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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

【決戦編】「関ヶ原合戦」異説・疑問を、氷菓「古典部」が解く(「どうする家康」に合わせて)

プロローグ さあ決着戦だ 古典部登場!

「ふたたびのお目通りとなります」



「この前はお騒がせしましたー。 詳しくは、そして私たちがなぜ登場してるかは、こちらの過去記事をご参照ください」

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「分量的にも体力的にもへろへろになったし、記事ボリュームが増え過ぎたんで、一区切りとしましたが、本日は大河ドラマでも関ヶ原決戦編。やり残した謎の解決を、思い切ってやってみます」



関ヶ原に至るまでの、政治的な暗闘については前の記事で語れました。残された課題は、実際の戦争に関する、軍事的な問題。再度掲載するとこれ。結構あるな」

徳川秀忠軍と徳川家康軍、どっちが強い?
関ヶ原に徳川直系有力武将が本多忠勝、井伊直正しかいない理由
・秀忠は「挑発に乗って余計な真田攻めをした」のか?/秀忠軍温存説(遅れはわざと?)の検証

徳川家康、江戸長期滞在のナゾ
・西軍の、当初の戦略と実際の変更点は?
・戦場は関ヶ原ではない、という説
・大激戦ではなく、けっこう一方的だった説
小早川秀秋の様子見や、「問い鉄砲」は実在したか
・敗戦後の毛利、島津処分など
・論功行賞は「家康の思い通り」だったか

徳川秀忠軍と徳川家康軍、どっちが強い?

関ヶ原に徳川直系有力武将が本多忠勝、井伊直正しかいない理由

秀忠は「挑発に乗って余計な真田攻めをした」のか?/秀忠軍温存説(遅れはわざと?)の検証

「この三つを『秀忠問題』としてまとめて論じよう。
ぶっちゃけ結論をいうと、この時の徳川軍団、家康、秀忠ともだいたい三万人の軍勢だが、間違いなく秀忠軍こそが主力で、家康は守備…というか、将棋でいえば秀忠軍が「飛車角」、徳川軍は「金将銀将」とでもいうべきかな。そもそもこの当時の軍って、要は部下がその領地ごとに編成して軍を作り、それが集まる。配下の将が10万石レベルなら10万石レベル、千石レベルならそのレベル…秀忠麾下に榊原康政、大久保忠隣、本多正信らがいるんだから、主力なんだよ」


「信長もそうだったけど、息子に過保護なんかね。そもそも秀忠、初陣だったしね」


「本来的には、もう俺が前面に立つ年齢じゃない、という気持ちはあったろう。井伊直政は、後で語る『家康、謎の1か月の江戸滞在』の時に、家康の名代として、本多忠勝は『目付』として豊臣系東軍を監視する役を仰せつかったから、関ヶ原の現場に出ることができた……んで、『余計な上田攻めをした』『上田城は無視すべきだった』という議論があるけど、上田を攻めて屈服させる(真田表仕置申し付け)、これは東軍の正式な戦略であったと、今では判っている。」


「おはなしとして考えるなら、それを『未熟な秀忠の独断と失敗』と改変するのは、すっごく面白くなる作劇術ではありますよね」


「しかしまぁ、戦争は結果だからな。上田城攻めの、偽装降伏を信じての遅延、青田刈りからの小競り合いで損害、配下の独断専行、抜け駆けを防止できなかったこと……そんなのは些細な話だけど、結果的に/上田城落城せず/関ヶ原に間に合わず/…だと、書状が届かなかったから、距離的にも仕方ないね、とは今の後知恵ならともかく、当時は通用しない。そういう結果に責任を負うのが将だ。なお、この小競り合いを合戦に相当するものではない、とみなす人もいるが、規模的にはやはり『合戦』だろう、と笠谷氏は判定」


「以前このブログでも紹介した「秀忠軍の関ヶ原到着遅れは、意図的な戦力温存だった」説はどうでしょう?」

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「ないらしい。なぜなら秀忠の、岐阜への進軍は供回りだけを連れた最小限の人数で、本当に大慌てで進んでいたからだ。勝ってたからいいんで、もし負けてたら温存軍での挽回どころか、落ち武者狩りの農民が襲ってきても対応できないぐらいの規模。本当に温存戦略なら、そこから岐阜に向かう時にも大軍勢を率いて着実に進軍していただろうから、やはり意図的な到着遅れではない。戦わないと勝利の果実にもあずかれないしね」

