「ご無沙汰しております!「氷菓」などで知られる古典部員が、約1年ぶり、3回目の、このブログの対話篇に登場です!過去の2回はこちら」とある野球記録を「日常の謎」(氷菓)風に紹介〜「なぜオールスターの成績が、長嶋は王より上なのか?」(宇佐美徹也) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20130616/p3
のらくろ漫画から怪獣の歴史を「氷菓」の古典部メンバーが考える(或るtogetterを受けて)。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150508/p3
「実はそれ、書き手も分からなかったんだけど、今回やっと法則がわかったよ。本やネット上で『謎』→『推理』→『証拠』→『解決』の鮮やかな展開を見たとき、作者は『まるで推理小説だな…日常の謎だな…じゃあ、そういう仕立てで読んでもらおう』と思って、僕たちにお呼びがかかるみたいだ」
「それ言ったら終わっちゃうだろおおオオオ この田舎娘!!!!!!」
「い、いやすまない、千反田の空気読まない発言にいちいち反応するのは俺の省エネの趣旨に反するな」
「ま、そもそも自分から謎を解こうとするのがあんたのキャラじゃないんだけど、そこは二次創作??だからね…で、今回はどういう謎なの?」
実は今回めずらしく、古典部の「古典」にそのままつながるんだよ!!!togetter部から解決を依頼された難題で…「司馬遼太郎はどういう風に、シロウトをだましてきたのか?」(※褒め言葉) - Togetterまとめ http://togetter.com/li/986379
「まとめたの、このブログの書き手じゃない。付け火して 煙よろこんでるわよね」
「あのー、やるならやるで、全然お話が進んでないみたいなんですけど」
「http://togetter.com/li/986379のテーマは、要は「面白過ぎる歴史話」とか「歴史記述に加える本人の創作」だよね。で、そこからコメント欄で話が荒れ…いや盛り上がっているときに、まとめ主は、そのコメント欄で、こんな風に話題を広げたんだよ」この話はあとで書こうと思ってたんだけど、「史記」もおそらく司馬遷は、当時の「歴史講談」から内容を取り入れたのだ、と宮崎市定が論じてますね(「中国古代史論」収録「身振りと文学」)。そして、だからこそ他の史書と比べても、読んで躍動感にあふれているのだ、と。
「宮崎市定先生といえば、呉智英氏が『著作のすべてが推奨に値する』、高島俊男氏が『中国のどんなテーマでも論じられる「無差別級」で、しかも重量感のある「無差別重量級」。ちなみに自分(高島)は「無差別軽量級」だ』と絶賛してるのよね」
中国の古代史の上にはじめて都市国家の存在を証明し、中国の古代史像を鮮明に浮彫りした力篇。司馬遷の『史記』を歴史と文化・説話に関わらせながら、古代の政治と市民生活のパフォーマンスを眼前に彷彿させてくれる名篇など、歴史を見る目のしなやかさに定評ある著者の、およそ半世紀にわたる古代史研究の精萃。
- 作者:宮崎 市定
- 発売日: 1988/10/01
- メディア: 単行本
「出版社も、その章が一押しみたいね……で、どんなことが書いてあるの?」
「す、すまんが、これから俺がそれを”推理”するという形式になるんで、あんまり『その本に書いてある』という言い方はやめてくれ…。お約束をだな…」
- 作者:西村 京太郎
- メディア: 文庫
「うるせー、じゃあいくぞ。まず『史記』の文章は、他と比べてちょっと違う…ということがある。例えば、以下の文章を見てくれ。」…荘襄王、秦の為に趙に質子たり。呂不韋の姫を見、悦んで之を取る。始皇を生む。秦の昭. 王四十八年正月を以て邯鄲に生る。生るるに及びて名は政たり(莊襄王為秦質子於趙,見呂不韋姬,絓而取之,生始皇)
「始皇帝は王の子でなく、前の男(呂不韋)の子ではないか、という話ですね。当時はDNAで調べることもできないですものね…でもこの文章って、何かおかしいんですか?」
