書くのがだいぶ遅くなったが(理由がある。後述)、先ごろ亡くなった陳舜臣氏に関する思い出を。
といっても、平井和正氏の時と同様…彼の作品のほとんどを読んだような愛読者ではない。それでもいくつかのシリーズやエッセイには、非常に印象に残るものが多数あった。
それらの話を断片的に。
「陳舜臣史観」が田中芳樹や銀英伝を生んだ
という、話から始めるとしようか。田中芳樹が鮮烈に登場し、あれよあれよというまに銀英伝で人気作家となったとき、最初は司馬遼太郎との比較が多かったのだが、自分から「むしろ陳舜臣先生の歴史観に影響を受けました」と積極的に語り、そして対談が…当時あった徳間書店の総合誌「サンサーラ」で実現したのかな?
人気作家のコンテンツだから、その後単行本に収録されてないはずはないな…検索。
ほらあった。
内容(「BOOK」データベースより)
中国歴史小説の第一人者と旗手が語り下す知られざる「英雄群像」。
内容(「MARC」データベースより)
「豆をかじりながら歴史上の人物の悪口を」「女性の目から見た魔性の女の真実」など、中国歴史小説の第一人者と旗手が語り下す、知られざる「英雄群像」。「私選・中国歴代名将百人」収録。
うーん、文庫とかにはなってないのかな?
個人的に、なんとなくそれを感じたのは「曹操びいき」「宋びいき」「遊牧民帝国はちょっと点が辛い」とかの共通点だったので、このへんのを読んで「あー、やっぱりそうだったのか」という感慨を持ったんだよな。
しかし田中氏の陳舜臣リスペクトのおかげで、若い読者がもう一度ついたという部分もあったのではないかと思います。
今でも、故人となった陳氏の本を若い人に薦めるには「田中芳樹の歴史の師の一人!」というキャッチフレーズが一番有効かと思うのですが、いかがでしょうか。
司馬遼太郎の盟友として
これはもう、「台湾紀行」を挙げるにつきる。そもそも生まれたきっかけは。
http://dot.asahi.com/wa/2015012800074.html
1993年1月、「街道をゆく台湾紀行」の旅も、陳さんのひと言から始まった。「街道、台湾まだやな」
神戸生まれの陳さんだが、ルーツは台湾にある。「第二の故郷」と考える台湾に、司馬さんを連れていきたかった。当時担当者だった筆者に司馬さんはいった。
「自分が案内するという意味だと思う。陳君のスケジュール、聞いておいて」
この話は知らなかったが(笑)
台北市でのホテルを編集部が決めたあと、司馬さんが笑いながらいった。
「陳君から連絡があってね、そのホテルには泊まりたくないようだな。刑務所があった所に建てられたらしく、気味が悪いらしい。陳君に怖くないから一緒のホテルにしようといってみて」
さっそく陳さんに会うと、微笑を絶やさない。しかし、司馬さんの意向を伝えると、断固としていった。
「僕はいいけど女房がね」
結局、ホテルは別々になり・・・(後略)
ちなみに、本編ではこの一節が印象に残っている。
ついでながら、陳舜臣氏と話すときは、たがいに子供のころにつかったような神戸・大阪弁になる。まことに簡略なことばである。さらにもう一つついでを言うと、この人と雑誌などで対談をするようなときは、どちらも標準語になる。標準語だとながながと意をつくせるのである。(文庫61P)
司馬氏が亡くなったとき、陳氏はみごとな追悼の漢詩を詠んでおり、それは自分の蔵書資料の中にあるはずなのだが見つからない(これが、この追悼文が遅れた理由のひとつだ)
※あとで見つかり、別記事にしました→
陳舜臣が司馬遼太郎の死を悼んだ「弔詩」 - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
ただ、別の新聞に載せた追悼文は見つかった。陳氏は、司馬の作品世界を「マンダラ」と称し、こう語る。
司馬さんのマンダラは終わりが無く、いつまでもつづくようにみえた…(略)・・・だが、彼のつむぐマンダラはついにエンドレスではなかった。その切れ目はどこにあるのか、どことどこでつながっているか、それをたずねるのが読者のしごととして残された。悲しいことである。しかもその残し方は、これ以上はないといえるほど、不意のことであった。どうしてこんなに、君は急いだのか。
2人は大阪外語大の同窓だから、司馬氏ももし存命なら90前後だった。約20年長く時代を見つめ、90歳なら大往生ではあるが、同じ思いはなお、残されたものには感じるだろう。
リアルタイムの「乱歩世代」だったか?
