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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「行政の弔意強制は内心の自由に反する」話、9月27日(安倍国葬)前の8月6、9、15日に問題と直面するのでは

タイトル通りなのですが

<社説>安倍元首相「国葬」 内心の自由に抵触する

2022年7月16日 05:00
社説
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 岸田文雄首相が、街頭演説中に銃撃を受けて死去した安倍晋三元首相の「国葬」を9月に実施すると発表した。史上最長の在任期間、国際社会からの高い評価、国内外から追悼の意が寄せられていることを理由として挙げたが、全く納得できない。憲法が保障する内心の自由に抵触する国葬には反対する。

 国葬とは、国費を投じて国民に追悼を求めるものにほかならない。戦前の「国葬令」は皇族、軍人、政治家など対象者も定めていた。戦後、言論・表現の自由内心の自由(19条)、政教分離(20条)を定めた現行憲法の制定によって失効した。
 戦後、首相経験者の国葬とされるのは1967年の吉田茂元首相だけで、そもそも異例だった。岸田首相はこの例に倣い閣議決定で可能だとする。しかし、根拠法がなく定義もない。国会で説明もせずに公費が使われていいのだろうか。
 吉田元首相の国葬では、当時の佐藤栄作首相が「追悼の辞」で吉田元首相の功績として、敗戦後の苦難の時代に長く首相を務めたこと、サンフランシスコ講和条約を締結して日本の独立を回復したことを挙げ「戦後史上最大の不滅の功績」とたたえた。
 その「功績」の裏側で、沖縄は日本と切り離され、米統治下で人権を制限され核基地化が進められた。吉田氏が調印した日米安保条約、日米行政(地位)協定は現在も沖縄を苦しめている。
 その後の首相経験者の葬儀は、内閣と自民党の合同葬が大半だ。佐藤元首相の場合は自民党と国民有志による「国民葬」だった。内閣として公費を使ってきたことにも批判があった。それなのに今、なぜ国葬なのか。
 安倍元首相の功績の評価も疑問だ。在任期間の長さは功績といえるのか。米国と軍事的一体化を進めたことを米政府関係者が高く評価するのは当然だが、国内には根強い批判がある。誰もが認めるような外交成果はあるだろうか。
 沖縄の立場からはさらに厳しい評価をせざるを得ない。安倍元首相は、沖縄の民意を踏みにじりながら辺野古新基地建設を力ずくで進めてきた。地位協定見直し要求も無視し続けた。「台湾有事は日本有事」などの発言は、沖縄を再び戦場にしようとするものとして批判された。
 岸田首相は「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意を示す」とも述べた。しかし安倍元首相は民主主義を空洞化させた。安全保障関連法などで強行採決を重ね、森友・加計問題、桜を見る会問題では、長期政権のおごり、権力の私物化と批判された。国会でうその答弁を積み重ね、公文書改ざんなどを引き起こした。数々の疑惑に口を閉ざしたままだった。
 銃撃は民主主義への挑戦であり、今求められることは民主主義の精神を守ることだ。「国葬令」が失効した歴史をかみしめるべきである。

ryukyushimpo.jp


どこの、という情報は割愛する。ある、広島県内・長崎県内ではない行政機関の告知である。

防災行政無線による黙とうのお願い
 (略)…・市では、戦争の悲劇と平和の大切さを子どもたちに伝え、世界の人々と手をたずさえて、核兵器の廃絶と恒久平和を希求するため、平成23年非核平和都市宣言を行いました。
 その趣旨に基づいて、防災行政無線を使っての「黙とうの呼びかけ」を一斉放送しています。戦争で犠牲になられた方々を追悼し、平和な社会を求めるという趣旨をご理解いただき、市民の皆さまのご理解と黙とうへのご協力をお願いいたします。

原爆・終戦の日に黙とうを
8月6日は広島市に、9日は長崎市に原爆が投下された日です。また、15日は終戦の日です。これらの日には、原爆や戦争による犠牲者のご冥福と世界恒久平和を祈るため、サイレン吹鳴を行いますので、1分間の黙とうをお願いします。

日時
広島原爆の日 令和4年8月6日(土曜日)午前8時15分
長崎原爆の日 令和4年8月9日(火曜日)午前11時02分
終戦の日 令和4年8月15日(月曜日)正午

8月6日と8月9日は、広島と長崎に原子爆弾が投下された日です。
広島市長崎市では、それぞれ原子爆弾投下・炸裂の時刻に、それぞれの平和祈念式典において1分間の黙とうをささげます。
原爆で亡くなった方々のご冥福をお祈りすると共に、恒久平和への誓いを心に刻むために、市民の皆さまにおかれましても、ぜひ黙とうしていただけますようお願いします。

原子爆弾投下・炸裂日時
広島市 8月6日 午前8時15分(投下日時)
長崎市 8月9日 午前11時2分(炸裂日時)


これが、単純に安倍晋三の業績や実績、あるいは人格……まあそれを言うよりは「『国民的合意』が国葬に達しない」とかへちまとか、そういう基準だったら、両原爆の日終戦の日は比べるまでもない。こちらのほうに弔意を示すのは圧倒的な「国民的合意」がありましょう。
それに弔意を示さないのは反日だっ。ちがうか。だから弔意の強制ではない??


だが…【弔意を 行政が 示す のは、「内心の自由」に反する】、という論の組み立てしちゃったら、それは成り立たないのよ。
超へそ曲がり、奇矯な思想の持ち主か、あるいは「追悼ではなくヤンキーどもへの復讐を誓うべきだ!」とか言う過激派…どんなのでもいいんだけど、何かの理由で原爆犠牲者や大戦の死者を追悼したくない、と考えるひと。
……、そういう「一匹の羊」がいるか、あるいはいるかもしれないという想定をしてしまい、そういうひとがいるのに弔意を行政として示すこと自体が「内心の自由」に反する…ということだったら、行政機関がサイレンを鳴らしたり、そもそも式典をすることが内心の自由に抵触するのではないでしょうか。


「貴官、なぜ、黙祷せぬ!?」
「この国は自由の国です。黙祷したくないときに黙祷しないでよい自由があるはずだ。私はその自由を行使しているだけです」
「ではなぜ、黙祷したくないのだ」
「答えない自由を行使します」

いや、逆に「8月6日に式典を行い、行政機関が黙とうを命じる、あるいは呼び掛けるのは、内心の自由を侵害することにはならない」というのはどう組み立てればなりたつのでしょうか?
これこそ弁護士ドットコムあたりに記事書いてほしいところですが。



みなさんも、8月が来る前にこのへんの論理を構築せねば、危険があぶない。



儀礼を強制できる権利」というのは、使節管理権の一環なのだろうか。
権利に敏感な司法、弁護士たちも、裁判所が強制する儀礼にはだいたい抵抗せずに従っている。(完全に自主的にその儀礼をやっているだけ、とか帽子を取るのは治安上の要請、とかのエクスキューズはあろう)


「帽子を脱げ、ここは法廷だぞ」―儀礼の強制は内心の自由を妨げるか(裁判長、僕の弟懲役4年でどうすか?)