「極めて短い文章の中に『生』という字が3回も出てくるだろ?こんなの書いたら、この後の科挙の試験では絶対落ちるし、文章の先生にも真っ赤に添削されるだろう。これは、どう考えても意図的なんだ」
「似たような文章、ほかにもあるね。日本の教科書にも載っているような、有名な「鴻門の会」でも…」項王・項伯東嚮シテ坐シ、亜父南嚮シテ坐ス。
項王・項伯東嚮(とうきやう)して坐し、亜父南嚮して坐す。
項王と項伯は東に向いて座り、亜父は南に向いて座った。
亜父ト者、范増也。
亜父とは、范増(はんぞう)なり。 ※者=は、也=なり
亜父とは范増のことである。
沛公北嚮シテ坐シ、張良西嚮シテ侍ス。
沛公は北嚮して坐し、張良は西嚮して侍す。
沛公は北に向いて座り、張良は西に向き(沛公のそばに)控えて座った。
http://lscholar.hatenablog.com/entry/2014/12/13/120439
「本宮ひろ志の「赤龍王」でも描かれた場面ね…。うーん、言われてみると繰り返しの文字が多いような気がするわね」
「ふむ…これはあくまでも一つの仮説だ、そう思って聞いてほしいが…文章だと同じ字、同じ表現の繰り返しというのはちょっと引っかかる。だが、喋り言葉だとどうか。あまり気にならない…というか、場合によっては、そういう繰り返しは心地よい『リズム』を生む」
「ま、まあ、そんな感じだ。それともうひとつ…これは宮崎先生があげてる例じゃないが、即興でこっちも紹介しよう。演劇では、こんな話がある」…『ジュリアス・シーザー』でキャスカがシーザーに襲いかかるときのせりふ、〈Speak, hands, for me!〉。
このせりふについて、福田さんは言う。「キャスカはその言葉を吐出すやうに言ひながら、シーザーに襲ひかかるのである。いはば、その言葉でシーザーを刺すのである。從つて、このせりふは短劍の動きのごとき鋭く速い身振りをもつてをらねばならず、また役者が激しく襲ひかかれる身體的な身振りを伴なひうるものでなければならない。」そして中野好夫訳、坪内逍遙訳、福田訳が並べ上げられる。
「かうなれば、腕に物を言はせるのだ!」(中野訳)、
「もう……此上は……腕づくだ!」(逍遙訳)、
「この手に聞け!」(福田訳)
http://blog.goo.ne.jp/ariodante/e/bfbb87a07e600e4c29e8f2197fa1a44a
「面白いわね……。 え?ひょっとして、『史記』の繰り返しもこういうような意味がある?」
「そうだ、福田恆存は、舞台での素早い動きに合わせるために、字数をぎりぎりに突き詰めて「この手に聞け!」と訳した…だけど逆に、状況の説明をしたり身振りを加えたりする、そんな”舞台”の必要性に合わせて、文章は逆に長くなったり、繰り返しが多くなったりすることもあるのさ。」
「この前私たちがみた『万人の死角』にもそんな台詞が結構ありましたね」
「そこで、こう考えられる。「史記」の文章が、いわゆる正統な漢文から見ると繰り返し表現などが多い一方で、異様に内容が面白いのは、当時の「歴史講談」をそのまま採録したからじゃないか?……と。たとえば刺客・荊軻 が秦の始皇帝暗殺に出向いて、成功寸前までいきながらも最後は失敗する「刺客列伝」の物語……この話なんか、ほんとに面白すぎる。そして文章も、やっぱり繰り返しなど、正統な漢文から見ると破調が多いんだ。」
「宮崎市定さんもずばり言っているね。」荊軻の説話は結構の甚だ雄大なるのみならず、このように布置も甚だ周密を極めている。殊に第三の布置は、起承転結を具備して間然するところがない。併しこれを史実として見ようとするとき、これでは話があまりにも面白すぎて気味が悪いのである
「さて、それでは原文を…データベースたるぼくの出番かな。長いんでURLだけ紹介しよう。書き下し文と現代語訳… 」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shiki/shikaku/keika_yomi.htm
http://kanbunjuku.com/archives/504「そして…そこからのー〜 宮崎市定訳・講談風「史記・刺客列伝荊軻編!」どやっ!」
