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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「コロンブス、マゼラン以上の航海家」明の鄭和を描く漫画「海帝」。「ヤマタイカ」「宗像教授」の星野之宣が/鄭和の主は永楽帝

時は600年前―大航海時代以前に世界の海を渡った男がいた。
その名は『鄭和』。どこで生まれて、どこまでゆくのか
未知なる世界へ帆を揚げ、舵を取る。
未だかつて誰も見たことのない”海洋冒険ロマン” 巻頭カラーで堂々開幕!
星野之宣 最新作『海帝』。
https://bigcomicbros.net/magazine/bigcomic/

さて、鄭和といえば、「創竜伝」の記述されて知っているという人もいるだろう。
要は
コロンブスやマゼラン、つまり西洋の大航海時代よりスケールがでかい
・だが平和的で、海外を植民地化とかはしなかった
・それをした鄭和の能力は並々ならぬものがある
・だが記録はあまり残っていない
鄭和の死後、「宦官の専横」を憎んだ清廉で高潔な官僚が、記録を焼いてしまったのだ
・実に人類の損失である

みたいな話…、いやあ小説の中だと記述が浮いてる浮いてる、だが小説全体がそんな感じなのでこれはもう仕方ない(笑)


ちゃんとエッセイ、語りおろし的な本でも語ってる。読んだ、というか持ってるが記憶あいまいだ
紹介記事から孫引きしよう。

中国武将列伝 (PHP文庫)

中国武将列伝 (PHP文庫)


http://hakutanya.web.fc2.com/bookshelf/jbook/tanaka.html

…有名どころだと鄭和とか(1371〜1434。明の宦官)も。二万数千人の乗った
数百隻の船を率いてアフリカまで行っちゃうその統率力は並の者ではない・・・
何か最近ではオーストラリアを発見したんじゃないかなんて言われているらしい。
でも別に行ったからって征服する訳じゃ無いんだよな・・・朝貢貿易するだけ。
で、やっぱり外側にあんまり興味のない中国は、鄭和が死んだら
その航海技術書も航海記録も全部焼いてしまうのだった。海外遠征なんて
「無駄な出費」だと思ったんだろうな。後のヨーロッパ人みたく
植民地とか作って現地人搾取したら金になったんだろうけど、それをしないから。
「この焼いた人の名は、もう、千年後まで伝えましょう。劉大夏という男です。」
(P163)。まぁ遠征を止めるのはイカンとは言わない、が焼くのは勘弁ならん、と
田中先生お怒りである。
「劉大夏のやったことは人類史的にやっぱり許せないことだと思います。」(P165)

しかし、のちに分かったのだけど、これらの多くの見方は、陳舜臣鄭和評価論に沿っている。
もともと田中氏は「自分の歴史観、中国観の、直の師匠は陳舜臣だ」的なことを公に書いているし対談もしているので、それは全然ふしぎではない。

ただ、そういうわけで陳舜臣の文庫版「中国の歴史」の明の記述を読み直すともっと詳しいだろう。


さて、それを実力派の星野氏がかくとなれば期待大だが
・歴史に比較的忠実な、史伝を描くのか
・大筋は歴史にそいつつ、フィクションを多量に交えたロマンとして描くのか
・その場合は、怪物や超自然現象なども登場する系統のフィクションか、超自然は登場しない人間ドラマか


・・・・・・・・・・これは今のところまったく不明。刮目して待て

鄭和艦隊を送り出したのは明の永楽帝

そもそも鄭和艦隊は、「靖難の変」で最後の死が確認できなかった?とされる前皇帝が逃げているのではないか?と探索させるためのものだった、みたいな俗説?がある。



国史上有数の外征を成功させ、版図を広げた武人にして征服王
中央アジアの英雄ティムールのライバル(あと少しの差で、直接対決もあり得たがティムールが亡くなった)
皇帝の座を”簒奪”したとされる暗い過去
それを批判する儒教知識人を苛烈に罰する

