去年の冬、AERAの記事で瀬戸内寂聴さんが書いた「不倫でもいいから恋愛すべき」という記事内の「愛した人が一人もいないなんて生まれてこない方がいい」という一節について、アセクシャルの立場から抗議のメールを送ったんですよね。そしたら本当に驚いた事にAERAが瀬戸内さんに確認を取ってくれて→
— 練郎 (@neerii) November 11, 2021
それで瀬戸内さんが私の抗議を最もだと納得したという事で、記事からその一文を削除したんですよ。
— 練郎 (@neerii) 2021年11月11日
御年98歳で、多分生涯想定もしてこなかった無性愛者の存在を考えてくれたんだな〜という事。
あとこの時抗議とはいえすごく丁寧に文章を書いたので、言葉を尽くして伝わったという実感もありました
最も→もっとも
— 練郎 (@neerii) 2021年11月11日
なので、すごく怒ったり辛かったりする時でも言葉を尽くしていこうと、改めて思った件でもありました。
私の言葉を聞いてくれてありがとう。
ご冥福を祈ります。
当時のツイートです。 https://t.co/QaUfyhZVQF
— 練郎 (@neerii) 2021年11月11日
2020年1月ツイート
こちらの件、AERAさんからご返信ありまして、瀬戸内さんと協議の上この一文を掲載記事から削除してくださいました。
— 練郎 (@neerii) 2020年1月10日
著書に同様の文があったとのことで、そちらも瀬戸内さんのご指示があり増刷分からは削除予定とのことです。
真摯に対応頂き、嬉しくて泣いてしまいました。https://t.co/dlc67V1rfl
冒頭に出てくる「アセクシャル」という言葉については、たとえばこの解説を。
ideasforgood.jp
架空人物で恐縮だが、たしかカイザー・ラインハルトがこのアセクシャルじゃないか、という話題がどこかで盛り上がったのをかすかに覚えてる。
まあ、その話はその話として
そのツイートには300以上のブクマがつき、コメントは好意的なほうが多いといった感じですが
[B! 訃報] 練郎 on Twitter: "去年の冬、AERAの記事で瀬戸内寂聴さんが書いた「不倫でもいいから恋愛すべき」という記事内の「愛した人が一人もいないなんて生まれてこない方がいい」という一節について、アセクシャルの立場から抗議のメールを送ったんですよね。そしたら本… https://t.co/M05dtBzdS7"
当方のコメントはこうだった。
えっ、こ、これ「暴露記事」や!AERAにしてみたら「うわー書かれた!」ですわ。本来ならこの話(昨年ツイートはされたらしいけど)大々的なニュースとなり、作者や編集部は削除事実とその理由を述べ謝罪に至る筈で…
https://b.hatena.ne.jp/entry/4711009612412167074/comment/gryphon
で、タイトルの話になるわけですけど。
これ、ほんとはAERA編集部への事実確認と、もしそれが事実だったら、それ(該当部分削除)に至った経緯と理由説明が必要になりませんかね?(既にあるならスイマセン!その場合は、どんなものか教えてください)
※ツイート者は「AERA」となさっていますが、記事がこれだとしたら、サイトのブランド名が「AERA.dot」で、サイト運営は朝日新聞出版、末尾書名は「朝日新書」なので、直接的にAERAなのか一寸わからないです(たとえば編集・掲載の権限と実務はAERAかもしれない。名前が「アエラドット」な時点でAERAに責任があるのかもしれない)
dot.asahi.com
そして、要は「新潮45」の時のようなあれこれの処置が必要になるんじゃないかと。
【疑問点】
・上記ツイートのような事実関係はあったと、AERA,dot 運営企業(朝日新聞出版)は認めるのか
・2020年に?どこの発表文章をどのように、削除したのか。
・削除前のネット配信記事、あるいは雑誌掲載記事?の記述は、遡って無効とするのか、訂正するのか。
・その事実は当時、どのように公にアナウンスされたのか。それとも公へのアナウンスはなかったのか。
・瀬戸内寂聴氏の単行本からの削除も含め「削除の理由」は何か。
・その一文が差別扇動の文章だったと認めるのか。
・謝罪・反省の念を表明したのか。これからするのか。
・その場合、それを「掲載した」責任はあるか。どのようにその責任を取った、或いはこれからあるのか。
こういった質問を、仮にオフィシャルに投げかけたら、どういう返答が返ってくるか……と、想像する(想像するだけ)。
とはいえ、別にこれに関して「そういうことをしなければならない」、と考えているわけではない。
だが
ポリコレの真似とて大路を走らば 即ちポリコレなり(徒然草より)
以上。
参考:「新潮45」休刊に際しての、朝日新聞社説
老舗出版社の誇りは、どこにいってしまったのか。そう言わざるを得ない事態だ。
新潮社がおととい、月刊誌「新潮45」の休刊を決めた。事実上の廃刊である。
LGBTの人を「『生産性』がない」と書いた自民党の杉田水脈(みお)衆院議員の原稿を8月号に掲載し、批判を浴びると、今月18日発売の10月号で「そんなにおかしいか」と題する企画を組み、7人の論考を集めた。これにもLGBTの当事者や支援者のほか、作家や文化人、書店などから抗議の声があがり、21日付で佐藤隆信社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」との声明を出していた。
休刊を伝える文書には「企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」「深い反省の思い」などの言葉が並ぶ。だが、そこに至った経緯はきわめて不透明だ。
いったい、どの筆者の、どの表現に問題があったと考えているのか。この問いにも、同社は「外部の筆者だから特定は控えたい」と言うばかりだ。企画に関する編集部内での話し合い、原稿を受け取った編集者の認識、筆者とのやり取りの有無などは明らかにされず、再発防止の取り組みも見えない。
これでは言論機関の責任放棄と言われても、やむを得ないだろう。10月号の企画の冒頭で「真っ当な議論」を呼びかけたにもかかわらず、一気に休刊に走って議論の可能性をみずから閉ざしてしまったこととあわせ、疑問は尽きない。
出版不況のなか、「新潮45」の実売部数も最盛期の約5万7千部から約1万部に落ち込んでいた。近年、ネットでの過激な発言で知られる書き手を登場させるなどして、読者をつかもうとしたものの、歯止めはかからなかった。そんな悪循環が、結果として出版文化への信頼を傷つけてしまったのか。
雑誌ジャーナリズムは、タブーに切り込む力や、発想の柔軟性、多様な企画力などで、大きな足跡を残してきた。しかしそれが、少数者や弱者へのバッシングに向かい、人権を傷つける道具になってしまったら、人々の信頼を失い、表現・言論の自由の危機を招く。
ヘイトスピーチに代表される、事実を踏まえず極端に流れる言説が後を絶たないいま、社会全体で、言論の公共性とは何か、メディアが果たすべき役割とは何かを問い直したい。
そのためにも、新潮社は今回の問題について検証し、その結果を社会に示す責任がある。