「テキスト画像がちょっとぼやけて見える人は、画像を一度クリックして「オリジナルサイズを表示」を開いてね(要は下のURL)。以下も同じ。」
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/g/gryphon/20160613/20160613124449_original.jpg?1465789518
「わあ、ほんとに諸星大二郎「西遊妖猿伝」に出てくる講釈師さんみたいです!」
「さらに、先ほど出てきた『鴻門の会』だって、こんなふうな講談調になる。」
「たしかに、あの文章の特長は『歴史講談』としてこのストーリーが語られたとき、物語の登場人物の『位置関係・動き』を身振りで示していたと考えるとすっきりするんだ」
「でも司馬遷…後漢の時代、どんなところでそんな『歴史講談』が語られていたのでしょうか?」
「歴史を愛する民族的・文化的な枠組みを保ち続けてきた中華の民だ。そもそもこう記録が残っている以上、宮廷で、学者の私塾で…いたるところで、歴史の記録は語られてきたはずだ。そして市井でも…本格的な劇場や小屋ができるのは、宋代とかになるのかなあ…しかしあってもなくても、「物知り」「耳の早い」人々は、例えば市で、広場で、往来で…こういう王侯、将軍たちのゴシップや、いくさに勝った負けたを語ってきただろう。また、勉強を中途半端にしたけど、役人の仕事にありつけなかったような「高等遊民」も、こういうところで歴史書に「盛った」バカ話をしては、暇をつぶしたり小遣いを稼いでたりしてたんじゃないかな。今のブログやtwitterみたいなものかも・・・・」
「実際、司馬遷もそこはあらかた認めていて、史記には『長老』とか『語に曰く』『諺に曰く』という言葉がよく出てくるんだ。これはたぶん、名もない非学者さんたちのこと。…司馬遷はどうも中国の古代歴史家としては珍しく?フィールドワークやオーラルヒストリーの重要さを認識した、ジャーナリスティックな人だったようだよ」
「ただし、それを『すごいじゃないか司馬遷』と思うのはいまの感覚であってだな……あっちの、その後の正統歴史学者から見れば、それは『残念なところ』に映ったんだ。次の代表的歴史書『漢書』は、その史記の”欠点”を修正しようという意識もあったようだ」
「漢書では、史記で紹介されているエピソードも当然、漢書として記述されているけど、たしかに文章の重複とかはなくなっているのよね。面白くないことは確かだけど、これが歴史学的進歩といえば進歩なのよね」
「そしてこれが、その後の歴史書のスタンダードになっていくんですね」
「漢書の著者班固は、とにかく在野の歴史好き的な人たちを低く評価していたようだね。同書に「芸文志」という条があるんだけど、こんな言いようだよ」小説家者流は,蓋し稗官より出ず。街談巷語,道聴途説者の造る所なり。孔子 曰わく 「小道と雖も、必ず観る可き者あらん」(『これは町で噂話をするような連中が作ったもので『小道』であるから君子は手を出さない。しかし知恵の無い者の見聞にも必ず見るべき点がある。書き留めておけば為政者の参考となるものである』)
「まあ、これでも…多少の存在価値を認めているというだけで、まだましな方なのかかもね?」
「班固の時代は、儒教が完全に『正統中の正統』となったという司馬遷の時代との差もあるし、歴史を重ねて『正統な研究用の資料』が充実してしまったために、正統な道を歩けば十分で、不足を補うためにフィールドワークする必要はなくなったのだろう。ただし、その結果、ダイナミズムが学問から失われる…格闘技がスポーツ化して、本来のすごみが失われるのも似ているかもしれない。宮崎市定は(…あ、俺まで言っちゃったな。まあいいや)こう語っている。それを紹介して、今日はお開きにしよう。史実はどこまで面白く書くことが許されるのか。歴史的真実と文学的真実は一致しうるか。
これは漢代のみならず、現今のわれわれをも悩ましている問題なのである。これが、http://togetter.com/li/986379まとめへの、ブログの書き手による、やや冗長な補足資料だよ… (了)