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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

宗教的戒律の「いい加減さ」と「寛容」についての、断片的考察〜イスラム教を中心に

話題のtogetterのひとつ。

アッラーは優しいから大丈夫』と自分に言い聞かせながらビールを嗜むムスリムのお話 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/885915
 
たこ野郎@出家中 @69_tako 2015-10-11 17:18:53
ムスリムの友達が「アッラーは優しいから大丈夫、アッラーは優しいから大丈夫…」って自分に言いきかせながらビール飲んでるけど日本人から見てもアッラー多分ブチギレやで


これへの反応が、やっぱり「日本らしい」気がしないでもないが、それもまた偏見かもしれない。
つらつらと書いていきますです。例によって、断章的になります。

まずコメント欄より、当方が書いたものを。

gryphonjapan @gryphonjapan 19時間前
何度もこれは書いたことあるけど、宗教は本質的には「おまえがそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」だからねえ。そしてイスラム教だってこの種の抜け道というか柔軟な解釈は「その人によっては」いろいろあるし。/とあるムスリムは「私の神を思い浮かべる」「仏教はブッダという人間が『人はどう生きるべきか』を考えた 哲 学 です」といって座禅を組む由。
 
gryphonjapan @gryphonjapan 19時間前
過去のtogetter http://togetter.com/li/559914 で中田考氏が解説しているが「ムスリムでは背教・棄教は死刑(ガチ)。」だが「イスラムのような完全なる教えを正常な精神の人間が捨てるわけがない。とんでもない『無知』か、もしくは『狂人』なのだろう」という、ある意味さらにゴーマンなタテマエで免責されることも多かったそうです。
 
gryphonjapan @gryphonjapan 18時間前
https://twitter.com/gryphonjapan/status/653804168793067520 に黒川あずさ「バングラデシュで玉の輿」の画像を紹介しました。これを「詐欺同然だ、ひどい」ととるか「柔軟だね」ととるかは人それぞれかと。そういえば、アントニオ猪木氏もムスリムだったな…。
 
gryphonjapan @gryphonjapan 18時間前
アントニオ・モハメドフセイン猪木氏が語る http://blogos.com/article/67697/ 『1990年、湾岸戦争の折にカルバナというモスクで、儀式が用意されていました。生贄の羊が2頭いました。これは国王並みの儀式と聞いております……それ以来「モハメドフセイン」という名前がついております。 ただし、イスラムの方にこないだ申し上げたとおり、まだまだイスラム教になりきっていません。時々、酒をたしなむし、まだ奥さんが4人いたりもしません(笑)。』
 
gryphonjapan @gryphonjapan 18時間前
関連記事⇒【ラマダンを守りつつ戦うムスリム・大砂嵐。だが「すべてが神道神事」ともいえる相撲の各挙措は? - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140726/p1

これだけコメントしてさらに記事もブログで書くんだから、すごいね俺(笑)
このコメントでちょっと触れた話をさらに詳しくしたり、資料を提示していきましょう。

というか過去記事アーカイブがあるよ。
コメント欄で書いた「座禅」うんぬんの話も、登場しています。

神社とイスラーム-http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120517/p4
 
ラマダン、女性の髪、スポーツ参加、同性婚…宗教間、或いは同一宗教間の違いについて-http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120811/p3
 
お寺に座禅を組みにいった、トルコ人(※ムスリム)の話。(毎日新聞「発信箱」) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20121102/p5
 
宗教における「見なしの自由」を擁護する…彼の為でなく、我が為でもなく。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20111109/p3

イスラム法の「棄教は死刑」「改宗は死刑」(基本)と、それに対する救済措置?について

釣りや煽りで言ってるわけじゃない。
著者も出版社も書名も、まじめ度100%で出している、この本がある。

日本とイスラームが出会うとき

日本とイスラームが出会うとき


ここの第六章が「イスラームから離れる」ということ。

…どの宗教においても、さまざまな理由からその宗教を「やめる」事例が見られる。もちろんそれはイスラームでも同様に見られる。ただ一般に、イスラームにおいて「棄教」は認められない。それは理念上、ムスリムであったら棄教はあり得ないことであるし、イスラーム法(シャリーア)によって定められた刑罰(「リッダ刑」と呼ばれ、通常死刑になる)の対象になるからである。
(P128)

