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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

2年前の「立憲主義」に関する樋口陽一氏のインタビューが再度話題なので、私の紹介記事も再度読んでください。

立憲主義」ってなあに?(江川紹子) - Y!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20150704-00047228/

2年前の記事だけど「立憲民主党」という新党の党名が話題になったことと、httpがhttpsになんとやら(よくわからん)で、再度注目され、ブクマも急増というか再度ついた

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20150704-00047228/

僕のブクマ

http://b.hatena.ne.jp/entry/345665315/comment/gryphon
とっくに重要性を見抜き発表当時紹介記事をかいた(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150705/p3)おいら、やっぱその辺のおあにいさんとはおあにいさんのできが違うんでいっ(笑)/しかしまぁ、ぶっちゃけ『進歩派』の黒歴史あり。

そう、ぶっちゃけ先のインタビューは「立憲主義は、民主主義を重視し、その先には社会主義というもっとすばらしいものがあると考えた人たちにないがしろにされてきた」という、あんまり言っちゃならないいことをさらっと言ってるのがねえ(笑)

ということで、上の記事のアンサー記事

意外な犯人に苦笑…「立憲主義は、民主主義や社会主義を進めるのに邪魔だ、と思われ目立たなかった」(樋口陽一氏) - 見えない道場本舗 (id:gryphon / @gryphonjapan) http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150705/p3

も再読してほしいのだけど、こういうのってリンク張っても読まない人は読まない。なので、丸ごとリバイバル掲載します。
ブクマはあっちにつけてね。

[時事][政治][法哲学]意外な犯人に苦笑…「立憲主義は、民主主義や社会主義を進めるのに邪魔だ、と思われ目立たなかった」(樋口陽一氏)

このインタビュー、読んで思わずゲラゲラ笑ってしまいました。
立憲主義の大切さを江川紹子さんが樋口陽一先生に聞いたインタビューなのだが、立憲主義がないがしろにされていたことに関して、思わぬ「犯人」が名指しされてましてね……

立憲主義」ってなあに?(江川紹子) - Y!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20150704-00047228/


Q:佐藤幸治先生(京都大学名誉教授)は、以前教科書を執筆された時に「立憲主義」について書こうとしたら、現場の先生に反対されて載せられなかった、とおっしゃっていましたね。今は、まったく逆の状況が起きていて、ほとんどの教科書で載るようになりました。


樋口「ほお。それはいい話を聞きました。戦後は国民主権になって、民主主義をどんどん進めていく、という路線でしたからね。天皇が主権者とされていた時代ならともかく、今さら『立憲』は邪魔だという雰囲気がありました。民主主義がどんどん推し進められている時には、国民が自ら作り出した権力でも制限するという立憲主義の主張は、なかなか出番がなかった

…どちら(※議会と君主)も、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが『立憲主義』です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまりは、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは『民主』で、ドイツは『立憲主義』。明治の日本は、そのドイツにならったわけです。

かつては民主主義を押し進めていけば、いい世の中になる、その向こうには社会主義というもっといい制度もある、というのが、知識層のかなりの共通認識でした。だから、『立憲』より『民主』。それは日本だけではありません。他の国々、たとえばフランスやイタリアなどは、共産党も強く、やはり『立憲』より『民主』でした。ところが、民主、さらにはその先にあったはずの社会主義の実態がだんだん明らかになっていく。やはり、権力というのは何らかの制限がされるべきだ、ということになって、立憲主義が見直されていったんですよ。

盗人を とらえてみれば ナントヤラ。

しかし、道義や正統性はともかく、戦術的にはすっごく正しいんだよね。

自分たちが議会や論壇の勢力が強い時は、憲法が制約になるかもしれないから「立憲より民主」。
そして相手の勢力が強くなったら、「民主」は不利になるので立憲を強調し始める…。これは名戦術。


ちなみに、大屋雄裕氏もほぼ同じ内容を端的にツイートしてて(2017年)



ただ、原理的には非常に深い話。

つまり民主的に選ばれた議会に正統性の根源を求めるのなら、議会は何の制限もなく、そこで議論し、採決して法を際限なく決めていっていいではないか…という考え方も極端にいえばできるのです。あるいは国民投票をすれば、すべては決定できる、という考えもある。

反動憲法vs進歩議会、というのもありえる話で、また旬?のネタでいうと、開明君主アルスラーンが議会を創設し、その議会が奴隷制廃止をしようとするよね。その時に、反動的な前王アンドラゴラスの代に定まった「アンドラゴラス憲法」が「わが国は奴隷制を持つ」と定めており、これがなかなか改正のハードルが高い…という時、議会を召集したアルスラーン王も、議会に入ったダリューン議員やナルサス議員も「ぐぬぬ」となる。それぐらいだったら、議会が何でも定められるほうがいいではないか…となる。


「民主」(この場合、往々にして「お前の中では民主なんだろう」な勢力だったりするんだが)と「立憲」はそりゃ別物であります。



そして、これともつながってくるような気がするな。
つまり「国民が主権者」だと、憲法が命じる対象に国民が入るのではないか?というパラドックス

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20051106/p3

国民の義務規定、愛国心養成などのレトリックが無くなったことを「憲法は、国民に守らせるものではなく、政府を規制するものだから、もともとそういう規定は不必要」という論があって、実はこれは小室直樹も以前から何度も強調し、その学派を継ぐ一派(宮台真司橋爪大三郎)や宮崎哲弥も話している。
というか、小生もそうであろうと考えていて何の異論もなかった。

ところが有名法哲学ブログ「おおやにき」にて
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000242.html
(※リンク先変更されていました)

・・・ちゃんとしていてくれれば何も私なぞがしゃしゃり出てトンデモを嗤う必要などないのである。しかし現実には、「憲法は国家権力に制約を加えるためのもので国民の義務が規定されるのはおかしい」などという妄言俗説をたしなめるどころか助長している人々が当の憲法学者たちの中にいる。・・・

どのへんが「妄言俗説」なのか。
ここから先は、なにしろシロートの思考なので、たぶん逆に、さらに妄言俗説を拡大するんじゃないかと思うのだが、自分なりの考えを述べよう。

たぶん、最初の憲法マグナ・カルタやなんやかやにおいては、そういう考え方で善かったんだと思うんですよ。もともと国を王様が支配し、全ての権利、権限、権力を王様が持っていた時には、国民(もしくは「特権」ある階級)のほうが王様に「あんたはXXはするな、○○しなさい」と、あちらの一方的な義務として要求し、守らせていた。
これは、国が王様の持ち物であることを前提として、「せめてこれだけは守れ!」というものだったからだろう。
しかし、いま現在、曲がりなりにも「主権」というものを、国民自身が所有するという建前のもとに国が有るとき、要求する先はどこか。
たしかに「権力」というものは、人間社会があるときは常に存在している。
しかし、タテマエであれ名目であれ、その主権者が国民であったときに「『お前』はXXするな」の持って行き先はどこか、という話になると「あ、おれだ」という話になる。

上のリンク先では、コメント欄にて私と大屋氏の「質疑応答」もあります。


多くの人に読まれているので、「主権」「天賦人権」の過去記事もリンクしときます

憲法の正統性の根源をどこにおくか。

「天賦人権説」の議論(否定論)について、ちょっと資料を記憶で紹介しつつ - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20121216/p2