似たような言葉を聞いたな…と、この本を、再度開いてみた。
本作はもはや伝説。沢木耕太郎の最高傑作がついに電子書籍化!
あのとき、政治は鋭く凄味をおびていた。ひたすら歩むことでようやく辿り着いた晴れの舞台で、61歳の野党政治家は、生き急ぎ死に急ぎ閃光のように駆け抜けてきた17歳のテロリストの激しい体当たりを受ける。テロリストの手には、短刀が握られていた。社会党委員長・浅沼稲次郎と右翼の少年・山口二矢――1960年、政治の季節に交錯した2人のその一瞬、“浅沼委員長刺殺事件”を研ぎ澄まされた筆致で描き、多くの人々の心を震わせたノンフィクションの金字塔。第10回(1979年)大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
あったあった。
世に知られた「国士」たちの、なんとも軽佻浮薄な浮かれっぷりよ…
事件の翌日、東京虎ノ門の霞山会館には、早くも右翼十三団体の中心人物を初めとする百人が集まって、「愛国者時局懇談会」という会がもたれた。主宰者は治安確立同志会の高津大太郎だった。
まず赤尾敏が口を切った。
「マスコミが右翼の暴力というんで、この可憐なる少年愛国者である山口君の行動を、袋叩きにしておるのであります。私は、山口さんのおやりになったことが、これは立派なことであると、日本民族の血の叫びであり、日本生命の発露であり、天地正大の気が時によって煥発するという、このひとつのあらわれだと思います。山口さんは私のところに一年ちかくおりましたが、非常に無邪気な、純情な、まったく何と申しますか、まったくウブな少年愛国者という言葉にふさわしい人だったんです。私のところにおる頃から、共産党はもちろん大嫌いだが、社会党が共産党のネコをかぶったものだ、日本を滅すところの勢力だ、これは自分たちが生命がけで、国家の正義力となって自己犠牲をするよりほかない、と純情に思いつめていたようです」
この事件に対して右翼がどう対応すべきかを議論することが目的だったが、会は議論より二矢を讃美することで終始した。
「山口君のお父さんは陸上自衛隊の一佐、昔でいえば大佐です。公務員であるところから進退伺いを出すとか聞いていますが、そんな必要はない。われわれは山口君のお父さんに対して感謝し激励する。断じてやめる必要はない。あなたが立派だから、こういう子供さんが生まれた。日本人として敬意を表するから、現職に留って子供さんの養育に当たっていただきたい」
という意見も出された。そして、二矢は「日ならずして」出てくることができるだろうが、その日を早めるために努力するということが確認された。最後に二矢の「美挙を讃え、健康を祝って」全員で乾杯がなされた。その時、参加者の口からは「乾杯!」という言葉と共に、「おめでとう!」という言葉が交わされた。
翌、十四日、港区芝白金にある治安確立同志会の事務局には「山口君救援対策本部」が設置された。
昭和二十三年、日本共産党書記長徳田球一は、佐賀市公会堂で講演中、ダイナマイトを詰めた手製の手榴弾を投げつけられ、一週間の傷を負ったことがあった。その主謀者であり、「日本人にして日本人に非ざる野坂志賀徳田の如き奴輩に我天に代りて誅す」という斬奸状を書いた古賀一郎は、NHKテレビのインタビューに答えて、「私は山口にくらべると勇気がなかったと思います」と語った。
歴史は繰り返さないが、韻を踏む。
実はこれに対応するような…というか当時の”国士”の皆様が絶賛した「山口ニ矢の父親の自衛官」の人間像が、沢木の詳細な取材によって、同書で明らかになっている。
その横顔、肖像……特に事件後の立ち居振る舞いは、ある意味で本当に粛然とさせられる。
その後、連合赤軍などに材を取って描かれた「食卓の無い家」や、令和になっても繰り返される同種の問題を描いた「工場夜景」と対比させてもいい。
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そこまで、今回書く余裕はないが。……あ、半年ほど前にtwitterでの会話を記録していたわ!!
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【資料】初版単行本の帯は、こんな感じである
たまたま今回は、初版本を引用することになったが、何と帯がそのまま残っていた。貴重なので画像として残しておこう。