専門家が、専門書でこう書いているのだ。
「違う」ということはできるだろうか?できぬできぬ。
まず、われらが無明の民、造物主の恩寵を感じられない異教徒たる小生からみたら、まずはこの教義自体がどんびきである。

もし日本で、仮に
「反イスラムプロパガンダ」をするなら
イスラム法では、改宗すると死刑なんですってよ、奥さん!」とやれば効果的だろう。差別でもなーーんでもない、ファクトとエビデンスに基づいた議論なのだ。(しかし、と続く。後述)




また、神なき世の啓蒙思想からの系譜を受け継ぐ我が日本国憲法の精神と、イスラム法は真っ向から対立する、のではないか。
これは冗談ではなく、アメリカではとある州で通称「反シャリーア法」なるものが生まれ、それが差別かどうかが裁判で争われた。
結局敗訴だが。

http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2012/01/post_1344.html

Fed Appeals Court Rules Against Okla. Ban on Islamic Law
Jan. 11, 2012 8:14am Billy Hallowell
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Federal Court Rules Against Oklahoma Sharia Law Ban
Muneer Awad (left) executive director of CAIR Oklahoma
OKLAHOMA CITY (The Blaze/AP) — A proposed constitutional amendment that would ban Oklahoma courts from considering international or Islamic law discriminates against religions, and a Muslim community leader has the right to challenge its constitutionality, a federal appeals court said Tuesday.

日本国憲法シャリーアを許容するか?
という問いは、現実性があるような無いような、だが、あとで考えてみたい。



しかし本題に戻る。
専門書であっさりと改宗・棄教は「通常死刑」と書いてあるイスラム法だが、さすがにさすがなので、ちょっとした抜け道がある。らしい。

http://togetter.com/li/559914

中田考 @HASSANKONAKATA

イスラーム法は背教の判断を下すと死刑以外に選択肢がないので、出来る限り背教の判断の回避に努めるのが伝統だから。

(承前)背教の世俗主義政権の積極的、及び消極的協力者を背教者と判断しない理論的根拠が「無知による免責(عذر بجهل)」論。つまりイスラーム行政法を学んでいない無学な一般信徒は、背教の大罪を犯していても無知故に免責される、との法理論。
 
イスラーム法の背教罪は死刑で厳しく思われるが、その適用例はカリフ制の消滅した現在のみならず、歴史資料を紐解いても極めて少ない。その理由は実際に背教者が少ないこともあるが、そもそも他人の内心に干渉しない(背教したかどうかを問わない)というイスラームの特徴によるところが大きい。
 
(承前)裁判になり、愈々背教罪の構成要件に該当するとなっても、大抵の場合は狂人とされ責任能力がないということで免責されるからである。創造主の使徒の教えであるイスラームの信仰は、健全な理性を持つなら否定するわけがない、背教するなど狂気の沙汰に他ならない、と考えるわけである。


ただし、このtogetterでもこう断言されている。

中田考 @HASSANKONAKATA 2013-09-06 04:54:46
勿論、ヌスラがシリア政府軍の捕虜を処刑しないと言っているわけではない。むしろ逆で、ヌスラはアサド政権がアラウィーの異端性に加えてイスラーム法に反した世俗主義の統治を行う背教者であると考えるが故に戦っているのであり、政府軍の捕虜は基本的に背教者なので処刑しても少しもおかしくない
 
イスラーム法では、異教徒の捕虜は、人質交換、身の代金、ああるいは無償で釈放するか、処刑するかが選べるが、背教者は釈放が許されず処刑するしかない
 


で、忘れていたけど、ぼくはこのまとめにこうコメントしていた。

gryphonjapan @gryphonjapan 2013-09-06 16:53:38
「背教は死刑だが、この最高の教えを棄てるというのは狂人だろうから許してやる」を知恵ある寛容だととるか、いや根本的にその死刑規定がおかしい、とするかで評価が変わりそうだ

この種の形骸化による寛容政策というのは、たとえば日本における「斬り捨てご免」「無礼討ち」もそうであって、どんどん適用要件が厳しくなっていき、実質的にはそうそうできることではなくなっていた。

