- 作者: 野嶋剛
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2018/06/08
- メディア: 単行本
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読んでの備忘録
陳舜臣氏が名作「中国の歴史」を中断した理由
1989年の天安門事件で、陳舜臣と中国との蜜月は終焉を迎える。記者会見を行って中国政府を批判し、中華人民共和国籍を放棄した。陳舜臣の作家人生において、ここまで政治的にはっきりと主張する行動をとったことは最初で最後だった。よほど我慢ならないことだったのだろう。
その後陳舜臣は天安門事件について公の場で触れていない。黙して語らず。沈黙に込めたものは怒りか諦めか。
陳立人は当時父から、 国籍放棄の決断について、こんな話を聞いていた。
「僕は東京にいたので詳しくは知らないのですが、神戸で天安門事件の後に会った時、『歴史の中で、民衆を殺すような、ああいうことをする政権は長くは続かない。すぐに滅びる』と言っていました。父は歴史をずっと見ていた人なので、納得がいかなかったのでしょう」
民主化を求める若者を武力で鎮圧した天安門事件が陳舜臣の作家人生に与えた影響は大きかった。
畢生の作品とも言える講談社「中国の歴史」シリーズの「近現代篇」も、辛亥革命を終えたところの第2巻で終わっている。現代編と銘打つ以上、その後の日中戦争、国共内戦、中華人民共和国の成立とその後の展開までカバーする構想だったはずだ。
「共産党の歴史を調べるほど今表に出ているものと裏にあるものが違っているので今書いたらまずい、と話していました。今思えば書いて欲しかったですね」(陳立人)
「勝ち負けより、負けた時に何をするかが大事だ」生前の陳舜臣は、いつも知人にそう語っていた。
「まんぷく」で話題の安藤百福について
安藤は台湾で生まれ育った自分のアイデンティティについてはほとんど語っていない。1950年代には、日本女性と結婚して日本国籍を取得していた安藤は、台湾を語ることはほとんどなかった。日清食品の広報も「台湾との関係は分からない。安藤はほとんど日本人のように生きてきたと聞いています」と口が重い。
横浜のカップヌードルミュージアムに行った配布用のパンフレットには安藤の人物紹介が書かれている。
<1910年3月5日生まれ 日清食品創業者 安藤スポーツ・食文化振興財団創立>
台湾のことは一文字たりとも書かれていない。安藤に関する公式資料も似たり寄ったりだ。
あまりにも台湾を排除しすぎていてかえって不自然である。
(略)
大阪方面の華僑社会では安藤に関する評判は現在もあまり芳しくない。それは「台湾を捨てた」という声があるからだ 。(略)安藤の脱台湾への個室にはある種の作為を感じさせる。
その背後には台湾人社会との軋轢があったとしても不思議ではない……
蓮舫氏、民進党党首辞任後に漏らした批判者への敵意
「世のなかには、粘着質な人々がいるのね」とため息をついた。
と逆批判している。別に政治的対立なのだから、自身への批判に対して「批判者はひどいやつらだ」という前提で話したって別に自由なのだが、ただ安倍晋三氏が自分の演説に批判的な野次を集団で飛ばしていた人々に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言ったことを「反対者も包摂する度量が無い」「全国民のために選ばれた職のはずだ」と批判していた人は、この発言も問題発言だと批判するのではなかろうか。
「お金儲けの神様」邱永漢について
邱永漢という人が何やら投資とかビジネスノウハウのベストセラーを出しているという認識は合った。 そして何の雑誌だったか…確かSAPIOだったと思うけど「お金はごーろごろ」というあまりといえばあまりに下品極まりないタイトルの投資コラムを書いていたと記憶している。この人が 実は戦後初の外国人直木賞作家であったということはかなり後まで知らなかったし、 知った後も「お金はごーろごろ」のインパクトによる印象を変えるまでにはいかなかった(笑)
ただこんなエピソードがあったらしい。
邱永漢がレストランで食事をしていると,知らない男性が近寄ってきて,箸袋を置いていった.。箸袋の裏にはこう書いてあった。
「あれだけの小説を書いていたのに、どうして堕落したんですか」邱永漢は苦笑しながら妻に見せた。妻は「そうやって言ってくれるファンがいていいわね」と受け流した。邱永漢も「なるほどそうだなあ」とつぶやいてその後は何も言わなかったという。
もう一つ こんなエピソードがある。2012年、民主党野田政権時代に尖閣列島国有化に絡んで「反日デモの嵐」 中国国内で吹き荒れた時だった。
「あれは、僕のガラスだよ!」
邱永漢は、いたずらっぽく笑いながら、テレビの画面を指さした。
(略)
店のガラスが破られることを邱永漢はあらかじめ知っていた。
成都当局から「今回もガラスを壊します」という連絡が入っていたからだ。
日中戦争で日本軍がほとんど攻め入っていない四川省の成都には、反日デモ呼びかけても人が集まるほどの反日感情の激しさはない。だが「全土で反日デモ」という状況を現出させて日本に圧力をかけたい北京の中央政府からは成都でも一定の規模でデモをやらないと睨まれてしまう。大学や企業に「デモに10人出せ」といった内内の指示が出され、集合場所に選ばれたのはイトーヨーカドーの店舗前だった。
この四川省の成都の物件は邱永漢の中国投資案件のひとつで、ビルの所有者は今でも邱永漢グループとなっている。
2005年の反日デモの時も同じことが繰り返されガラスが割られて当局が弁済したと言う。
こんな、サインに関するエピソードもあるのだが…
邱永漢は自らの著書「西遊記」にサインをするとき、「道という道は天竺に通ず、されば悟空よ でたらめに行け」と書き添えている
ん??
いや、だけどな。
これ
道といふ道はローマに通ずれば ドンキホーテよでたらめに行け
(新居格)
挑戦する若者を応援する、ある短歌(読売新聞「編集手帳」より) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
の本歌どりだよな。読売新聞「編集手帳」は好んで引用するなりよ。
でも、たしかに「タイワニーズの歌」として、立派な本歌取りの秀作になっている。
【過去の空きページに、過去記事を移転・転載して集めたものです】