徳川家康、江戸長期滞在のナゾ

「実はここが、関ヶ原において一番面白いというか『戦争は、当事者の意図通りには進まない』ということを示していて一番面白いと個人的には思う」


「データ提示。家康は、小山評定(諸説あり)で西軍との戦闘を行うと決定したあとも、上杉軍や佐竹などへの『抑え』を万全にする作業をしてから、江戸に8月5日に戻る。しかし、なぜかそこから全く動かない。『空白の一か月』があるんだ。清州城の東軍からは出陣を求める矢の催促があるのに」


「この時は全国の大名をどちらが味方につけるかの外交合戦だから、書状を書いたり送ったりする作業に没頭してたんじゃないの?」


「でも、それは行軍しながらでもできるでしょうし…」


「これについては、前の記事の『小山評定』の評価と関わってくるので、その点を繰り返す。(どうする家康ではそういう描写じゃなかったが)笠谷氏は『小山評定の時は、西軍決起の第一報だけで、「内府違ひの条々」という、豊臣公儀が形式上は正式に、家康を逆臣と認定したという点については情報がなかった』と考えているんだ」


「そうなると…どうなる、のでしょう?」


「ぶっちゃけ、小山評定の決定はそのまま無効…かどうかはともかく、そう考える大名がいてもおかしくない、と、家康は考えたんだろう。比喩も再度繰り返してみよう。

「たとえていうと、ある会社のすごく有力な幹部…副社長が大勢の部下を引き連れた出張先で、本社の秘書室長が副社長を批判して、弾劾してることを知る。スタッフは『秘書室長には腹が立つ!俺たちは副社長にどこまでもついていく!』と最初は盛り上がったけど、その後、正式な会社の監査室から『副社長の、横領と背任について』みたいな文書がアナウンスされたと。それでもついていく、という人もいるだろうけど、『正式なルートで正式な文書が出た以上、ついていくと言ったのは無し!』みたいな反応も当然出てくるだろう。東軍と西軍の正統性については、そこが重要。」

だから家康は江戸を出たくても出られなかった。ここは石田・大谷の政界工作の大勝利、ともいえる」


「敵なら最初から敵であってくれたほうが、戦えばいいだけでまだまし。途中で裏切られたらそれが致命傷になる…と、関ヶ原がある意味証明になりましたね」



石田三成は、書状でこう足止め戦略を語っている。『内府、会津・佐竹を敵に仕り、僅かに三万の人数を持ち、分国十五城を抱へ、廿日路を上らる事、なる物に候哉。…上方衆、如何に内府次第と申すとも、二十年来太閤様ご恩を、内府去年一切の懇切に相替…大坂に妻子を捨て申すべき哉』」


「だとすると、家康がそのあと江戸を発つことができた理由を知りたいわね。9月1日の出陣なのね」


「ここがドラマチックな『戦場の霧』の象徴でな……清州に滞在し決戦を待つ豊臣系(だが反石田)の諸将は、『なぜ内府はまだ江戸なのか!』との疑問が公然と沸き起こる。しかし、そこに使者(村越直吉)が伝えた家康の口上は『おのおの手出しなく候ゆえ、御出馬なく候、手出しさえあらば急速御出馬にて候わん(君たちが何もしてないからだよ。動きを見せれば、自分も駆けつけよう)』」


「はた目から見ると、なんとも無責任で侮辱的な理由づけですね」


「怒って、味方が離反するとおもわなかったのかしら?」


「笠谷氏は『それで敵味方をはっきりさせたいと考えた』としている。のちに裏切り者が出るより、ここで敵に回ってくれたほうがリスクが低いのだと…だが…なんとこれで清州の人たちは『じゃあやってやんよ!』と、難攻不落の岐阜城をあっという間に陥落させてしまった!