日本を舞台にしたサムライのゲームブックを学生時代に読んだことがあり、そこではサムライがいきなり刀を抜いて主人公に切りかかってきて、説明役の老人が、「この国ではサムライは、いつでも自由にサムライ以外を斬殺できるのじゃ…」とか言ったりして、おいおいちょっと違うでしょ、と言いたくなったのだが、しかし一応、公のタテマエやルールだと、それを否定しようとすると難しいのかもしれませんな。


結婚もムスリム同士じゃないとできない。ならば…口真似でも1回「信仰告白」させれば成立!!(「バングラデシュで玉の輿」より)


国際結婚を描く漫画はすでに「1ジャンル」といっていいほど多数あり、各国の文化や風俗、ものの見方を考えるいい材料となっておりますが、そんな中で中公文庫にまでなっているのがこの本です

バングラデシュで玉の輿1 (中公文庫)

バングラデシュで玉の輿1 (中公文庫)

バングラデシュで玉の輿〈2〉 (中公文庫)

バングラデシュで玉の輿〈2〉 (中公文庫)

バングラデシュで玉の輿〈3〉 (中公文庫)

バングラデシュで玉の輿〈3〉 (中公文庫)

これの1巻で、宗教と人権をめぐる大スキャンダル?が描かれている(・・・かどうかは評価次第だ)。

結婚する漫画の書き手(女性)とバングラデシュ人の夫だが…


togetterのコメント欄にも書いたが
これを「詐欺同然だ、ひどい」ととるか「柔軟だね」ととるかは人それぞれかと。

実際に日本だって「南無阿弥陀仏」と一遍でも唱えれば極楽往生とか、いや既に阿弥陀さまはお救いくださっているので、南無阿弥陀仏はそれへの御礼とかいろいろあるし。

というか自分だって、
 「ラー イラーハ イッラッラーフ」「ムハンマダン アブドフ ワ ラスールフ」
ぐらいはいつでも唱えてやるぜ。これを覚えていれば命が助かるシチュエーションだって実際にあるのだ。そういう実例があるので、ちょっと覚えていて損はない。

しかし、この後、テキストに沿うなら、作者は激怒して
「ひどいっ 人権蹂躙だッ」
「てか『人権』って概念すらないだろ!?キミらは」
とまで批判している。(※漫画的な誇張表現かどーかなんて、事実はしりません。あたしゃ忠実にテキストを写すのみ)

その一方で、これがスキャンダルだという認識は夫側にもあったらしく

と、この描写に異を唱えています。
ま、これが一種の「みなしの自由」というわけで
妻「なんかわかんないけど、おばさんがやってきて、唱える言葉を口真似しなさいというんで、言われたとおりやってみた。私はいつのまにイスラム教徒になったんでしょう?」
夫「ちゃんと妻は理解して、自発的にムスリムになってくれた!これで結婚できる」

という認識の差があったからって、別にどーってことはない、のでしょう。
ちなみに夫氏も、そうとうに砕けた信仰観の持ち主で
あなたの信仰はスンニ派シーア派?と聞かれて「そういうのは気にしたこと無いなー」
なんで日本に来たの?と問われて「先に来た友人が、『仕事もあって酒が飲めて、女の子はミニスカートを履いている』と言ってたから!!」
と、そういう人なんである。


そもそも、『A禁止!!』がやかましく書かれたテキストを見たときは『A、そこで流行ってたんだな…』と思ってればまちがいなし

でしょ?

そもそも、イスラム教で戒律を厳格にしようという流れが出来たのは、やはり世俗的にゆるくなってきた時の「復興運動」としてでありました。

http://www.y-history.net/appendix/wh1301-015.html
18世紀半ば、アラビアのイブン=アブドゥル=ワッハーブ(1792年没)が起こした、イスラーム教の改革運動である。彼は、ヒジャーズ(アラビア)、イラク、シリアなどを旅行した後、当時のイスラーム教徒が、預言者ムハンマドの示した『コーラン』とムハンマドの言行(スンナ)の教えにいちじるしく逸脱している、と考え、それを粛正し、厳格な原始イスラームを復活しようとした。
(略)
彼らから見れば、古めかしいスーフィズムの聖者崇拝や、単なる木や石を霊廟だとしてあがめる偶像崇拝は許されないことであった。ワッハーブ派は1805年、メディナにあった教祖ムハンマドの墓廟さえも破壊した。たとえ預言者の墓であっても、墓を崇拝するのは許されない厳格な宗教純化の表れである。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1996 中央公論社 世界の歴史20>

