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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています 

全9巻の「沢木耕太郎ノンフィクション」刊行時の、沢木氏の言葉が実にキザ!…ながら秀逸なノンフィクション論だ。


これだけキザな言葉を書いて、それが似合う作家は滅多にいないな。

http://www.bunshun.co.jp/book/80sawaki/sawaki01.htm


星をつなぐ 
沢木耕太郎


小学校低学年のとき、私は生まれて初めて書店で本を買った。最初は、絵本の『フランダースの犬』にしようと思ったのだが、母親の「もう少し字の多いものにしたら」という意見を容れて、『星座の本』を買った。星座にまつわる神話的なストーリーを、子供向けにやさしく書いたものだった。その本は、少年時代の私の愛読書となり、何度となく読み返すことになった。

しかし、ひとつだけ小さな違和感があった。一話ごとに扉ページに星座の絵が掲げられているのだが、その星たちからなぜそうした絵が描けるのかわからなかったのだ。あの星がどうして熊になるのか。あの星をどう結びつけたら琴になるのか。いまでも、夜窒に星座を見るとき、あの連なりからどうしてあのような絵柄がイメージできたのだろうと不思議に思うことがある。そして、こう思う。もしかしたら、ノンフィクションを書くということは、あの無限に近い星々から、いくつかの星と星を結びつけて、熊や琴やペガサスを描く作業に似ているのではないか、と。

ノンフィクションの書き手に許されているのは、広大な宇宙にある「星」を選びだすことだけである。未知の「星」を発見することはできる。しかし、「星」そのものは作れない。いや、作らない。たぶん、ノンフィクションを書くとは、彼、あるいは彼女が、この広大な宇宙で見いだした「星」と「星」とを結びつけ、虚空に自分の好きな絵をひとつ描くことにしかすぎないのだろう

いや、ノンフィクション論としても短文ながら秀逸で、
要は「やらせや事実の捏造はあかんよ。事実から何を選んで、どう繋げるかが腕の見せ所なんや」って話である。


これは別の時代のルール

「中国の史書は『会話部分は創作可。そこが腕の見せ所』という了解があった」という話(高島俊男) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160615/p1

司馬遷史記」が『面白すぎる』のはなぜ?〜「氷菓」の古典部員が謎に挑む(※宮崎市定の論考がベースです) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160613/p1


と対比させたり、そこにも収録した本田靖春氏の「ノンフィクションはサッカー、小説はラグビー」論と対比してもいい。
あるいは、森達也氏の「ドキュメンタリーは嘘をつく」も同じようなことを言ってるのだろう(もっとも森氏は下山事件でいうと「ハンド」も多いようだが…)


のだが、対比すればするほど「沢木氏のレトリックはキザ!」であることが際立つ(笑)。
はなわくんだよ、これは(笑)

もちろんバディ・ロジャースやゴージャス・ジョージのように、
「似合うからできる」のであるが…