もとは推理作家としてデビューしたかただ。
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/63750787.html
かねて歴史小説や推理小説に興味があり、昭和35年に書いた「枯草の根」が」江戸川乱歩賞を受賞、以来古代中国に題材にした多くの作品を発表され、数多くの文学賞を享けられています。
陳さんは、小学生のころから読書好きで、歴史物と推理小説が好きだったそうで、「少年倶楽部」の愛読者だったそうです。江戸川乱歩賞に応募されたのも、少年倶楽部に連載されていた江戸川乱歩の「怪人二十面相」に熱中していたのが基盤になっていたとか。。
当時の「少年倶楽部」には人気漫画の「のらくろ上等兵」や「山中峯太郎」の冒険小説「敵中横断三百里」などの連載があり、シランだけでなく全国の少年たちが熱中して読んだものです。また「新青年」という探偵小説専門の雑誌があって、シャロック・ホームズやアガサ・クリスティ、乱歩のなどの推理小説が載っていましたが、陳さんも愛読者だったと、自著の「道半ば」と……
全八巻だったかな?「中国の歴史」(講談社文庫)が超お勧め
自分が、陳氏の長編シリーズで、全部を通して読んだのは上下巻程度の小説以外では、これぐらいかもしれん。しかしここにエッセンスががばっと詰まっているので、ある意味これを読めばいいんじゃないか、とは思っている。
古典や詩歌の引用なり、挿話の挿入なり、科学史や地理的な特性の紹介なりも、ここにこの分量を入れねばならない、というのをぴたっと適量入れている感じ。中国の歴史なんて詳しくかけば全50巻にも100巻にもなるのだが、そこを8巻にまとめた手際よ。自分が十数年前にこれを読んで、印象に残った史観がある。
【副葬品の華美さで文明を測るなかれ】
(要約) 殷と周の発掘物を調べると、殷の祭礼の銅製器のほうが周より壮麗である。また、秦の兵馬俑の、靴の裏の鋲まで再現した兵士の陶器(埴輪)と比べると、漢の墓からの出土品はみすぼらしい。…しかし、それだけの費用や資源をかけて、非生産的な祭礼や葬儀の品を作り土中に埋めるよりは、文明の進歩なのではないか
という、非常に考えさせる史観であった。
「中国の歴史」に書かれた史観は当然ながら表現を変えていろいろなところに登場しているので、少し別のところからも引用して、感銘を受けた史観を紹介します。
こういう本から。
【耶律楚材がいなければ、遊牧帝国は文明を破壊しただろう】
モンゴル族は中国文明に対する敬意をまったく持っていなかったようで、オゴタイ・ハーンの近臣、別迭(ベチ)などは…漢人は役に立たないから皆殺しにしてそのあとを牧地にしようというおそろしいことを言っている・・・実際にそれが実行されかかったんですよ。(略)そのとき、住民皆殺しと牧地化に反対したのが耶律楚材でした・・・具体的な例を挙げて「(略)牧草地にして羊を養うよりも、これから税金を取るほうが有利だ」・・・(略)これは「人倫」のためにやったのだということを彼は言っているのです。
【宋王朝は偉かった。とくに「石刻遺訓」がすばらしい】
これは以前紹介していた。
『趙匡胤』なんてマイナーな題材が着実に売れ続けているから世の中わからん。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20091031/p4
・・・なによりも感動的なのは「石刻遺訓」である。それは太祖趙匡胤が、子孫のために教訓を石に刻み、禁中の最も奥の、皇帝しかはいれないところに安置した小さな石碑である。皇帝以外はそれを見ることが許されない。新帝が即位すると、その「石刻遺訓」にかかげられた幕をひらいて、遺訓を読むことが、重要な儀式とされた。そのとき、何者もそのそばにいることを許されない。
これまでの『三国志』がだんだん、どうもおかしいなという思いを強くしました。もう少し正しく、というのはおこがましいけれど、私なりの三国志を書かなければいけないというような気持ちになったのです。
(略)
私は、人物論的に言っても、この時代は曹操が中心になっていると思うんです。…曹操が必要以上に悪者にされすぎていると思うんです…劉備びいきはわかるが、これじゃ、ちょっとかわいぞうだ。アンフェアだ。そんな曹操観を訂正する考えもあったのです。
(上海雑談)
上海雑談はインタビュー集なので、陳氏の肉声が伝わりやすいな。
ここで評者申すが、”ある意味では”日本の三国志ブームが本家を上回っているほどに人気なのは横山光輝氏やNHKの功績も高いが、陳氏が「曹操こそ傑物だよ」ということを広めて、一方的で単純な善悪の物語ではなく、どこにでも応援団がつくような互角の構図になったがゆえ、という点もあるんじゃないだろうか??少なくとも三国志ブームの功績者の一人であることはまちがいない。
「蒼天航路」はどの程度影響を受けているのだろうか・・・
【「鉄函心史」の物語】
非常にいい話なのだが、長いこともあるし、のちの機会に譲りたい。自分の別レーベル(準タグ)【記録する者たち】にも合うので。
冒頭のみ。
1638年、蘇州承天寺の古井戸を浚えたとき、寺僧が一つの鉄函を発見しました。その鉄函には石灰が詰められ、その中に錫箱が埋め込まれ、さらにそのなかには漆が塗られて……
(「中国の歴史」5巻297P)
陳氏は「葵丘の盟」(国際堤防破壊禁止条約)から、反核も実現すると期待していた。
ちょうどこれは、インドとパキスタンの核実験のころに書かれたようである。毎日新聞の大型コラム「時代の風」であった。
こっちのほうが鮮明に読めるかな?