世界の歴史〈20〉近代イスラームの挑戦 (中公文庫)

世界の歴史〈20〉近代イスラームの挑戦 (中公文庫)

山内氏のこの本は、何度も紹介しているが名著であります。
そして太字にした部分が一番衝撃的なくだりだ。宗教を、ある一方向に突き詰めていけば「預言者の霊廟も偶像崇拝である。ぶっこわせ」となる…


一方で日本にかつて「戒律なんかにこだわるな。日本風にいきましょう。『大乗イスラーム』だ」という思想があったという。

「日本イスラム教団」の歴史が、前述「日本とイスラームが出会うとき」に書かれている。

イスラムの真髄は酒を飲むなとか豚肉を食べるなという規則じゃない。それは小乗的なイスラムであり、コーランは大乗的な宇宙の原理を説いていることに気付いた。親鸞が言う『絶対他力』に通じるものがあると思いました。(安倍治夫、同書197P)

おお・・・芥川龍之介「神神の微笑」だ・・・「つくりかえる力」だ・・・
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html
まあ、その結果、どうなるかは同書を読むとよろし。

オバマの父親はムスリムムスリムの子は自動的にムスリムだから、もしもオバマキリスト教徒なら(論理的には)「棄教者」となる』(内藤正典

イスラエル寄りの米国の中東政策が、さほど変化しなければ、ハマスをはじめ、パレスチナ政治勢力は、オバマへの反感を募らせることになろう。危険なのは、勝手な思い込みによる期待が裏切られたときに発生する敵意である。
 オバマの父親がイスラム教徒であったことも蒸し返されるだろう。彼のフルネームは、バラクフセインオバマである。ミドルネームのフセインイスラーム初期の指導者の名前から採られていることは間違いない。ファーストネームのバラクも、アラビア語で「神の恩寵」を意味するバラカから来ているかもしれない。
 イスラーム世界では、オバマが実はムスリムであって、自分たちのために働いてくれるのではないかという根拠のない噂さえある。オバマ自身はキリスト教徒であると宣言している。これは彼の母親がキリスト教徒であったからキリスト教に入信したという形で報道されている。しかし、父親がムスリムの場合、イスラーム法によれば子どもは自動的にムスリムとなる。したがって、オバマが自身をキリスト教徒と宣言すると、イスラームを棄教したことになってしまう

これもシロートの放言ではない、同志社大内藤正典氏が言っているのであるぞ。
もっとも、今のところはこの問題はそれほど蒸し返されてはいないようだ。

もっと詳しくは、こちらでも書かれているらしい(自分も持っているはずだがな・・・)

イスラムの怒り (集英社新書)

イスラムの怒り (集英社新書)






常岡浩介氏「イスラム教はゆるくて楽ちんだ」

常岡さん、人質になる。 (ホビー書籍部)

常岡さん、人質になる。 (ホビー書籍部)

日本ではイスラムというと(略)厳しい宗教というイメージがあるようです。
しかし、私にとっては、ゆる〜くて楽ちんな教えです。
たとえば、仏教には宗派によっては戒律を破ると
その宗門から追い出される「破門」がありますが、
イスラム教には「破門」がありません。
どんなに戒律を破って悪いことをしたとしても、
イスラム教徒はイスラムから追い出されたりはしません。
ダメなイスラム教徒になるだけなのです。
私は改宗前にダメ人間でしたから
めでたくダメなイスラム教徒になったわけです。
(P48)

むかし見世物小屋で「ここには巨人に、小人がいるよ!!しかも世界で一番だ!!」と宣伝しているところがあって、客が入ると普通の人間しかいない。

「詐欺だ!」「インチキだ!」と怒る客に、興行主
「なに言ってるんですか、世界最大の小人と、世界最小の巨人がいるじゃないですか!ほかではこんなの見られない!!」って(笑)。


それに近いことはありえるわけで

ちょっとお酒をのんじゃったムスリム
ちょっと豚肉も味わうムスリム
ちょっと神社に行って手も合わせるムスリム
ちょっとお寺で座禅を組んじゃうムスリム
ちょっと礼拝は省略しちゃうムスリム……だってそりゃいる。

それが、最初の

http://togetter.com/li/885915

にもつながるんだろうね。


…というところで、つかれてきたんでおしまい。