新大河「麒麟がくる」、なかなか良いテンポ。しかし光秀が道三を批判する際、「論語」を持ち出すのは意味深。なぜなら「論語」の最終章は、孔子が麒麟の死体を見つけるところで終わるのだから……。光秀は麒麟を見つけられるのだろうか……。 #麒麟がくる #NHK
— fools kitchenの不条理ツイート。 (@foolkitchen1) January 19, 2020
こういう場面。
もとより、この作品は孔子の忠実な伝記でもなんでもない。おなじデンキでも記の字ではなく「奇」、伝奇ものだ(笑)。
だが、この場面は…というか作品全体が、やはり孔子の真実の一部をうがっている、といえる。
戦乱の中で、人々は何よりもまず秩序の回復を求める。秩序と言っても、悪い状況での秩序構築を望むものはいないから、そこに、「理想社会」のイメージを託すのは普通だろう。
しかし、そんな秩序回復の時代は来ないこともあるし、ついにやってきた秩序の回復者=新しい征服者は、みんながダビデ王でもソロモン王でも湯王でも武王でもない。麒麟を待つ者、あるいは麒麟になる者は敗北に賭けたほうが確実なものなのだ。
ちなみに麒麟の死体云々は、論語などではなく史記のほうの「孔子世家」に出てくるらしい
魯の哀公十四年の春、山東の大野で狩猟が行われ、叔孫氏の車馬を掌る微賤の士の鉏商が獣をしとめた。人々はその獣を見た事がなかったので不吉とした。仲尼がそれを見て麒麟だと言ったので、取って帰った。孔子が言うよう、「黄河が図を負った竜馬を出すこともなく、洛水から書を負うた神亀が現われることなく、(聖王が世に出てわが道を用いてくれる見込みもない。)ああ、世も末で止んぬるかな!」と。
魯哀公十四年春、狩大野。叔孫氏車子鉏商獲獸、以爲不祥。仲尼視之、曰「麟也。」取之。曰「河不出圖、雒不出書、吾已矣夫!」顔淵死、孔子曰「天喪予!」及西狩見麟、曰「吾道窮矣!」喟然歎曰「莫知我夫!」子貢曰「何爲莫知子?」子曰「不怨天、不尤人、下學而上達、知我者其天乎!」
魯の哀公十四年春、大野に狩す。叔孫子の車子鉏商(ショショウ、獣を獲たり。以て不祥と為す。仲尼、之を視て、曰く、「麟なり。」之を取りて、曰く、「河は図を出ださず、雒は書を出ださず、吾、已んぬるかな。」
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孔子とは、晩年はひたすら絶望と諦念を抱えて生きていた。
結局彼は、世に入れられないまま終わったから…この場合は、教育者や徳人として尊敬される、ではなく、一国を、天下の政治を執るということである。
それはままならなかった。
浅野裕一氏は、孔子は比喩でなく本当に自分が天下を統べる王、になり得ると思っていたがそれは果たせず、それがルサンチマンになった、とまで考えている。
孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。この年、一番弟子だった顔回が死去している。次いで紀元前480年には衛に仕えていた子路も殺された。
ja.wikipedia.org
谷崎潤一郎「麒麟」は、孔子を題材にしているものの、ちょっとというか大いに趣が違う(題も比喩だし)。けど、まだ青空文庫にはなっていないようで、惜しくはある。