INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「欧米ではイスラームを無理にリベラルに解釈し、見る目が歪んでいるのでは」池内恵氏のツイートなどから

ことの発端はこの本への評価。

イスラームの歴史 - 1400年の軌跡 (中公新書)

イスラームの歴史 - 1400年の軌跡 (中公新書)

内容紹介
世界宗教として君臨するイスラーム。現在、ムスリムは一六億にのぼり、キリスト教徒に次ぐ。ムスリムの考え方や行動様式は、理解しづらい部分も多く、対テロ戦争が進行するほど、欧米や日本からの偏見は強まっている。本書は、世界的宗教学者イスラームの一四〇〇年におよぶ歴史を概観。誕生から国家の発展、そして近代化、世俗化といかに向き合ってきたかなどを、思想的背景とともに解き明かす。監修・池田美佐子。

内容(「BOOK」データベースより)
一六億人にのぼるイスラーム教徒。だが、行動原理は外からは理解しづらく、欧米や日本からの偏見は根強い。本書は、世界的宗教学者イスラーム一四〇〇年の歴史を概観。誕生から近代化、世俗化との葛藤までを宗教運動や思想的背景とともに解説する。十字軍以降、西洋は歪んだイスラーム像をつくり文明の敵と見なしてきたと指摘し、比較宗教の視点と事実の掘り起こしから、理解の修正を迫る。

著者について
1944年生まれ。オックスフォード大学卒業。ローマ・カトリックの修道女として七年間を過ごし、その体験を回想した自伝『狭き門を通って――[神]からの離脱』は処女作ながらベストセラーとなる。その後は、『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』、『エルサレム――ひとつの都市に三つの信仰』、『神のための戦い――ユダヤ教キリスト教イスラームにおけるファンダメンタリズム』、『仏陀』などを執筆。ユダヤ教教育機関レオ・ベック・カレッジ(ロンドン)の元講師。

「中東ニュース速報」というアカウント名だが、もちろん、中東学者の池内恵氏が、中東・イスラーム学の風姿花伝 http://ikeuchisatoshi.com/ やフェイスブックに続いて、自身の考えや情報をSNSで発信するものです。
知らない人もいたかもしれんけど、それを大前提として。

そして、こう論考が続く。






それに関連して、当方がこんなやりとりをしました


「直接ではないが、つながっているように感じた過去記事」をあらためて紹介しよう

http://ikeuchisatoshi.com/i-1254/

イスラーム教の教義は政教分離を認めていないし、解釈によって認めることは極めて困難であるという前提を認識していないことからくる誤った(機能しない)処方箋であると考えるからです。

イスラーム教」と「イスラーム教徒」は明確に分けてください。イスラーム教の場合、神の啓示した文言は不変なので、明文規定にあるものを、イスラーム教徒が変えるということはできません。
(略)
強硬な解釈の余地がなくなるように、根本的な教義を変えようとすれば、とてつもない宗教改革が必要です。そもそもそのような宗教改革を世界全体のイスラーム教徒の大多数が現在は望んでいません。多数派として住んでいる圧倒的多数のイスラーム教徒にとっては現行の法体系でさほど支障がないのです。もしフランスのイスラーム教徒だけが変えようとしても変えられません。

フランス人となっていて、教義は自分の力では変えられないが、自分自身は政教分離を受け入れるという人は多数います。「イスラーム教は政教分離をしないことが教義なのだから、個々のイスラーム教徒に政教分離を強いるのは抑圧だ」との見解がフランスでも社会的合意として取り入れられれば、イスラーム教徒でかつ政教分離を志向する人は、背教宣告に怯えなければならなくなり、自由を著しく侵害されます。
(略)
「フランスのアラブ人には政教分離に賛同している人もいる」という議論で、イスラーム教の解釈は実は世俗主義に親和的だから、問題視してはいけない、批判してはいけないと議論する人がいますが、逆です。「フランス国民となるためには政教分離してください」と要求し続けてきたので、イスラーム教の教義では許されにくいにもかかわらず、一定数が政教分離を受け入れてきたのです。

