数日前、こんな催しがあった。
👏 #シンエヴァ 1周年おめでとう👏
— Amazon Prime Video(プライムビデオ) (@PrimeVideo_JP) March 8, 2022
今夜19時は #シンエヴァ1周年生特番
みなさんから寄せられた質問に対する庵野総監督やスタッフからの回答をコメントで紹介!声優さんからのコメントテキストも!
19時にみんなでTwitchに集まってシンエヴァを同時視聴しよう!
視聴はこちらhttps://t.co/DVih4J2fRs pic.twitter.com/JStx7kzXpT
自分はこれに関して
『テレビの強みである「みんなで一斉に同時に見ることで話題や連帯感が盛り上がる」というのを吸収するために、配信元が音頭をとって「〇月〇日◇時に一斉視聴!」とやるって方法あるんだね』という点が非常に興味深かった。
そこのところを、13年前に「テレビのこれから」を話し合った座談会から考えたい……と思ったのだけど、
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先に考えなきゃいけない話があるので、そちらを語ります。
togetter.com
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にも収録された、このやり取り。
#シンエヴァ1周年質問集#シンエヴァ1周年生特番#庵野さんからお返事
— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
Q:「そのひとが言うと、それが正解になってしまう非関係者なひと」のことをどう思っていますか?
A:迷惑、と思います。
https://twitter.com/JP_GHIBLI/status/1501315311164788736
および、それへのブクマ。
[B! 映画] シンエヴァ一周年Q&Aの『「そのひとが言うと、それが正解になってしまう非関係なひと」は迷惑』にスタジオジブリが同意。そこから色々察する人々
[B! eva] スタジオジブリ STUDIO GHIBLI on Twitter: "@evangelion_co https://t.co/OdbRiICWtZ"
あたくしの主張は、以前書いた別の記事でもう端的に述べてるので、それを少しだけ整理して箇条書き&コピペすれば済む。
・物語は誰のもの?と聞けば、「それは作者のものだ」も、たしかに正答である。
・しかしそれは「浮世の、俗世の世界における『著作権』という範囲内において、法がそう定めている」というだけである。
・作者の及ぶ権限とは、それ以上でも以下でもない。・では法律的な、この俗の世界のお話ではなく、聖なる「物語」の世界において、物語の正統性は「作者である」ことによって保障されるのか?
・「物語(設定)」とはしょせん、おはなし、ウソであるので、どの「ウソ」が「正しい」のかなんて、もともと言葉として矛盾しているのである。
・では、どうやって物語(設定)が「正しい」とするかというと、結局"実力"によるしかないんだと思う。
・「オリジナルの作者が描いた、定めたものだ」「著作権管理財団から公式の続篇だと認定された」というのも、それはそれなりに”正統性”の要素のひとつにはなるだろう。
いわば、戦国武将は実力で覇を競うとはいえ「我は清和源氏の流れをくむ名門なり」や「朝廷から正式に守護代の位を頂いたなり」が、その『実力』に加味されるようなものだ。
ただ、それだけでは勝てない。実力で、勝ち取るしかない=公式ならその設定説明の説得力が、よそのやつよりあるよね!と納得させる力があればいい。それにつきる。
以上の話は、たとえばこの時に論じた。
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作者と編集部が「この物語には、複数の、いくつもの選択肢があります。どの結末が正しいかはこっちでは決めません」とか言ってたので、端的に問題点が炙り出されたのだった(笑)
ま、そういうことなんですよ。
みんな、まず原点としての「物語を創作者がコントロールできるのは、世俗における『著作権の及ぶ範囲』でしかない」というところを再認識していただきたいんです。そこに異論ないやろ?
そこから離れた、「考察」と称してさまざまな設定をあーだこーだいうのは、基本的には著作権上もセーフでしょ?