万々歳の結果じゃない」


「ではないんだ!この戦争は家康にとっては、自分の指導体制を確立する闘い。となると、厄介だけど『自分なしで勝ってしまった』は最悪の結果とも言えるんだ。さっきの話でいえば『副社長抜きで、スタッフの判断でこのビジネスを成功させました!副社長は自分は現場に出ないよ、とおっしゃってましたけど』じゃあ困るんだ。実際家康は岐阜陥落を喜びつつ『比上は我等父子御待ち受け候て御働き尤も候』と、前線の動きを止めている」



「『どうする家康』でも、学説を取り入れてそういう描写がされましたね(42話、34分ごろ)。司馬遼太郎関ヶ原』では、村越という使者が臨機応変・当意即妙のできない典型的な一徹者の三河武士で、深謀遠慮でその人物を使者に選んだという描写が印象的でした」

どうする家康 我ら抜きで勝っては困る

西軍の、当初の戦略と実際の変更点は?

「西軍としては「大坂から、毛利輝元軍…それも秀頼を擁した毛利軍が到着する」これは必勝の戦略。」


「うわさの『幻の玉城』云々もそれは関係してるわね」

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「ただし、誰もが意外だった『岐阜城あっさり陥落』で、両軍の目算は狂いだす。家康も慌てて岐阜に到着、金の扇と厭離穢土欣求浄土の旗が翻る。実は東海道を極めて隠密に移動し、石田方の諜報網には『家康来る』がひっからずのサプライズだったらしい。西軍の動揺は大きいし、「家康が来るなら秀頼様もこちらに…」というリアクションも防いだ。ここは歴戦の将、東海一の弓取り家康の面目躍如。で、いろいろあるが状況的には『じゃあ次は…大垣攻めもいいけど、にっくき三成の本城・佐和山を落とすか!兵力に余裕もあるし、別動隊が攻めてもいいよね』という予想がついた」


佐和山が落ちれば、秀頼を擁する毛利軍が例え岐阜に向かってもここで足止めできますね」


「ゆえに、西軍は『二重引き』戦略を取る。大垣は捨てて関ヶ原に。これは第一の撤退。第二には、佐和山城への撤退。こちらが真の目標」


三成に 過ぎたるものがふたつあり 島の左近に 佐和山の城ーーー。佐和山城は手薄な現状だとたやすく落ちそうですが、西軍の大軍勢で守れば鉄壁なんでしょうね」


「逆にいうと、関ヶ原の合戦は西軍にとっては一番不利な、撤退中の戦闘、なのかも…」

戦場は関ヶ原ではない、という説

大激戦ではなく、けっこう一方的だった説

「これは単純な事実関係だから僕があっさり。戦場は関ヶ原ではない説は、いくつかの文書、それも戦闘直後の文書で、近くの地名『山中』での戦だったとあるから…らしいんだけど、これはたまたま固有名詞の地名で近くに「山中」があっての混同で、ただの一般名詞『山の中』の意味ではないかと。関ヶ原はもちろん広い平地だけど、当事者目線でいえば、山を抜けて急に見晴らしがよくなったかもしれないけど、感覚的にはまだ『山の中』だっただろうし。そもそも直後に、ここはどこどこだと正確な地名が分かったかも不明だしね。
もうひとつ、激戦だったか一方的だったか?未明から散発的な戦闘が始まり、濃霧での手探りだったのでブレーキはかかったけど午前10時ごろ霧が晴れ、昼前まで激戦があり、石田三成隊も大谷吉継隊も、何度も東軍を押し戻した。これだけで激戦と認定していい。」

小早川秀秋の様子見や、「問い鉄砲」は実在したか

「本日のドラマでも、ここがどう描写されるかが見所ですね」※結局、問鉄砲描写はなし


「従来の小早川日和見説は『戸田左門覚書』『黒田家譜』などに登場する。」


日和見は実在したんだろう、という根拠は、その黒田家譜だ。たしかに後世に書かれたもので、脚色は多いだろう。だけど、この話は『黒田長政が構築した、関ヶ原の帰趨を決める軍略が、予定通りにいかなかった』というストーリーだぜ。たしかにこっちのほうが面白いし、ジャンプで読者アンケートはよくなるが…いやジャンプから離れろ俺。面白いし、そこで黒田長政が『戦が手はず通りにいかぬは戦場の習い、この上は槍で働くもの』と啖呵を切ったのもかっこいい。だけど、本当に予定通り最初から小早川が裏切った、長政の戦略がズバリ決まったなら、そのほうが黒田家の名誉になるよな?あえて”不名誉”に言及してるんだから、それなら事実があったと考えるべきだ。」


