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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

人間が、捕まえた命を解放して「いいことしたなー」と思う話(「人間が奴隷になる話」続編的に)。

ちょっとtwitterで読んで、語った雑談の収録。

ニー仏 @neetbuddhist · 9月14日
ミャンマーの仏塔の前には、鳥をアホほど詰め込んだ籠を見せびらかして、「さあこれを放して功徳を積んでください」って商売やってる人たちが必ずいるんだけど、それで放生した客が去ったら、子供が走って直ちにその鳥を捕まえてるので、なんかもう救いがたい闇を感じる。
 
慶喜 @kundga_ · 12 時間
チベットでは、サカダワ(チベット暦4月)に功徳を積むと何万倍にもなると言われているので、漢族が売っている生きた魚を買って放生するチベット人もいるようですね。で、放生された魚がまた捕らえられて売られたり、などと言われていますね。難しいなあ。(^_^;)
 
我乱堂 @SagamiNoriaki · 1 時間
放生会って日本でも江戸時代にやってたよねー。
 
✽N-eco✽ @NikushokuNeco · 1 時間
↓RT タイでもやってるな。ドジョウとか買って池に放してタムブン(タンブン: 徳を積むこと)。
 
gryphonjapan @gryphonjapan · 51 分
落語でも屈指のブラックユーモア噺「後生うなぎ」

あらすじ
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/04/post_b13e.html … どうもこの、いったん捕まえた命をわざわざ放して「いいことしたなあ」と思うってのは世界共通の業なんですかね。@SagamiNoriaki
  
ITA ‏@ITAL_
@SagamiNoriaki 落語にも後生の鰻という噺がありますからね。
 
gryphonjapan @gryphonjapan ·
これ、かなりの伝統があるのかと思ったら、父ブッシュからの慣習なのか。じゃあ俺、初回の映像を見たことあるわ。木村太郎がまだキャスターやってたころ。
ホワイトハウスで恒例「恩赦式」 対象は七面鳥】 http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009112601000403.html

 @SagamiNoriaki
 
我乱堂 @SagamiNoriaki · 43 分
ま、まあ…命を大切にするのはいいことだが…
 
gryphonjapan @gryphonjapan · 47 分
そしてこの画像は、エルサレムを陥落させた後のサラディンと、その弟の会話です。コーラン奴隷制度を前提とした記述がある一方で「奴隷を解放してやるのは功徳」と繰り返してるとか。スケールでかい放生会だ(笑) @SagamiNoriaki


わたくしがこの会話に加わったのは、6月に書いた

「人間が奴隷になる話」―断片的な随想と雑感 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140602/p4

からつながっている。
そこでは生産性をあげるために奴隷が日々の報酬を積み立てて、自由を購入できる制度について紹介したが、上のサラディンのように、イスラム教やキリスト教の中には「功徳」としての奴隷解放という慣習、制度があったようなのだ。
こんな記述を最近読みました。

預言者ムハンマドの現行を伝えるハーディス(伝承)にいう。「女奴隷に教育をほどこし、解放し、結婚した者には天国で二倍の報いがある。」
コーラン(2-177)」にも神に正しく仕える者とは、

http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sura002_jp.html
その財産を、近親、孤児、貧者、旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やす

者のことであると記されている。
このような教えに促されて、奴隷の解放が積極的に行われた。とくに「死の床」についたときに奴隷をまとめて解放し、死後に天国に入ることを願う信者が少なくなかったという。

世界の歴史〈8〉イスラーム世界の興隆 (中公文庫)

世界の歴史〈8〉イスラーム世界の興隆 (中公文庫)


実をいえば、死ぬ間際に金持ち、権力者が奴隷を解放して「これで天国にいける」…と思うのは、要は「免罪符」につながる考えなんですよね。お金を使えば天国にいけるのか。…ただ……「行動でなく信仰によって救われる」というのは、逆に言えば亡き父、母、子どものためにいくらお供え物をしてもだめ、無意味なんだというハードな思想。
 
放生会」でなにがしかのゼニを払って、かごのうなぎやら鳥やらをもう一回外に放り出す、というのもその裏にあるなんつーか、矛盾というかエゴイズムというか、せせこましさというのがむき出しになっている。
…だが、その「偽善」や「矛盾」があるがゆえに、人間の社会ではそれが何かしらのバッファーというか、緩衝材的なものになっているよねえ、という思いも、上の事例をみていくと感じるのだよね。
 
すくなくとも、死後の天国をもとめてこんなふうに捕まえたー、放した、とやっている無数の「えらくも深くもない”善男善女”」のいる社会は、いない社会よりはなんとなく生きやすい気がする。

「奴隷」という言葉は現在、イスラム国(IS)をめぐる報道でも散見するが、ここにも彼ら彼女らを解放して「アッラーへのお供え物じゃ。これで天国にいける」と思う”善男善女”もいたりするのだろうか。