INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

「最近『上杉謙信の乱取りと人身売買』が論じられるが実質的には『捕虜解放』だったのでは」~日本奴隷史補遺。

ちょい面白いテーマです。
上杉謙信人狩り乱取りは本当にあったのか』
jbpress.ismedia.jp

これねー「従来の定説に疑問を呈する最近話題の説…に、さらに疑問を呈したもの」なので、人を選ぶテーマ。つまり「従来説への異論として最近流行している説」を知ってる人という大前提がないと面白くないんだ(笑)
でもその前提があれば非常に面白い。

この説の根拠とされている史料を取り上げよう。

二月の小田開城と春中の人の売買
 永禄9年(1566)2月16日、謙信(当時は輝虎)が常陸の小田氏治の居城を攻めて、降参させた。このとき、有名な事件が起こった。戦争捕虜の取り引きである。


「九丙寅二月十六日小田開城、カゲトラヨリ御意をモツテ、春中人ヲ売買事、廿銭卅弐程致シ候」(『和光院和漢合運之事』)東京大学史料編纂所
ギャラリーページへ
 これを普通に現代語訳すると、「小田城が降参した。謙信(=カゲトラ)の許可があり、春中に捕虜が売買された。20銭で32件ほど行われた」と読むことになろう。

 ところが、この記事が書かれた「和光院和漢合運之事」(『古文書雑集』[二])を実際に見てみると…(中略)


…この史料を通読すると、この事件以外に人身売買の記事が見えないのである。当時「人を商買」すること(戦争捕虜の身内から身代金を取ること)は「東国の習い」であった(真田家文書、天正18年4月29日付、真田昌幸宛)。ならば、どうしてこのときだけ特筆される必要があったのだろうか。それには何か理由があったはずである。

 この時代の戦争捕虜は、2〜10貫が相場であった(30万〜150万円ほど。『甲陽軍鑑』による。武田軍は信濃の捕虜を甲府で取り引きさせた)。しかしここではその1パーセントほどの値段で、身内に買い戻しやすく設定されている(3000円ほど)。するとこれは、事実上の捕虜解放であるだろう。記録者の宗教家が、この事件を特筆したのは、前例のない歴史的事件として認識したことになる(参考:拙著『上杉謙信の夢と野望』)。

上杉謙信の夢と野望 (ワニ文庫)

上杉謙信の夢と野望 (ワニ文庫)



なるほど。
なるほどと思うのは、ちょっとサラディンを思い出したからだ。


預言者ムハンマドの現行を伝えるハーディス(伝承)にいう。「女奴隷に教育をほどこし、解放し、結婚した者には天国で二倍の報いがある。」
コーラン(2-177)」にも神に正しく仕える者とは、

http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sura002_jp.html
その財産を、近親、孤児、貧者、旅路にある者や物乞いや奴隷の解放のために費やす

者のことであると記されている。
このような教えに促されて、奴隷の解放が積極的に行われた。とくに「死の床」についたときに奴隷をまとめて解放し、死後に天国に入ることを願う信者が少なくなかったという。
m-dojo.hatenadiary.com

サラディンの場合は、奴隷解放が天国に至る善行であるとの宗教的背景があるから「無料解放」もあったろうが、まあ安値にしろ高値にしろ、虜にした敵…逃がしたら再度敵対するやもしれない戦力…を、
首を斬ってさらさないだけで「人を売るのは、捕虜解放の一種である」という側面が一部にあるのは間違いない。身内が連れ戻しに来ることもあるのだから。



と、同時に、どこまでこれが「東国のならい」、つまり慣習ーシステム化されていたのだろうか?
数年前、「日本に身代金の習慣がないこと」を前提に歴史雑談をしていたので。(まあ少なくとも君主級で、敵対勢力の捕虜になりつつ身代金によって解放された例はあまり聞かないと思う)
togetter.com



つまり奴隷制が本当にシステム的な、法制度として機能するなら、そもそも「自由民」を定義されるはずで(そもそも人の徴用や労働待遇の厳しさが一般的なら「奴隷『制』」がなくても実質奴隷がいるという問題もある)

…つまりは逆に「権利を持つ自由民(市民)」の定義こそが必要かと思った。


日本にも他国にも奴隷はあったはずだけど、『このひとはこういう形で「奴隷身分」、この人はこういう形で「自由民(市民権所持者)」である』と分けて、おそらくは登録したりするような、そんな制度化された奴隷制度は、どこにあったのだろうか?と。


というのは、奴隷というのは、ある意味で戦争などで人を略奪(拉致)して、それでどこかで「こき使う」ことをすれば、自然と(実質的な)奴隷は成立すると思うんですな。
単純なものだから、逆にそれを制度化しないところは制度化する必要がなかったんじゃないかなあ、と・・・・・・・・。
m-dojo.hatenadiary.com

戦国時代の人身売買がこの前、はてなで話題になったのは2014年の

type-100.hatenablog.com
b.hatena.ne.jp

人身売買・奴隷・拉致の日本史

人身売買・奴隷・拉致の日本史

があり、それを受けて

「人間が奴隷になる話」―断片的な随想と雑感 -
d.hatena.ne.jp

を書いたのだった。今回の記事は、この本の記述と抵触したりするのだろうか。




上杉謙信のパーソナリティ

太田道誉は、謙信の家臣と語らったとき、「謙信公の御気質を見る限り、10のうち8つの大賢人で、残りの2つは大悪人と見える。生まれつき立腹しやすく、道理に合わないことも多くしている。これが大悪人である。しかし、猛勇で私欲がなく清らか、器量は大きく潔白で正直である。慈悲をもって将士に接し、諫言も素直に聞き入れる。こんな名将は今後も現れまい」

というのは、岩明均の「雪の峠」の話のようでおもしろい。

雪の峠・剣の舞 (KCデラックス)

雪の峠・剣の舞 (KCデラックス)

  • 作者:岩明 均
  • 発売日: 2001/03/21
  • メディア: コミック

謙信は戦争に、独自の美意識があり、それをひとつの基準としていた。 

 関東越山の直前、常陸佐竹義昭に「依怙の弓箭は携えず、筋目によってのみ戦う」と豪語し、後年も「わたしはこれまで順法の弓矢を守ってきました」と述懐している。私戦の否定と、公戦の自認、それが謙信の思想である。謙信の戦争は、かれの中ではすべて公儀のために行う正しい戦争なのであって、そのためなら断固たる処置を辞さなかった。謙信の潔癖性と残虐性は、ここに理由がある。


これは別に「義」をそのまま受け取る必要はなく、一種の『宗教性』と翻訳すればいい。戦うきっかけにも宗教性がある一方、たとえば平気で火縄銃の射程に入って、そこで悠然と弁当を食べたという逸話や、あまりに勇猛果敢な戦術も、つまり「宗教的確信があるから、危険を恐れないで自ら死地にさらすようなことも平気でやれる」という側面があるのではないか、という話を、これは井沢元彦がどこかでしていたと記憶している。

小田原城攻防のさなかの昼時、謙信は蓮池の端に馬を繋ぎ、持参した弁当を広げて、小田原城の眼前で昼食をとりはじめた。これを見た北条方が10挺の鉄砲隊で2度、その謙信目掛けて撃ちかけたが、弾丸は鎧の袖は撃ち抜ちぬくものの謙信に当たることはなく、謙信はその状況で悠々と茶を3杯飲みながら食事を続けたという。(『名将言行録』、『松隣夜話』)
ja.wikipedia.org