「でも、小早川が日和ってたとして、そこに敢えて武力挑発して味方になれという、「家康の問鉄砲」について、はっきり書いてあるようなものは、後世の物語的な読み物が多いのね。これはたしかに、話として面白過ぎる=後世の創作なんじゃない?」


「だが『備前老人物語』には、そのちょっとした変形バージョンがある。小早川軍がまだ日和見をしていた時、自軍への鉄砲音が聞こえた。秀秋が調査を命じて、使者がその音を調べようとしたら、徳川の武士が下から上がってきて、火薬が湿っていたので、『撃ち捨て』の空射撃をした、心配無用と連絡してきた。だが使者は一応現場の状況を確認、どうもそうではなかったようだ…と考えた…てな話。」


「オチというか、結論は?」


「ない。いや怒るな!! こんな湿った火薬を銃身から排除するだけの話に尾鰭がついた、とも考えられるし、小早川に『裏切りはどうした、わかってんだろな!』と催促するにしても、そういう二重三重のエクスキューズをつけ、小早川軍だけわかるという、微妙なメッセージだった可能性もある。
それが後世に『真正面から催促した』『それで逆上したり、恐怖した小早川軍が裏切りの裏切り、すなわち表返りで東軍を攻撃すれば危なかった。さすが神の君のご決断よ』と、そういう意味で家康ageのために脚色された…いろいろ考えられるよ。ただ、小早川軍周辺での銃声、それ自体は存在したのだろうかなあ…ってね。戦争は、本当にいろんな偶然がかさなるもの。」

敗戦後の毛利、島津処分など

論功行賞は「家康の思い通り」だったか

毛利輝元は、大坂城に立てこもって秀頼を擁し、徹底抗戦すればまだわからなかったでしょうね」


「でも、そうならなかった…だからこの話は、これでおしまいなんだよ」


「領土に手を付けないという吉川広家との約束を反故にした、と批判する向きもあるが『『輝元様はだまされただけにござる』と吉川は言ったが、大阪城内の証拠を見ると、むしろ主犯、積極的関与じゃ。だから約束は無効』が徳川の言い分らしい。まあ、たしかにこの話はこれでおしまい。島津も上杉も佐竹も、なんとか生き延びた。島津なんか領土を完全保全したしね。そのへんは従来の話通り。」


「そして神の君は深謀遠慮によって、外様を江戸から遠ざけ、かわりに大封を与えて、次の豊臣完全滅亡戦へ向けて、手なづけて…」


「と、いうが。それは後付け。だいたい対豊臣戦を考えるなら、譜代に領土を与えて軍備増強したほうがいいだろ。おまけに、この時点では日本の中心はまだ『江戸』じゃない!福島正則黒田長政細川忠興らの所領って、京や大阪がまだ日本の中心と考えるなら『僻遠の地』か?否否。」


「あーたしかに」


関ヶ原後の処分は、どう見たって、『関ヶ原で活躍したのがいわゆる外様だったから、いやいやながらも大所領を与えざるを得なかった』、という話で落ち着く。譜代は上に語ったように、秀忠軍に主力がいたわけだからね。あと、山内一豊の提案したであろう『東海道の城明け渡し』で、徳川譜代がその管理者になったから、ますます関ヶ原譜代大名がいなくなった。」


「日本の三分の一の領土が『豊臣系大名』のものになったんだよ」

では、そんなこんながどう描写されるかも含めて今夜の「どうする家康」お楽しみに!

一応、完結

ほとんどは、同書に準拠しました。

淀殿や三奉行は三成派」「直江状偽書」「小山の評定は後世の創作」「戦は一瞬で終わった」「関ヶ原は戦場ではない」「問い鉄砲はなかった」……。四百年を経た今も日本史上最大の野戦について激しい論戦が繰り広げられている。そのうち、注目を集めた新知見を、第一人者である著者が吟味し、総合的な歴史像を構築する。

氷菓 古典部一同
氷菓メンバーが推理する関ヶ原