まあそもそも、アラジンと魔法のランプ自体、元のアラビア語版の原典が存在しない、18世紀にパリで創作されて捏造されたものなんですけどね。 https://t.co/hBa42wvpVw
— 我乱堂 (@SagamiNoriaki) January 18, 2020
えっとおどろき、ウィキペディアも見る。
典拠
ヨーロッパでは、18世紀初頭にフランスのアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)によるフランス語訳『アラビアン・ナイト』(ガラン版 1704-1717)によって紹介された。しかし、「アラジンと魔法のランプ」にはアラビア語の写本や原典が存在しないことが問題となっていた。
ガランの1709年3月25日の日記によれば、1709年にガランはアレッポ出身のマロン派キリスト教徒、ハンナ・ディアブ(Hanna Diab)から「アラジンと魔法のランプ」の物語を聞いた。その後ハンナ・ディアブは物語を筆記してガランに手渡したと思われる[2]。ガランはこれをフランス語に訳した。
アラビア語による写本が最初に現れるのは1787年であり、それはパリに住んでいたシリア人キリスト教徒であるディオニシウス・シャウィシュ(Dionysius Shawish)別名ドム・デニス・シャヴィー(Dom Denis Chavis)によるものであった。これはガランが最初に使用したガラン写本に欠けた部分を補うように書かれていた。
この写本は、パリで1805年から1808年の間に、有名なセム語学者シルヴェストル・ド・サシーの協力者であったシリア人のミハイル・サッバーグ(Mikhail Sabbagh)によって書かれたものとして、再び世に現れた。サッバーグはこれをバグダッドで1703年に書かれたものだと主張した[2]。その後、このサッバーグ写本は、フランスの東洋学者エルマン・ゾータンベール(H.Zotenberg)によって「発見」され、1888年に公刊された[3]。
ところが、ハーバード大学のアラビア語の教授であったムフシン・マフディー(Muhsin Mahdi)が、「千夜一夜物語」の原型といわれるものの復元に成功して、「初期アラビア語原典による千夜一夜物語の書」という、画期的な研究成果を1984年に発表し、今まで解明されていなかった多くの問題に光を与えるところとなった[4][5]。マフディーの写本研究はまた思いがけない発見をしている[6]。マフディーがサッバーグ版とシャヴィー版をガランのフランス語版と詳細に比較した結果、これらの写本は偽物であると結論を下した。ガランのフランス語の構文や言い回しの特徴から、シャヴィーがガランのフランス語版を逆にアラビア語に訳して偽造したものであり、さらにサッバーグは、シャヴィー版に更に手を加えて、これをバグダッドで書かれた写本であると偽ったことが解明された[2][3][7]。
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おいらはこういう偽作、偽名言が大好きで、どうかすれば好きなあまり自分でも作りたいぐらいだ(笑)
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