玉城説
NHK「決戦!関ケ原」によると、関ケ原の西側には玉城という豊臣方の要衝(野戦築城)が存在した。その城の規模は大きく、岐阜城を超えるものだった。各辺200mに及ぶ山城は、戦国時代の日本では他に類を見ない。石田三成らは、それを起点に両脇の松尾山城、菩提山城とも連携して、関ヶ原を見下ろす山々全体を要塞化することによる徳川家康迎撃計画を立てた。航空機からレーザーを照射し、赤色立体図を作成することにより、そうした新事実が新たにわかった。バチカンのイエズス会ローマ文書館では、「毛利方は12,000人が籠れる戦いの為の城砦を準備している」という関ヶ原の戦いに関する宣教師の記録が見つかり、この新説の補強となっている。しかし、歴史とは勝者によって書かれるものであり、敗者の事情・観点は必ずしも記録されるとは限らない。こうした説が2020年12月19日にNHKで報道された。NHKや外岡慎一郎、千田嘉博(共に奈良大学教授)による新説であるとしている[187][188]。
この説によると、三成が当初、大垣城に寄ったのは、玉城完成までの時間稼ぎと西軍諸将との連絡・交渉の為だとしている。また、当時の史料には大谷吉継が山中村に陣した、とあるが、現代、山中村があったとされたところには陣の跡は見当たらず、玉城跡にはあり、玉城も山中に含まれているので、史料とも整合するとしている。また、航空レーザー測量から判明したところによれば、南宮山山頂には陣跡はなく、毛利方が陣した位置はおそらくその北側山麓であり、小早川秀秋も松尾山山頂ではなく関ヶ原寄りの山麓に陣しており、後者は当初のおそらく西軍計画から逸脱した配置であった。小早川は当初から寝返りを考えており、その為、高所にではなく、関ヶ原に進出しやすい山麓に陣を敷いた。それは、西軍諸将にも容易に判明し、実際、吉川家文章には「秀秋に逆意あり」ともあり、このような小早川の不信な動きは、西軍諸将の疑心暗鬼を一層強くし、西軍の中に消極的に動く者が相次いだ。一方で、小早川の動きを見た大谷吉継は、松尾山に対する備えをする一方で、残る全軍を急遽、玉城から降ろし、関ヶ原へと進出させた。こうして計画は当初(山々が連携しての消耗戦)とは大幅に狂ってしまい、史実のような結果になったと推定する。白峰旬(別府大学教授)も、三成が陣したのは関ヶ原の西側ではなく、玉城であったと推測する。航空レーザー立体図によると関ヶ原西部には本格的な陣跡は見当たらず、玉城にはあり、合戦直後の家康の手紙には、戦いがあった場所は山中とあり、近衛前久の書状には「三成たちは山に取り上った」とあるからである。また、石田方が関ヶ原に布陣した、という記載は後世の史料には出てくるが、一次史料には存在しない[187][188]。
上が、現在みられるウィキペ「関ヶ原の戦い」の「玉城」に関する記述。
そして
以下は、このブログで数時間前に書いた記事だが、とある大きな間違いを大前提にしていたのだった。
その間違いについては、後で記述する。
消すのも意味がないので、間違いであるという前提の上でテキストを残しておこう。
過去のNHKの番組紹介記事を再読してもらおう。
決戦!関ケ原「空からスクープ 幻の巨大山城」
1/28(土)14:30~16:30 BSプレミアム での再放送
こちらは本放送時の内容紹介天下分け目の関ヶ原の戦い。戦国の一大決戦の通説が覆る!? NHKは航空レーザー測量を実施し、関ヶ原全域の赤色立体地図を作成。石田三成たち西軍が築いたとみられる巨大山城の跡を確認した。敗れたはずの西軍は、鉄壁の防衛網を築き上げ、家康を迎え撃とうとしていたのだ。さらに西軍武将たちの裏切りの痕跡も発見。壮絶な神経戦が浮かび上がる。最新研究と本格ドラマで描き出す新説・関ヶ原。驚きの連続の2時間スペシャル。
【アナウンサー】青井実
【出演】村井美樹,千田嘉博,小和田哲男,外岡愼一郎,石黒英雄,宍戸開,マルシア
<関連記事>
空から読み解く! 新説・関ヶ原
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=26648&f=fbNHKが最新テクノロジーを用いて”スクープ”したという「玉城」。関ヶ原に豊臣秀頼、あるいは毛利輝元を出陣させ、彼らが滞陣する筈だった幻の巨大戦国要塞。
慶長5年のデス・スター、あるいはイゼルローン。番組でも、千田嘉博,小和田哲男といった学者さんが、その存在価値は新たな発見の意味を(空気を読んで)裏打ちしててくれました。
さて、そこで自分は、以下の文章を書いた。
どこにだと思う?
