ。