こういう作品が目下、話題。はてブがたくさんついた。
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異世界ものって、どこからどこまでが共有された設定で、どこからがその作品のオリジナルなのか正直もはやわからん……(たとえば、普通に最初に出てくる「チート能力」ってなんよ、とか老害は思うわけです)
ただこの作品って、どうもまず、最初に自主的な公開がされたオリジナル版の漫画があり…そこに商業出版社からオファーがあって、その際に過去の公開作品は「原作」となって、ぶっちゃけ画力の高い作画者によってリメイクされる、と(笑)。いや、非常に合理的な話じゃないですか。こういう作品作りは今後も増えていくでしょうし、これなら画力が、たとえば俺レベルでもワンチャンあるわけだから(※皆無だよ!!!)。
というか、この形式ってこの前までビッグコミックスピリッツに連載されてた「私の息子が異世界転生したっぽい」だよね。まず自主発表漫画(画力はそれなりでいい)、それが評価されて画力の高い作画者がついて大手からリメイク、という。
これもこれで、そういうアイデアを最初に思いついた人エライ!!
「まず自主発表漫画、それが評価されて画力の高い作画者がついて大手からリメイク」で最初に思い出すのは僕の場合はワンパンマンですね
— 福冨諭 /(' - ' ;)\ (@fuktommy) 2023年6月4日
さて、その話はおいといて本題。
この作品世界で、大きな意味を持つらしい設定が、「奴隷はまったくその身分から脱出する機会がないわけではなく、報酬をもらう権利と、それをためて一定額になれば解放される権利が保障されている」という話だ。
この話は「ヴィンランド・サガ」の中盤…アニメだと今放送中の第二期で、これまた重要な意味を持つ制度だった。
で、この話は山本七平のコラムを読んで以来、印象深い話だったので、複数の記事を書いてきた。この機に再掲載しておこうと思う。
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これらのリンク集から、断片的に引用して、ひとまとめにしてみよう(むつかしいな…)
「労働は自由にする」という幻想と実態。
「労働は自由にする」、というスローガンはのちに非常に悪い状況で使われて不吉もいいところの言葉になってしまった(各自調査)が、この「ヴィンランド・サガ」に関しては、それのある意味、理想的なカタチが描かれていた。
まず大前提として、実はヴィンランド・サガで主人公らを買った農村主が、珍しいことにとても「いいひと」であった…という、そういう前提がある。
と、こんなふうにして開拓をすすめていくのだが、この主人には2人のバカ息子がおり、さらにはこの主人も、女奴隷への愛情ゆえの妄執に落ちて・・・というふうに話は進んでいく。ただし、この稿ではその話はとりあえず関係ない。
どこまで一般的な例かは分からないが、日々の労働に対して対価を与え、それの蓄積によって身分を自由なものにする(自分を買い戻す)という仕組みがあった、ということをまず押さえておこう。なぜこんな制度があったのかというと…、やはり人間の「モチベーション」はそういうものだという、人間性の本質が関わってくるようなのだ。
「自由」を餌にした奴隷の使役方法〜「神による贖(あがな)い」という言葉を生んだ制度
奴隷は言うまでも無く生涯奴隷のはずだが、ローマ帝政期には、意外なほど奴隷の解放が多かった。これにはいろいろな理由があり、また解放の動機・ケースは種々さまざまだが、最も大きな理由の一つは、解放したほうが奴隷所有者にとって有利な場合が多かったからである。
というと奇妙なようだが、俗に言う「ただより高いものはない」の一例であって、不能率・超低生産性の奴隷労働は、意外なほどコストの高いものについたらしい。確かに単純作業なら鞭もある程度は有効かも知れぬが、特殊技術を必要とする労働における特技をもった奴隷の能率向上は強制、威嚇、体罰では不可能である。さらに学問奴隷や技術奴隷となると…(略)彼らが能率を上げてくれないと商売が成り立たない・・・いかに奴隷所有者でも知識や技術は暴力で吐き出さすことも、取り上げて他に与えることも不可能だからである…(略)
とすると、報酬の幾分かを奴隷に与えて能率を上げさせるほうが、結局奴隷所有者にとっても有利ということになる。…こうなれば奴隷のほうも一心に能率を上げて収入を増やそうとする。とすると必然的に仕事は繁盛し、所有主の収入も増えることになる。一方奴隷のほうがその収入を貯蓄して、それによって自由を買い戻す……のがごく当然の願望になってくる。非常にわかりやすいまとめだが、
ここからがまたおもしろい。
さらには、この個所を、魔法によって効力を強制し得る今回の異世界ものと比較するとまた興味深い。
奴隷は”人間ではなく家畜である”から、人間たる所有主と奴隷の間で契約を結ぶことは不可能な訳である。例えば主人が「お前の得てきた賃金の半分をお前の為に積立ててやる。そして、それがお前を購入した金額に等しくなったら解放してやる」と奴隷と契約しても、この契約には効力はない。
奴隷がそのつもりで一心不乱に働き、主人が「購入した金額に等しい」金額を既に積立てた頃、「こりゃいい奴隷ですぜ」といって彼を最高値で他人に売り飛ばし、積立金を自分の懐に入れてしまっても、奴隷は一言の文句もいえない――彼は家畜なのだから――。だが、こう危惧されて常に疑心暗鬼であっては、生産性はあがらない。それでは主人が困る。
この少々面倒な問題の解決に乗り出して来たのが、実は神様なのである。
そして西欧社会の非常に面白い特徴は、この「神」という概念が実は「法」「契約」という概念の極限として、人間社会の実務と深く関わりあっており、単なる宗教学の対象には収まり切らない点にあると言ってよい。
この方法は、奴隷による収入の一定部分を神殿に寄託して積立てるのである。今残っているのは火神アポロンの場合とユダヤ教徒の場合だが、まず前者を見るとこの寄附金が一定に達すると、アポロンがその奴隷を主人から買いとり、その買取り代金として積立金を旧主人に渡す訳で、ここでその奴隷は「アポロン神の奴隷」となる訳である。だがアポロンが彼を使役する訳にはいかないので実際には解放される訳であって、これがリベルテ(解放奴隷)、この言葉からリバティー(自由・解放)が生まれた訳である。
これが元来は契約の対象にならない奴隷と契約を結ぶ方法で、上下契約の最も古いものの一つであろうと思われる。そしてこの図式は実際には主人・奴隷の上下相互契約でありながら、形では主人と神との契約で、奴隷は主人から神に売られたという形式をとっている訳である。面白い事にこういった契約形式は今でも残っておりそれは西欧の結婚式に表われている。
こういう制度がそもそもあったからこそ聖書の「主によりて贖われる」とか「キリストは義と正と贖いである」という言葉は、なんとなく今では抽象的、神秘的な概念のように扱われるけど、当時としては極めて具体的なイメージだった…と解説されている。
の「歴史における『生活の座』」より引用した。
以上、
さらに、イスラム教は…預言者ムハンマドが、当時としてはやはり画期的というかとても寛容な仕組みを作った。
それは、宗教行為としての「善行」の中に、「奴隷を解放するのは善行、功徳、アッラーがお喜びになる、天国への道!!!!」…というふうに位置づけたのだ。
そしたら、金持ちのじいさんばあさん、それも病気のひとつでもして、余命はきょうかあすかとなったような連中は、そりゃ解放しますわ。ぞろぞろ解放しますわ。
(※画像はムロタニツネ象の「世界の歴史」、伝説の名将サラディンとその弟のイエルサレム攻略後の会話)預言者ムハンマドの現行を伝えるハーディス(伝承)にいう。「女奴隷に教育をほどこし、解放し、結婚した者には天国で二倍の報いがある。」
「コーラン(2-177)」にも神に正しく仕える者とは、http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sura002_jp.html
その財産を、近親、孤児、貧者、旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やす者のことであると記されている。
このような教えに促されて、奴隷の解放が積極的に行われた。とくに「死の床」についたときに奴隷をまとめて解放し、死後に天国に入ることを願う信者が少なくなかったという。えらい人に掣肘を加えるために、それよりさらにエライ何か、を架空の形であっても設定する。
それによって、奴隷主も王も、専制者になりえないようにする…遡れば旧約聖書や儒教成立の時代からあったのですよ。
ユダヤ教のトーラーには、表紙に王冠の紋章が描かれていたとか。
……と、そんな思想を背景に「奴隷が報酬を少しづつ得て、自由に近づく。その権利は、奴隷主よりさらに上位者(架空かもしれない)によって保障され、奴隷主も手出しできない」という制度、仕組みは実在していて、またそれを下敷きに、創造力やSF的発想を膨らませた「異世界譚」が生まれる。
そんなことをきっかけに、再紹介してみました。