ここにだよ。
ja.wikipedia.org
(ここの「関ヶ原の戦いに関する諸説」内)
これがどんなに恐ろしい事か分かるか?
戦国時代のウィキペディア記事は、ただでさえ分量が多い、内容が充実してる。
それだけではない、記述をめぐって「論争」が盛ん過ぎる。上の項目の「ノート」見てみやがれ。ja.wikipedia.org
なんだよ、この激戦地。
天下分け目すぎんだろ。
そこに、ぶっちゃけウィキペの特殊なタグ付けの仕方もようわからん人間が乗り込んで記述追加したんだ。
どんなことになるか…
なぜ「関ヶ原」の項目に紛れ込ませたかというと、最初から新項目作るやり方わからないので、文中に「玉城」を入れ、そこにタグを入れて、そこから…あれ?「曖昧さ回避」にいっちゃったな…。どうやって作るんだっけ、新項目って本当に。まあ、ここからじんわり、ウィキペの項目づくり方法を思い出しつつ。
昔はスモール・タニこと谷幸雄の項目とかつくってたんだぜ。知らない間に識者が写真まで含めて充実させまくってるけど…
ja.wikipedia.org
戦国好き論者には既に「関ヶ原の玉城」の存在はともかく、意義をめぐっては高評価派・否定派など多数いましょう。
上の、既に加わった項目も含め、さまざまなご意見と資料で充実させまくってください。自分の文章などそこで討ち死にしていい。捨て石だ。伏見城の鳥居元忠だ。
いま天下のNHKも、きちんとしたテキストで自分らの「スクープ」を解説したテキストは少ない。これぐらい。
https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/my-asa/T5VgO7CvCx.htmlwww.nhk.or.jp
なお、中井均・滋賀大学名誉教授が「玉城は関ヶ原合戦で、幻に終わったが重要な意味を当初は持っていた」という説に否定的らしい。
このような、講演を聞いた人のルポが残っている。
triceratops.cocolog-nifty.com
……実のところ、玉城は以前から存在が知られていた城跡で、「新発見」ではない。そして中井先生によれば、「豊臣秀頼の本陣として築かれたなどあり得ない」。そもそも縄張り(城の設計構造)から見ると、西側に巨大な堀切があり、関ヶ原のある東側を防御する作りではない。また、山の頂上部には土塁や虎口が認められない。これは、関ヶ原合戦当時よりも古い縄張り構造であることを示している。また、城の規模も、松尾山城(これはもともと西軍総大将である毛利輝元が入る予定の城だったと考えられる)より小さいし、そもそも関ヶ原合戦自体が、豊臣秀頼と徳川家康の戦いではないのだから、大坂から秀頼が出陣して玉城に入ることはありえないのだ。結論的に言えば、玉城は「元亀元年(1570)以後に近江と美濃の国境を監視するため、織田信長によって築かれた山城である可能性が大きい」と…これもどこかのテキストとして残っているのだろうか。
あれば、そういう説ももちろんウィキペでは語られるべきなのだ
そう、大前提の「関ヶ原の玉城について、ウィキペの記述がない」がそもそも間違いで、自分が数行書いたそのページに、すでにすんげー長文の記述が載っていたのだ。
いや、一応検索したんやで?でも検索にひっかかってこなかったんや、なぜか。
まあ、そんなわけで、自分が項目に対して編集とか追記がなされるとかじゃなく、既にすんげー分量の記述があったという、それ以上におそろしい何かを見ました。
※だけど、わかりにくい「玉城説」を、『「玉城」築城による東軍迎撃構想説』に改めたのは当方で、まぁ一応爪痕は残せた、と。
ただ、やはりここから「玉城(岐阜県)」という施設固有名詞の項目があっていいかな…とは思ったりしてます
玉城の構造を暴いた最新航空レーダー調査についてはこちらの記事も。
m-dojo.hatenadiary.com
続報
※ちょっと抗議の意味を込めて貼る画像
2023年11月、「歴史探偵」でも『玉城』について語られた。
千田教授は「関ヶ原合戦図屏風」にも、位置と形状が酷似しているので「玉城」の絵が描かれている、と主張している。守備兵は大谷吉継軍であったとも。
www.youtube.com
そして本放送(たぶんこのあと、NHKオンデマンドで見られるようになるだろう)を受けて、異論・疑問も専門家、非専門家を含めて発表されるようになった。その一部
m-dojo.hatenadiary.com
追記 この城(跡)そのものを記述するウィキペディア項目が2023年5月にできていました
ドギャーン。
ja.wikipedia.org
ただし2024年1月13日現在、この記事に「1600年の関ヶ原の闘い」と関連付けた記述は全く無い!!付け加えられると自負するものは、追加記述を試みてみたまへ。