2(二)
反乱者・崔杼が王を暗殺したとき、太史(歴史記録官)が「崔杼、其の君を弑す」と記述して殺された。
2番目、3番目の弟が引き継いで同じことをかき、これも殺された。
4番目の弟が同じことを書いたとき、崔杼はやっとあきらめた。
5番目に記録を書こうと思って、朝廷に向けて旅の途中だった南史氏は、それを聞いてようやく引き返した。のちに「正気の歌」で、この事例が「正しい気」の例として挙げられている。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%8C
3(三)
晋の霊公が死んだとき、太史は「趙盾、其の君を弑ス」と記録した。
趙盾「事実と違うだろ!俺は霊公に罰されそうになって逃げていたんで、殺したのは全く別人の趙穿だ」
太史「あなたは晋の大臣です。なのに王のかたき討ちをしていないでしょう。かたき討ちしないってことは『あなたが殺した』ってことですよ」
…そしてこういう書き方が「春秋の筆法」として定着した(笑)
4(一)
司馬遷「ワイ、孔子みたいにいい歴史書を作りたいんや」
壺遂「孔子はなんで歴史書書いたんやっけ」
司馬遷「そんなんも知らんのか。孔子は正しい道が行われてないことを嘆いて、善悪賢愚を明らかにするために書いたんや」
壺遂「ほーー? 孔子の時代は世が乱れてたんやなあ。でも今は武帝がおわします世や、もうこれ以上ない最高の帝で最高の世の中やあとワシ思うんやが…そうか…司馬遷先生は…いまの帝はドアホで、乱れたクソみたいな世と思ってるから孔子みたいに歴史書かきたいんやな、そう伝えとくわ」
司馬遷「ちょ、ちょ、ちょ」
5(遊)
司馬遷、史記で、自分の好みに従って「貨殖列伝」(ビジネスマン)「遊侠列伝」(ヤクザ)などの項目を設ける。
また、実際に足で現場をめぐるのはいいとして、芝居や講談もふんだんに取り入れる。
こちらの過去記事も参照⇒
【司馬遷「史記」が『面白すぎる』のはなぜ?〜「氷菓」の古典部員が謎に挑む(※宮崎市定の論考がベースです) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160613/p1】
6(左)
その「史記」は目立ちすぎるんで、後の世の後輩歴史家、あるいは「書かれる側」の王や大臣たちからディスられる(笑)。
「司馬遷は、自分が刑罰(宮刑)を受けたことで心に恨みを抱き、そのため『史記』を書いて武帝を非難した。おかげで武帝はくやしい思いをした(魏の明帝)」
「武帝は司馬遷を殺さなかったので、史記が後世に伝わった。その前例に学びまーす。はい、お前殺すね」(三国志の王允、董卓政権時代の歴史家・蔡ヨウを処刑)
「経を採り伝をひろい、…甚だ粗略…議論は浅薄で、篤実ではない…黄老を崇めて五経を軽んじ、貨殖を序しては仁義を軽んじ…遊侠に触れて…道理に暗い」 (班彪。「漢書」を二代にわたって息子の班固と書いた)
というか、漢書を書くモチベーションが「おれの国の歴史書が、史記でいいはずがない」なので…のちに「史記と漢書、おまえどっち推し?」という「班馬の争い」が中国インテリの踏み絵となる。レイとアスカの比較じゃねーんだから(笑)
7(右)
「史記」と「漢書」を実際に比べると、史記は、ぶっちゃけすぎて、呂太后の記事(呂后本記)はもはやホラーというかスプラッタというか…なにしろ「人豚」が出てくる。
(http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_4/works/works_13_o.html)
歴史の真実を伝えすぎである。
で、「漢書」は、歴史家のプライドとしてこれを隠したり削除することはなかったが、本記ではなく「列伝」、目立たない項目に入れた、という。
8(捕)
史書(正史)は、まずそもそも「何が正当な王朝か?」を決めないと書けない。
さあ、「三国時代」を書くことになった陳寿が、いきなり困った(笑)。
結果⇒
魏の曹操は魏書の最初に「武帝紀」。 「太祖武皇帝は、沛国、譙の人なり。姓は曹、諱は操…」
劉備は「蜀書」2番目に「先主伝」。 「先主は姓は劉、諱は備、字は玄徳…」
孫権は「呉書」2番目に「呉主伝」。 「孫権、字は仲謀なり…」
そしてまた、この決定に対して後世、盛大に陳寿がDisられる(笑)。ウィキペディアに「陳寿への非難」の項目が立つ(笑)陳寿への非難[編集]
『三国志』については、優れた歴史書であるとの評価が高い。夏侯湛が『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。