イスラーム主義の思想家は、時と場合に応じて、相手の知識の程度に応じて、読者・聴衆の抱く(想定された)固定観念に応じて、実に巧みに戦略的に言葉を使い分けます。

そのため、イスラーム教の基本的かつほぼ変更不能な規範と、一時的にその思想家がその場に応じて言っていることとの間の、あるいは「言わないこと」との間の、食い違いがあるのか否か、あればそれは何であるか、どれほど重大なのか、その食い違いによって論者はどのような効果を生じさせているのか、かなりそのテーマに関する議論に習熟し、かつ意識して基準を定めて取り組まないと、正確に理解することも言語化することもできません。

イスラーム主義思想家が繰り広げている言語闘争とはまさにそのような、ズレをうまく突いてくるものです。そのような闘争を行う言論の自由はありますが、同時に、理解した上で受け入れるなり、問いかけを返すなりしないといけません。

私のコメントは「イスラーム教の規範を西欧社会で受け入れるなら、非リベラルな規範の部分も受け入れるということを認識して覚悟した上で受け入れるんですよね?」と釘を刺すものとなりました。

http://ikeuchisatoshi.com/%E3%80%90%E5%AF%84%E7%A8%BF%E3%80%91%E3%80%8E%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%8F%E3%82%AA%E3%83%94%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%AC%84%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0/

そして、これと関係なく…だったな、何かの拍子にどこかからリンクが張ってあるのを見て気づいたのだが、面白い論考がありました。

退行的左翼とイスラム教 - 道徳的動物日記 http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/11/30/115638


……ナワズが書いた「イギリスの左翼によるイスラム原理主義の偽善的な称賛」というタイトルの記事である。アメリカの左派が自国内のキリスト教原理主義者や宗教的右翼に対して熱心に戦っているのに比べて、イギリスやヨーロッパの左派はイスラム原理主義者を容赦して野放しにしている、とナワズは記事の中で批判している。ムスリムはヨーロッパではマイノリティであること、イスラム圏を批判することは西洋中心的で植民地主義的であると思われること、イスラム教を批判することは自国の極右を調子付かせてしまうこと、などが左派がイスラム教を批判することを躊躇う理由であるが、だからといってイスラム国がヤジディー教徒の女性を奴隷化したりシリアで同性愛者を殺害することを容認するべきではない、とナワズは書いている*4。退行的左翼はイスラム圏で起こる悪いことを何でもかんでもイスラエルや西洋のせいにするが、それは間違っているし、「ムスリムが文明的になることは期待できない」と言っているようなものだ。また、退行的左翼は西洋やマジョリティに対して怒りを表現するムスリムの声は聞きたがるが、(ナワズのように)イスラム原理主義に疑問を示したり批判したりするムスリムの声は聞きたがらない…と記事の中でナワズは書いている。また、イギリスの代表的な左派メディアであるガーディアン誌(Guardian)が特に批判されている。
(略)
二つ以上のリベラルな価値観(負け犬に対する配慮と、言論の自由に対する配慮と、女性の権利に対する配慮)が衝突した時に起こる認知的不協和のために、この匿名の著者は臆病者になってしまい、言論の自由を捨ててしまうことで自分の認知的不況を解決しようとしてしまったのだ。この著者は、サム・ハリス(や他の人)によるイスラム教に対する批判と、個人としてのイスラム教徒に対して行われる差別である本当のイスラモフォビアを区別することもできていない。イスラム教は人種じゃなくて、特定の信仰であるということもわかっていない(もちろん、イスラム教にも多様な分派はあるのだが)。著者はこれから妻に告白して("辛い会話"になるだろうと書かれているが、一体この妻はどんな女性なんだろう?)、イスラム教の教義は西洋文明とは両立しないかもれないと考えることすらタブーであると妻に言うだろう。


最後のはてなブログ、自分は宗教とか世俗とかを超えて、もっとも似た感じがあるなあと思ったのは「日本の知識人やメディア界における、金王朝北朝鮮)へのスタンス」、とくに2002年に金正日が日本人拉致を公式に認める前の、あのきわめて強烈なタブーの存在でありました。
それを頭に浮かべると、なんとなく状況が「あー、こんな感じか……」と理解できる。