「アラブの春」はなぜ失敗したのか。イスラーム世界の病理とは何か。イスラーム世界はどうすれば再生への道を歩むことができるのか。イスラーム・フォビアが浸透しイスラーム主義への理解を歪めている欧米諸国も視野に、世界各地のイスラームの今を俯瞰する。
ここの第1章と9章とを、SNSでは有名な中田考氏が担当しており、特に9章は「2009-2010年、タリバン(アフガニスタン・イスラーム首長国)公式サイト」のアラビア語版に載せた、自らの思想を説明する論文を、氏が翻訳したものが重要資料として掲載されている。
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今回、「後タリバン朝」(という命名をネットで見て笑ったので、ゆるく採用。)が成立し、公式スポークスマンの記者会見まで行われたということなので、同論文で自分が興味を持った、面白い部分を紹介したい。
それはタイトルにうたったように、タリバンがどのように「民主主義」を認識しているか、という点だ。
6:民主主義を現代の無明の宗教とみなし信仰しないこと
タリバンの思想の重要な基本原則の一つに、民主主義を信じず、それをアッラーの最後の使徒ムハンマドへの啓示の導きを拒否し生活の全ての領域において人類の欲望を最終審級とする現代西欧の無明の信仰であるとみなすことがある。
タリバン運動は、イスラームが政治制度、立法、経済、道徳、社会についての完全な宗教であり、民主主義であれ、他の宗教であれ、法制であれ、継ぎはぎをする必要がないことを固く信ずる。そしてそれが至高なるアッラーのその書の明文における御言葉「今日、我は汝らに汝らの宗教を完成し、汝らに我が恩寵を全うした。そして我は汝らの宗教がイスラームであることに満足した。それゆえ、罪に延れず飢餓に強いられた者には、まことにアッラーはよく放し給う慈悲深い御方」(5章3節)、および「イスラーム以外を宗教として求める者は、その者から受け入れられることは決してなく、その者は来世において損失者の一人である」(3章3節)である。
イスラームは、人間生活の全ての次元を包摂し、復活の日に至るまでの全ての間題、課題を処理することのできる宗教である。それゆえもしそうでなかったとすれば、復活の日に至るまでの人類の他の全ての宗教と同じく、「アッラーは)それに満足し給うことはなく、それから逸れる者を損失者のうちに数え給うことはなかったのである。
またタリバンは民主主義をアッラーの主権を否定し、多数決のかたちで地上の至上権を人類に属さしめる現代の無明の宗教であると信ずる。そしてこの多数派が法令を制定し、合法と禁止を定める限を独占し、また彼らの安執に従って、自分たちの利権を守るために、支配者を選ぶのである。それで彼らは何事においても真理のアッラーの聖法に従わない。それゆえ民主主義における多数派は、神の地位を占めており、彼らの妄執が神の聖法の地位を占めるのである。
タリバンは民主主義について、民主主義とは[キリスト教]教会の堕落、そのあらゆる人権の蹂躙の後の近代西洋の哲学者たちが作った宗教であると信ずる。そこでの立法の源泉は人間の妄執と思念…(後略)
タリバンはムスリムの国における政治的多党制は、諸党派、諸集団が権力の椅子を目指して頂いに騙し争うようにムスリムを分裂させる手段であると考える。それゆえタリバンは支配権を得るための避難すべき争いを防ぐために、単一のイスラームの旗印の下に唯一神信仰[=タウヒード]の言葉の上にムスリムを統合する単一の公正なイスラーム政体を樹立すべきことを信ずる。また[タリパンは]同時に、ムスリムの為政者たちへの助言のために門戸が開かれる必要をも信ずる。なぜならば「宗教とは助言」(ハディース)であり、また「最善のジハードは不正なスルタンの許での真理の言葉である。」からである。
我が信仰する人民をこの高貴な目的から逸らし、ジハードと殉教者の地にイスラーム政体を樹立することを妨げる全ての思想、理論は、許容されるべきではなく、むしろアッラーへと近づく献身、その道におけるジハードとして、抹殺されねばならないのである。それゆえ民主主義はタリバンの考えでは、その弘布のために世界中を暴力と鉄で席巻する現代の無明の宗教であり、他方彼らの考えではイスラームは別の宗教であり、至高なるアッラーがそれを最善の人間ムハンマドに啓示し給う真理の宗教で、その中にだけ人類の幸福があるのである。両者の間にあるのは不信仰と信仰の違いなのである。
最初、オリジナルでパロイラストを描いたが一向に似ないので、業を煮やして教科書の落書きレベルのひげを生やしたら、速攻でそれらしいのができてしまった……。
それは
どうでも
いい。
上の、タリバンが考える民主主義論、まったく驚きはなかった。なぜなら、この話と延長線上にあるからである。
かつて18世紀末にロンドンを訪れたイスラム教徒は、こういう感想を持ったという。
英国下院に関する現存する最初のムスリムの記述において、その筆者はムスリムとは違う境遇の人々をみて驚きを表明している。
すなわち、イギリス人は神の啓示した法をもっていないので、自分たちで法律を制定しなければならないというその場しのぎの哀れな措置をとるまでに堕落している、というのである。…いや、この一節が心に残ったのは、これは無知蒙昧な野蛮人が高度な文明を理解できなかった、という話ではない。聖なる律法シャリーアの価値を論理的に突き詰めていけば、敬虔なイスラム教徒からはそういう考えが出てきてもおかしくないな…、と納得できるからだす。
(後略)
シャリーアと民主主義は矛盾するか。矛盾するという。そしたらどっちが正しいか。そりゃゃ聖なるシャリーアである、と。つまり結論は、民主主義は間違いであると。
彼らの内在的倫理からいえば、隙などないっ。
ただ、一方で、我らは世俗の、無明の領域ながら、こういう原理を宣言している。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
この「排除する」対象に、イスラムの律法シャリーアは含まれるのだろうか?日本は、というか全人類が、シャリーアの下に服するべきである、という思想(こういう思想を持つ人は、間違いなくゼロではない)は、日本国憲法と相容れるのか。