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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

本日「柔道vsプロレス、靖国神社の異種格闘技戦」から100年。

日本武道界を代表する講道館に、挑戦状が送られる。対戦者はサンテル、受けて立つのは…。異種格闘技戦の原点はここにあった。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
丸島/隆雄
昭和37年(1962)、神奈川県平塚市生まれ。東海大学文学部史学科日本史専攻を卒業。「相模国中郡煤ヶ谷村における由井正雪一党搦取の一件」で第22回郷土史研究賞(新人物往来社主催)特賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

わたくしも、もはやパスワードその他が不明でどう更新したり削除したりしていいかわからんtok2.comのホームページ上に、ささやかな資料を載せています。
庄司彦男氏の御子息に話を聞いたこともあるのです
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100年目に注目したいのは、この記事。
いろいろ新事実があって面白い。サンテルの名前は4回目に出てくる。

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……そんな野口進だが、喧嘩癖は治らず、上野を離れ横浜港に身を隠した。そこで出会ったのが「柔拳試合」だった。
 黒船来航から始まった日本の他流試合の歴史において、柔術家と外国人水夫(ボクサー)の試合はスリリングな試合展開で好評を博すようになる。これが柔拳試合の発祥で、その流れを汲んだ賭けを対象とした真剣勝負が、横浜の賭場や教会で連夜行われて……


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…筆者の関心を惹いて止まなかったのが、野口修が少年時代に出会った嘉納健治である……大正から昭和前期にかけての神戸の大物やくざにして「ピス健」と呼ばれた射撃の名手。野口修の父・野口進も所属した大日本拳闘会の会長……「ピス健はこの辺を仕切っとった大親分や。今で言うたら山口組みたいなもん。しかし兄ちゃん、なんで、今さらピス健のことなんか調べとんのよ」

 怪訝そうに訊くのは82歳の好々爺である…「従兄が灘中に通っててやな、運動会に行ったらピス健が寄付した景品が山積み。ノートや鉛筆や折り紙な。余った分は子供らで山分けや。それに、ピス健は(大相撲の)玉乃海のタニマチやったから連れて来ててやな、二人三脚とかやらしてたがな。おもろいのは、徒競走のときにピストル撃つやろ。あれ、ピス健の命令で本物の実弾込めてたっちゅう話や」


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「嘉納健治は柔拳を単なる興行ではなく、競技化しようとしていたと私は見ています。第一回目の興行から統一ルールを実施していたのが論拠です。彼の理想は『柔道をどんな武術や格闘技に対応できる、武道競技にしたい』という叔父治五郎の理想でもあった。それに応えようとしたわけです。つまり、柔拳興行とは、柔道の総合格闘技化を企図した、柔道改良運動の一種だと考えていいでしょう」

 池本の言う柔拳興行の統一ルールだが、明治から昭和前期にかけて発行していた神戸又新日報(現在は廃刊)に、その内訳が事細かに載っていた。神戸市立中央図書館ではマイクロフィルムで今も閲覧できる…


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「ワールド・ジュードー・チャンピオン」

 アメリカ人プロレスラー、アド・サンテルが自称した大仰な肩書だが、あながち虚飾とも言えない。

 講道館五段の伊藤徳五郎や、柔術家の三宅太郎ら日本人の強豪を次々と破り、柔道の裏投げをヒントにプロレス技まで編み出している。それこそがバックドロップで、伝授された弟子は、のちに最強のプロレスラーと呼ばれたルー・テーズである。


 当初、興行への関与を黙許していた嘉納治五郎だったが、岡部平太五段ら一部の高段者の声に押され、前言を翻し興行に関係した門弟に対し段位剥奪を…


著者はこの前、この著作を発表したかた、細田昌志氏だ。


13年前は別の「柔道vsプロレス」、吉田秀彦ジョシュ・バーネットの試合がありました

その時からこうやってこのブログでは煽っているのだからなんともはや(笑)。というか、ふたたびサンテルの試合百周年の記事を書けるとは予想もしてませんでしたよ。
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この因縁は、戦極旗揚げの実況を担当した矢野武アナウンサーが、入場時の煽りとして触れて語っていた。
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この動画の5分45秒から、みてみ?

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戦極乱世…。時代は再び北斗の男を呼び寄せた!

1921年 、ところは靖国神社相撲場。はるばる太平洋を越えやってきた、キャッチレスリングの猛者アド・サンテルが、講道館柔道に挑戦状を叩きつけ、日本で初めて柔道対キャッチレスリング、柔道対プロレスリングが行われたのが…87年前の今日!
大正10年3月5日でした。

プロレスの神様カール・ゴッチが世を去った今 総合格闘技でゴッチの遺志を継ぐ者はブロック・レスナー…ではない。
やはりCatch as catch canレスリングの技術体系を継承する
ジョシュ・バーネットこそふさわしい。

腰にはパンクラス無差別王者の証。

いつ、なんどき…たとえば、スキットを越えた場面、つまりいざという時真価を発揮する、使える武器を持っているのがジョシュ・バーネット

神様の遺志と、闘魂のゲノムを胸に 今リングインジョシュ・バーネット!!

「いだてん」にサンテルと試合寸前まで行った男が出てきたり(庄司より強かったのでは、と言われる)、時代は「鬼滅の刃」や「昭和天皇の皇太子時代、初の御外遊」が始まった時だったり。

■徳三宝
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■皇太子時代の昭和天皇、外遊の旅へ

ご婚約は白紙!?暗躍する元老との対峙!

時は大正。
晴れて皇太子となった裕仁(ひろひと)青年のお妃候補、内定――!

不況の世に明るいニュースが流れる中、真っ向から異を唱えたのは“明治の亡霊”こと元老・山縣有朋であった。
自らの希望を通さんと、不遜とも思える態度で婚約破棄を迫る老政治家に対し、皇室は、そして裕仁青年は…?

大正の世を揺るがした“宮中某重大事件”を大胆な解釈で描く最新刊です。

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昭和天皇物語3巻 1921年3月6日、昭和天皇は皇太子として沖縄に。

時は大正。
20歳の誕生日を船内で迎えた裕仁(ひろひと)青年はいよいよヨーロッパへと上陸する――!

イギリス、スコットランド、フランス、ベルギー、イタリア。
当時、世界の最先端であったであろう国々は極東の小国からやって来た20歳の皇太子をいかなるスタンスで出迎えたのか。

一方、青年不在の日本。
日に日に深刻さを増す大正天皇のご病状。

そして青年を摂政に据えるべく動いていた時の総理・原敬の支持率も見る影もないほどの下降線を辿っており…!?

後年、彼の人が「もっとも楽しい時であった」と語ったとされる欧州外遊。
その一部始終を自由な描写で綴る最新刊登場。


サンテルと庄司、日米がスポーツの場で火花を散らしたとき、のちにアメリカとの本当の戦争を大元帥として戦う青年は、その戦火がもっとも激しかった沖縄の地を踏む…

そしてそこから数か月、これらも後に「交戦国」となる諸国で「自由」を知ることとなる。
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■「鬼滅の刃」と同時代

「猪突猛進!!!」
「うわー伊之助、神聖な靖国神社で、土俵に上がるな!!善逸、あいつを止めろ!!」
みたいなネ。
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