読んでる漫画から、細かい知識やネタをメモする記事。
「何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが?」という、時間ループと戦国時代ものを混ぜた漫画があります
人気はかなりあるらしいけど、戦国のチートたる信長を軸によくあるアイデアをより合わせたもので、あまり新味を感じません。以上…なんだけど、冒頭に紹介したように最新回で「戦国武将は生涯、何戦何敗だったか?」という話を小ネタとして紹介してる。
戦争で勝った負けたなんて明確に決まるもんじゃないだろ、連続性とかもあるし……。とか、だれが計算したんだよ、東大か?本郷和人か??…などなど大人の部分では突っ込むけど、中二的にはやっぱり興味津々(笑)
織田信長 68戦15敗 勝率78%
武田信玄 72戦6敗 勝率92%
長曾我部元親 32戦8敗 勝率78%
島津義弘 49戦7敗 勝率86%
なんだって。
そして
上杉謙信 71戦2敗 勝率97%
あっ、ハイ。
こいつね。
こいつの関東来襲は、軍事侵攻というよりほとんど天災。シン・ゴジラ的な何か。
というか、上杉謙信の2敗ってどこの何だよ(笑)。調べればわかるだろけど敢えて調べずに疑問を残しておこう。
そして、勝ちか負けか引き分けかどうカウントしてるかしらんけど、唐沢山城にこもっていい勝負して、恭順したり離反したりでなんとか独立を全うして生涯を終えた、佐野の佐野昌綱はやっぱりすげーんだな、と。
んで、手前味噌につなげるけど、そんな一発屋武将の中に「佐野昌綱」を加えたい。今も良好な状態で残る山城・唐沢城に籠って北条を迎え撃った時、援軍の上杉謙信が画像のような武勇伝を残したのだけど、その後どうなったかとウィキペ見たら、その後佐野はがっつり謙信を裏切ってやがるの(笑)
— gryphon(まとめ用RT多) (@gryphonjapan) June 10, 2018
続く pic.twitter.com/ufdi7T0U9I
しかもそうやって謙信を裏切って北条についたので当然、激おこの謙信に攻められるのだけど、あの軍神・不識庵公に攻められても守り抜いたり、形だけ降伏したりして表裏比興に戦国を生き抜いたみたいなのよ。
— gryphon(まとめ用RT多) (@gryphonjapan) 2018年6月10日
「謙信がもっとも恐れた」…じゃないか
(続く)https://t.co/ME7jESdcYV
「謙信をもっとも苛立たせた男・佐野昌綱」ぐらいには、歴史好きの記憶にとどめてほしい男です。
— gryphon(まとめ用RT多) (@gryphonjapan) 2018年6月10日
ちなみに地元の佐野では、かなり良好な遺跡の残る唐沢城が昨年「山城サミット」の舞台になったほか、そんな因縁の上杉謙信を天災かゴジラ扱いした「上杉謙信がやってきた」展を開いたりしてる(笑) pic.twitter.com/isAvWMaZU4
ja.wikipedia.org
享禄2年(1529年)、佐野氏第13代当主・佐野泰綱の次男として誕生(一説では兄・佐野豊綱の子とも)。通称は小太郎。永禄2年(1559年)、14代当主・豊綱が死去すると家督を継ぎ、佐野氏の第15代当主となる。
佐野氏は代々古河公方足利氏に従い、昌綱もはじめは足利晴氏に仕えたが、古河公方の力が衰退し後北条氏の勢力が拡大すると、北条氏康と結んだ。ところが、越後国の上杉謙信が後北条氏討伐のための関東への侵攻するやこれに呼応し小田原城攻囲に参加した。これに対し永禄3年(1560年)2月に北条氏政が居城の唐沢山城へ3万余の大軍で攻撃すると昌綱は徹底抗戦し、その後上杉謙信の援軍が間に合い撃退に成功している。しかし、小田原城攻囲が失敗に終わると程なくして上杉を裏切り、永禄年間には、再び北条(足利義氏)陣営へ寝返った。
その後、永禄年間から元亀年間まで上杉謙信から10度攻められたが、昌綱の優れた戦の才能と、後に関東一の山城といわれる堅城・唐沢山城で防戦し、ほとんど撃退している(唐沢山城の戦い)。時には謙信に降伏したが、戦後の情勢によってやむを得ずに和睦して明け渡したり、使者などを遣わして改めて降伏しただけであり、謙信の帰国後に即座に離反するなどして命脈を続かせた。一方、謙信側から見れば、唐沢山城(佐野)は関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、関東に進出する上で確実に確保すべき拠点とみなされて特に重要視されたとみられている[2]。そのため越後平林城主の色部勝長が唐沢山城に駐屯していた時期もあった。更に、上杉氏や北条氏らの大国に飲み込まれないように、軍事面でも民政面でも相当な改革を行っていたといわれている。
天正2年4月8日(1574年4月28日))、死去。一方で本光寺にある墓には、上杉謙信の一周忌の日である天正7年3月13日が、佐野昌綱の墓に刻まれている。これは好敵手であった謙信よりも長く生きたという意地を示すために遺言で刻ませたという伝承もあるようである。戒名は天山道一居士。