NHK 大河ドラマ「おんな城主直虎」が最終回を迎えました。
自分はこの作品を前の「真田丸」程に評価していたわけではないが、こういう作品は「自分の知っている、興味がある歴史的事件のところだけ見る」という視聴方法があり、今回自分はまさにそれをやりました。具体的に言うと信康切腹事件から最終回までは出来る限り視聴したという感じです。
本能寺や神君伊賀越えの伝奇的解釈は面白く「大河ドラマでもこういう伝奇的な解釈やっていいんだな」ちょっと感心したのですが、そこは少し飛ばして、今回最終回のラストシーンとして、 井伊直政が無敵武田軍の「赤備え」を受け継ぎ、そして常に大将ながら先陣に立つ猛将として活躍した・・・・という描写があります。
「井伊家の一番槍は、今後わしじゃ!!」と。
井伊の赤備え。初めての戦は小牧・長久手の戦いであったとされる。井伊直政はここで大将ながら一番槍をつけ、その武勇を誇った。井伊の赤鬼はその様から名付けられたとされる。 #おんな城主直虎 pic.twitter.com/vpMdRObCue
— 酒上小琴【サケノウエノコゴト】 (@raizou5th) 2017年12月17日
こういう武将の指揮官としての是非とか、実際にそういう武将が、主流ではないながらも井伊直政以外にも複数存在したこととか、その話もしたいのですがまたちょっと飛ばす(笑)。
井伊直政「一番槍は!!!大将が勤める!!!!!」
— さちゅま@C93 3日目 東タ33a (@sachuma) 2017年12月17日
黒田長政「大将が常に一番槍とは、まことによい心がけ」
最上義光「将来が楽しみな若者ですな」
島津義弘「直政君とは実に気が合いそうだなあ」
井伊直政「おい最期のヤツちょっと待て」#おんな城主直虎
本題は、井伊直政がそのような先頭に立つタイプの猛将だった結果……歴史好きにはよく知られたその後の展開があります。
それは、それまでも有名だったけれども「ドリフターズ」の冒頭でさらに有名になった挿話…すなわちあの関ヶ原合戦で、戦場から脱出した島津軍を井伊直政が追走、その際島津軍の鉄砲によって狙撃され、その怪我が元で直政は、ほどなく死を迎えた…という話であります。
尚、井伊万千代こと、井伊直政
— ogi@二日目東I-04b (@ogicure) 2017年12月17日
関ヶ原において、正面突破の退却戦を仕掛けてきた島津を食い止めようとして、銃負傷
二年後にその傷が悪化して死亡
享年41 pic.twitter.com/UEw2unWANE

- 作者: 平野耕太
- 出版社/メーカー: 少年画報社
- 発売日: 2013/04/12
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (2件) を見る
しかし。
ここで、「あれだけ勝敗が決していた場面で、圧勝し追撃していた側の大将が、必死で逃げ惑う敗軍に撃たれて重傷を負うということがあるだろうか? 一体どんな状況なのか?」
が気になり、資料庫から歴史資料を漁って調べた人がいる。
それが、 歴史学においていま、アカデミズムとジャーナリズムをむすんで大活躍する「歴史学の那須川天心」(とおれが勝手に呼んでいる)、たる磯田道史です。
読売新聞の連載コラムを中心にまとめた中公新書はこの前3冊目が出て早速ベストセラーになっているがその第一作「歴史の愉しみ方」の一編として、「井伊直政はなぜ撃たれたか」というコラムがある

- 作者: 磯田道史
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2012/10/24
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (31件) を見る
…なぜ直政ほどの高級指揮官が敗走する敵に撃たれてむざむざ殺されたのか 。家来は人垣を作って守らなかったのか。疑問がわいた。
旧徳川幕府が持っていた関ヶ原関係資料を洗いざらい探せば、この疑問が解けるかもしれぬ。そう思って東京竹橋の国立公文書館へ通いつめた。
決定的な一冊を見つけた。「井伊家慶長記」。未公刊の古記録である。井伊家は後に直政が打たれた時の状況を詳しく調査していた。
(略)
最初、直政は薩摩軍だと思わず追撃を始めたらしい。旗をささない不審な一隊が前をよぎったから直政は「敵か味方か」と聞いた。「敵なり」。 家来が即答。
葦毛馬に乗った立派な武将が見えた。「あの葦毛馬に乗った武者は余が打ち取る」
直政はそう叫んで生まれ駆け出したと言う。
ところがここで問題が起きた。護衛が消えていた。
直政は近習25人を定め「常に俺の馬周りを離れず進退せよ」と厳命していた。
ところが乱戦状態。敗走する敵を追って近習の騎馬武者たちは「自分の手柄を立てよう」と抜け駆けを始めた。
(略)
しかも直政は乗っている 「馬が良いゆえ一番に駆け」薩摩軍をただ一騎で追う格好になった。直政が沼の前まで来た時…(ある部下が)「大勢の中へただ一騎で追いかけられるのはもったいなし」と必死で止めた。直政は「放せ」と怒り狂った。
その時であった・・・・・・・・・」
つまり戦国の時代にまだまだあった、とにかく個々人が抜け駆けでもなんでもして大将首を取ってくる、つまりドリフターズいうところの「功名餓鬼」な風習が、総大将の護衛役たちまで浸透しており…。
いざ手柄を立てん!となったら、そういう守備役の人たちまで護衛対象ほっぽらかしてめいめい散って、敵に攻めかかってくわけですね(笑)。
さらにこの時は、猛将タイプである直政の馬が、なまじ他を圧倒する駿馬なので、部下も護衛も引き離してしまうと(笑)。
さもさもありなん、でした。
今日の読売新聞の磯田道史先生の歴史コラムは「関ヶ原合戦」での島津軍を追跡した井伊直政が鉄砲で撃たれる過程を詳細に解説しています。戦後、井伊家は直政が撃たれた状況を調査するために薩摩まで証人を探しに行ったそうです。その時の記録古文書を国立公文書館で見つけ出したというのですからスゴス
— サイガ@おおむらこん (@dobasidorui) 2012年8月28日
しかし、この資料調査。
まー10年、 15年前だったら「ここに歴史学の新鋭あり!」と鐘や太鼓で大宣伝するとこだけど、もう宣伝が必要な「新鋭」どころか歴史学者といえば磯田道史、磯田といえば 「the 歴史」というぐらいに世間的にはなってるんだよね。
業界のど真ん中をいくぞ!
…そして、彼へのその評価や現在の地位に個人的には全く異議なし。磯田という人物を(世間一般向けの)歴史学のエースと認定した平凡なる「世間一般」の眼力はなかなかたいしたものだと、(そんな無名人の一人として)自画自賛してるところだ。
大体この一件だってまあ本人の申告ではあるんですけど、とにかく自力で膨大な資料を国立文書館で読み込み、探し、そして決定的資料として未公刊の文書を見つけるわけだから、なんともいえぬ、ただの人気者ってだけじゃないシュートファイターであります。 そのうえでテレビ番組の司会をこなし、このように新聞に分かりやすい文章でコラムが書けるのであるから、真にたいしたものであると言わざるを得ません。
今回の「おんな城主直虎」最終回で改めて思いだし、この「井伊直政狙撃さる」という磯田道史の調査を紹介した次第です。