・・・・・・・などなど、語られることのいろいろとある皇帝です

wikipedia:永楽帝

永楽帝は世界が明の権威を認めることを欲し、宦官鄭和に命じ大船団を南海に派遣した。大航海は7度行われ、アフリカ大陸東岸にまでに達した(7度目は孫の宣徳帝の代に行われた)。この船団は明と交易することの利益を諸国に説いて回り、明に朝貢することを条件に中小諸国が交易にやって来るようになった。元の旧領回復を目指すティムール朝とも敵対したが、永楽3年(1405年)のティムール死後は和睦して友好関係を築き、永楽12年(1414年)または永楽13年(1415年)には鄭和がホルムズを訪れている。

当時対立していた日本とも和解し、永楽2年(1404年)に足利義満永楽帝の即位に祝賀の使節を送り、貿易を求めた(義満自身は建文帝の代から修交を行っている)。永楽帝はそれに対し、当時猛威を振るっていた倭寇の取締りを求めると同時に、日本国王」に冊封して朝貢貿易も許した。義満はこれに応え倭寇を厳しく取り締まり、対明貿易で巨額の利益を得た。日本側と明側で勘合と呼ばれる割符を使っていたため、日本では一般的にこれを勘合貿易と呼ぶ。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」の諡を送っている。日本人で外国から謚号を贈られたのは義満が最初で最後である。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が永楽9年(1411年)に明の使者を追い返すまで続いていた。

永楽22年(1424年)、第5回モンゴル遠征の帰途に陣没した。享年65。



人物評など

永楽帝は明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こすなど、気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し宦官を重用した。これは、皇位簒奪という負い目もあって官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった。
靖難の変では兵力・物量で圧倒的に不利な状況にあるにもかかわらずに勝利し、65歳という高齢を押した最期の出陣も含めて皇帝の地位にありながら自ら5回もモンゴルに親征するなどという異例の行為を見せているが、これらは永楽帝が類稀な軍略家であったことを示している。
即位直後における建文帝一派の粛清は、父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に悪名高く評された。
『明史』「成祖本紀」には「若くして兵学を修め、勇武の才略は太祖洪武帝にも匹敵した」と軍事の才能を褒め、「即位後自ら倹約を行い自然災害が発生したら人民をただちに救済し、人物を良く見抜いて適材を適所に配した」と行政面での見識を賞賛しつつ、「甥にあたる建文帝を倒して帝位を奪ったことは隠すことができない」と靖難の変を汚点の一つとして記している。


王位”簒奪”をめぐる儒学者との思想戦及び苛烈な弾圧は、めぐりめぐって日本の尊王思想―幕末にも影響を与えた。
儒者の弾圧のそれは、初期キリスト教の「殉教者」とうりふたつである。

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)

現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)


永楽帝は明町中興の祖,文字通り帰省の英名君主であり「名君」の代名詞と言っていい。 (略)どちらから見ても中国の黄金時代を築いた皇帝である。
誰がこの皇帝を頑として拒否、一族ことごとく皆殺しにされても彼を皇帝と認めない人がいた。理由は−彼は「簒臣」であった。そしてただそれだけである……その一事のゆえに彼を絶対に拒否し、なぶり殺しにされても彼を認めようとしない人がいた。
永楽帝が反乱を決意して北平を出発する時、相談役の桃広孝が言った。

「南に方孝孺といふものあり、素、学行あり。武成の日、必ず降附せざらん。請う、これを殺すことなかれ。これを殺さば、すなわち天下に学を好むの種子絶えん」

「天下に詔するには、先生草するにあらざれば不可なり。我がために詔命を作れ」と

孝孺、 数字を大書し、筆を土に抛ち、また大いに哭しかつ罵り、かつ哭して曰く「死せばすなわち死せんのみ。詔は草すべからず」

「汝安んぞ能くにわかに死なんや。朕まさに汝の十族を滅すべし」

永楽帝即位に至る「靖難の変」は幸田露伴が「運命」で描いていて、当然、青空文庫にある。

運命  幸田露伴
https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/1452_16991.html

田中芳樹氏は、これで卒論か修論か博士論文を書いている。中国史がやりたかったが、ゼミに空きがなかったかそもそも無かったかで、中国史を描いた文学作品の研究をやった、のだとか