そもそも、こういう(他人の作品の)設定考察などが、完全に市民権を得て商業ベースにも載ったのは90年代だったかな。サザエさんをネタにした裏設定考察集「磯野家の謎」が、著作権などにはいっちばんうるさかった「サザエさん」を対象にしたのに『図版を使わない』だけで問題をクリアして出版され、ミリオンセラーになった(その後、山のように考察本が登場した)ことでも、セーフであることは明確にわかる。
さらにいえば…
・ちゃんと最初に会社同士で話をつけて、許可を得て作ったアニメなどの映像化でも、原作者は激怒することもある。でも許可を得たならそれは「正しい設定」なの?
m-dojo.hatenadiary.com・作者が最初に発表した結末と、全集収録時や「映画版」の結末が違うというのだって、そもそも矛盾だし。
・著者の死後70年経って著作権が消滅したら、その時点で誰でも設定を付け加えられるの?それのどれを正しいと認定するの?
・著作権は継承されるが、才能は…たとえば縁起でもない喩えで超恐縮だが、「G」作品の創作の中心だった天才「H.M」の著作権は「G.M」が継承するでしょう?その場合、どの設定やら世界観が正しいのか間違ってるのかとか、記録が残ってなかったら(いや残ってても)G.Mさんがそのセンスに沿って決めることになる。それでも、いいですか皆さん?
・芥川龍之介が中国説話玄怪録」を大幅に変更し「杜子春」にしたが、芥川が付け加えた設定は、どう扱われるべき?
こういふうなことを考えるのは、あの御大層な「テクスト論」とか「作者の死」とか、そういう哲学論じゃない。
(あれはあれで面白そうな気もするが、よく知らない(笑))
「作者の死」(さくしゃのし、英語 The Death of the Author)は、フランスの哲学者ロラン・バルトが1967年に発表した文芸評論の論文[1]。バルトはテクストは現在・過去の文化からの引用からなる多元的な「織物」であると表現し、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移した[2][3][4]。
バルトがここで批判するのは、作品の意味を作者の人格や思想に帰着させようとする近代的な作者観である[5]。バルトによれば、中世の書き手は過去の文献を集めて編纂し注釈を加えるものであり、近代的な意味での作者とは異なっていた[6]。バルトはポストモダンの現代に至って近代の作者観は崩れていくと考えた[5]。
ja.wikipedia.org
そーでなく、自分がこういう話の時に「原点」とするのが、まさにこういう形での創作での遊び方を近代で決定づけた「シャーロキアン」であり、
またこの場合、非関係者の考察と設定が、どう考えても金のために書き飛ばした原作者コナン・ドイルのそれより、緻密で自然で矛盾が無かったからなんですよね(笑) 原作者に任せてたら、ワトソンの結婚の回数と年代まで迷宮入りするんだから(笑)。
ドイルが、考察者たちを賞賛した手紙
「…このような題材にここまで骨身を惜しまず注力する人がいることにまずもって驚いております。間違いなくこの件に関しましては私より貴殿の方が詳しいことでしょう……(略) 貴殿が更なる矛盾点をみつけなかったことは、とりわけ日付に対しましてはただ喜ばしいと思うばかりです]
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……テレビ局やラジオ局は「ホームズ物?遺族がうるさいんだよね」と二の足を踏み、エイドリアンから手紙が来れば「内容は分かっている(クレームに決まっている)」と書かれる始末。エイドリアンが飼っていた毒蛇に噛まれる事故が起きるとシャーロキアン団体の乾杯の音頭は「毒蛇に乾杯!願わくは今一度噛み付いてくれんことを!」となったという(笑)
…この大著の中盤は、悪役たる「コナン・ドイルの遺族たち」が、いかに不毛な形でファン達の想像力に愚かな「枷」をはめようとしたか、の記録でありそれに対する読者のレジスタンスの物語である。
で、まあ、タイトルに比喩で書いたように、
王が正統性(この設定こそが正しいんじゃ)を示したいなら、血筋(自分が創作したんじゃ!著作権を保持してるんじゃ!)でなく、徳(ああ、確かにこの設定の説明は一番合理的だし納得がいくし、面白いよね!)に拠るべし、なんです。
その比喩をひろげていけば、岡田斗志夫の考察がもてはやされるのは、天下は最終的には取れなかったものの、大いに暴れてある時期は覇を唱えた大盗賊たる陳勝や李自成、洪秀全みたいなもんでさ(笑)。やつの覇道が目障りなら、やはり武力(設定や考察の説得力)で上回れば、自然と叛乱の火の手は収まるでしょう。
(了)