しかし、陳寿本人については『三国志』を書くに際して、私怨による曲筆を疑う話が伝わっている。例えば、かつての魏の丁儀一族の子孫達に、当人の伝記について「貴方のお父上のことを、今、私が書いている歴史書で高く評価しようと思うが、ついては米千石を頂きたい」と原稿料を要求し、それが断られるとその人物の伝記を書かなかったという話がある。また、かつて諸葛亮が自分の父を処罰し、自身が子の諸葛瞻に疎まれたことを恨んで、諸葛亮の伝記で「臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか」と彼を低く評価し、瞻を「書画に巧みで、名声だけが実質以上であった」などと書いたのだといった話も伝わっている。
以上、いずれも正史『晋書』に収録された逸話である。
(略)
後世習鑿歯らによる蜀漢正統論が高まるにつれ、陳寿が蜀漢を正統としなかったために、批判に拍車が掛かるようになった。更に時代が下ると、諸葛亮の神格化や蜀漢正統論者の朱熹の朱子学が、朝廷における儒教の公式解釈とされた事も相まって、陳寿は一層非難を浴びることになった。
9(投)
王朝創始者や皇帝を褒めるときに「太祖パイセン、生まれもフツーじゃなかった!」
「見た目もマジパネーっす!」と盛り過ぎたんで、日本史も含めて福沢諭吉にツッコまれる。《世の正史と称する書中に、豊太閤の母は太陽の懐に入るを夢みて妊娠し、後醍醐帝は南木の夢に感じて楠氏を得たりと云ひ、又漢の高祖は竜の瑞を得て生れ其顔竜に似たりと云ふ。此類の虚誕妄説を計れば和漢の史中枚挙に遑あらず。世の学者は此妄説を唱て啻に他人を誑かすのみならず、己も亦これに惑溺して自から信ずる者の如し。気の毒千万なりと云ふ可し。必竟古を慕ふの痼疾よりして妄に古人を尊祟し、其人物の死後より遥に其事業を見て之を奇にし、今人の耳目を驚かして及ぶ可らざるものゝ如くせんがために、牽強附会の説を作りたるのみ。これを売卜者流の妄言と云て可なり。》
文明論之概略
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/bunmeironnogairyaku.html
上の元ネタ…竹内康浩「「正史」はいかに書かれてきたか」はおススメ!!
内容(「BOOK」データベースより)「正史」はいかに書かれてきたか―中国の歴史書を読み解く (あじあブックス)
- 作者: 竹内康浩
- 出版社/メーカー: 大修館書店
- 発売日: 2002/06/01
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
中国の歴史書はどのようにして成り立ち、書き継がれたものであるか。その様子を見ていくと、それは歴史書の歴史であるだけではなく、まさにそこに人間の歴史そのものがある、と言いたくなるような重みを持って、我々に迫ってくる。内容(「MARC」データベースより)
中国の歴史書はどのようにして成り立ち、書き継がれたものであるか。歴史的事実とその叙述をめぐる問題を具体的なエピソードを引きながら検証。「歴史書の歴史」を読み解くことで、「人間の歴史」そのものが見えてくる。
歴史相対主義、文化相対主義の立場に立てば
「あますところなく歴史を記述しておかねば。たとえこの身は殺されても…」の中国文明も
「すべては壮大な輪廻の繰り返しにすぎぬ。人間のこまごました出来事よりも、哲学と数学が大事じゃよ」のインド文明も
「風の様にすべてが消えていく、それでいいじゃないか」の遊牧民族も、
どれもみんなちがって、みんないい……のであるが、個人的好みとしては、ドラマを味わうという一点だけでも中国の歴史文明に軍配だ。
その余波、影響を受けて「少しは書いてみっか」とも周辺文明も思ったりしたし、ね。
しかし、そういう、実に偉大な中国の歴史文明ではあるが…記録官を公務員として常に設置するなどすばらしい仕組みがあるが…
歴史の記述とは「是非善悪の価値判断を明らかにするものである」(上の3番打者、4番打者を参照)という発想が生まれてしまった。
その結果…残念ながらスタメン落ちはしたが、これも非常にツッコミどころの…代打にしておこうか。
(代打)太平天国の乱の洪秀全を「清史稿」(正式な「清史」はまったく別の編集となった)では、「秀全、偽天王と僭号す」と表記。
著者の竹内氏は「自分で偽天王と名乗る筈はないわけで、こういう価値判断によって『偽』の一文字を付け加えている」としている。
結局、「清史」のほうは中華民族意識の勃興によって「民族革命領袖太平天国天王洪氏、原名火秀、後改秀全」となってたという。
さらに、それまではお馴染み「東夷 北狄 西戎 南蛮」という、周辺を一段ひく扱う記述が、元や清が王朝を作った時にどうなるか、とか
それが高じて北魏王朝で史書をつくったら、現皇帝を褒めるつもりで、「偉大な皇帝様は、かつて野蛮だった祖先の代の風習をあらため…」的にかいたら、野蛮とかいた罪で筆者が殺される、なんて話もあったりする(このへんも、スタメン狙えるで!)
『「正史」はいかに書かれてきたか』は、そういう、中国の歴史文明の「偉大さと矛盾」を解き明かした、目立たないし入手しにくいかもしれないけど実に名著であります。