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/g/gryphon/20150204/20150204120248_original.jpg
…太平洋戦争が終わって、私(陳舜臣)は台湾へ帰った。国共内戦に敗れた国府軍将兵がひどい身なりで、つぎつぎと、荷物のように船につめこまれて基隆の港につくのを見た。群衆のなかの1人の老人が ―葵丘の盟を破ったからだ と呟いていたが、そこのことがいまでも忘れられない。
この文章、単行本のどこかに収録されていますか?分かる人は教えてください。
※上で、インドやパキスタンの核実験のころかかれた…と書きましたが、このような指摘をいただきました。
はてな日記を読んで、陳舜臣さんのコラムを確認しました。【“会ばやり”の世に思う 「葵丘の盟」は守られるか】というタイトルのコラムは1998年1月18日掲載でした。インド、パキスタンの核実験は同年5月です。突如行われたものだったので一月に陳さんが論じたのは別の事柄だったかもしれません。
— 天むす名古屋 Temmus 𓃠 (@temmusu_n) 2018年7月19日
これも、このコラムだけで書かれたわけではないようなので、いくつか検索で見つかったものにリンクを張っておく。上の文章画像も味わい深いが、下のものでも要点は分かるだろう。
http://manuke.com/static/view00000573.html
当時の中国で紀元前651年夏に「葵丘の盟」という盟約が結ばれたそうだ。そこではいくつかの決め事をしたそうなのだが、その中に『防を曲げる無し』つまり堤防を破壊工作で決壊させないこと、というのがあるそうだ。どんなに小さくて力のない国でも、相手の国の堤防を決壊させれば、相手の国を水浸しにして勝つことができる。しかし当然多くの人の命が失われる。作者はこれを現代の核兵器と同じだったと言っている。
(略)
ところがこの盟約が、2500年たって破られてしまったそうだ。1937年、日本軍が攻めたとき、中国の国府軍(国民党軍?)が足止めのために決壊させたらしい。その後、国府軍は敗れて台湾に逃げてくるが、それを見た一人の台湾人の年寄りが『ああ、これは葵丘で誓った盟を破ったからバチがあたったんだ』と小声で言ったのだそうだ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=273710
古代中国の春秋戦国時代、黄河沿岸の諸侯が結んだ5箇条の葵丘の盟のうち「防を破るなかれ」だけは守られたらしい。黄河の堤防を破れば敵国を水没させその一戦は勝てるけれども、報復が必須だから堤防を破る戦法は使えなかったらしい。歴史作家の陳舜臣の解釈ですが、この防を破る攻撃は現代の核による先制攻撃と同じ事だと云っています。
http://blog.livedoor.jp/man_ji/archives/2006-02-19.html
作家 陳舜臣さんが葵丘(ききゅう)の盟について書いておられたのを読んだことがある。葵丘の盟とは中国の春秋時代に諸侯が葵丘という場所で会盟をした。会盟のなかで黄河の堤防を切ってはならないことを誓った。黄河の堤防を切れば必ず戦いに勝てるが、それをやってはいけないことを誓ったのである。中国では戦時の慣習として長い間守られてきたそうだ。
世の中にはあることをすれば必ず実現できるがそれをやってはならないことがあるという示唆である。
まったくいい読者でない自分でも、これだけのことを学んで、深く心に残ることがあった。もっと若い読者が、これから体系的に陳作品を読んだら、身につくものがあると思う。
こちらにつづく
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