基本、東京新聞のコラムを引用しただけだったんだが、けっこう盛り上がった以下の話題。
荒井由実「卒業写真」の『あの人』は、恋人や憧れの先輩ではなく「学校の恩師」…と、母校では信じられている(東京新聞「筆洗」) - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160314/p5
『<卒業写真のあの人は優しい目をしてる>。<あの人>とは卒業で離れ離れになった心を寄せた男性と想像していたが、<あの人>とは高校時代の女性の先生なのだという▼松任谷さんと同じ立教女学院高等学校を卒業した五十代の女性からうかがった。同校ではそう伝わっているそうだ。先生を思い浮かべ聴き直してみればなるほどと思う。』(東京新聞コラムから)
これへのブクマで、明確に異論を唱えているものを引用する。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/gryphon/20160314/p5
id:nakex1 恋人だと思うけどなあ。この説が本当だとしたら,恋人でもなく友人でもなく恩師が青春そのものの学生生活ってことになっちゃうよ?恩師に「あの頃の生き方をあなたは忘れないで」とか言う?
id:shanghai いやいや教師なら「(町で見かけたとき何も言えなかった)卒業写真の面影がそのままだったから」とは言わんでしょ。相手も卒業生だから何年か経てば印象も変わるのが前提の記述。まずちゃんとテクスト分析しなきゃ。
さらに調べてみましょう。
@suziegroove @sasakitoshinao 卒業写真については、以前ビーバップハイヒールという番組で紹介されていました。ググったらこちらのブログに少し書かれていました。 https://t.co/esOH425701 学校の先生じゃなくて美術教室の先生だそうです。
— stuc:er (@stuc_er) 2016年3月14日
とあるテレビ番組が、この記事のソースのようですが…
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11481529341.html
名曲の裏にある秘話が紹介されていました。お話は音楽評論家の富澤一誠さん。
この曲が誕生した裏には、
このような物語があったのでした。(略)
荒井(松任谷)由実さんは元々、
東京芸大を目指されていたんだそうです。高校が終わると、美術教室に通い、
実家が呉服屋でもあり、
ゆくゆくは着物のデザインなども手がけてみたいというのが
夢だったそうです。その当時の美術教室の先生は20代の女性。
その先生が
………(略)………
そして、受験。
不合格。
(略)
そんなある時、街で美術教室の先生を見かけます。
でも、彼女は思わず隠れてしまいました。あの時、「はい、頑張ります」と答えたのに、
東京芸大を諦めていたから…
別の美大へ進んだ頃、彼女は音楽にのめり込み、
1年生の1972年夏、「返事はいらない」で歌手デビューします。
しかし、たった300枚程度しか売れませんでした。それでも、彼女は曲を書き続けていました。
表面だけじゃなく、空気を描くのよ。
いい? 描けなかったら、
自分のスタイルが見つかるまで描きなさいあの時の先生の言葉がユーミンの創作活動の力となりました…(後略)
なるほど!そんな証言や、事実関係があったんだ!!
こりゃあスモーキン・ガン、あるいはスラムダンク(※どちらも「疑いの余地がない、100%確実」という意味の俗語)だぜ……と、思いきや!!!
当の本人は
彼女自身も、先生から多大な影響を受けていることを認めつつ、
歌のイメージについては、聞き手の想いに委ねたいとしています。
(ノ∀`)アチャー・・・・・・・・・・・・。
振り出しに戻っちゃった。
で、余談だが、検索して探しているときにこういうツイートも見つかったんだが。
荒井由実の「卒業写真」を最初に聴いた小学校時代、「人ごみに流されて変わっていく私を、あなたはときどき遠くで叱って」を「あなたはときどきロープで縛って」と文学的空耳をして以来、もう何度聴いてもそう聞こえてしまう。
— 東 晋平 (@shinpei23) 2016年3月14日
ぶち
こわしだ!!
「作者の意図」か「テクストを自由に私が解釈する」か?(何度も議論されてる話)
まず、その二点から考えようかと思ったんだけど、卒業写真のように「その作った作者自身が『自由な解釈に任せます』と宣言してたら?」
というパターンも出てしまう。しかし、それは今回はおいておこう。
実はこの話、以前このブログでは夏目漱石「こころ」を題材にちょっと盛り上がっている。
夏目漱石「こころ」に関する学者の論争が、シャーロキアンの議論にくりそつで笑った…フィクションの設定論争いろいろについて -http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140530/p4
『「こころ」の結末は実は、亡くなった先生の奥さん・静と「私」がその後男女関係になる、というものである』
『「私」が、死に掛けている父親を置き去りにして上京する点、「先生」が静を置き去りにして自殺してしまう身勝手さ、「先生」から公表してはいけないといわれた遺書が、ここで公表されているのはおかしいという点を挙げて、「先生」は「私」に静を託したのであり、だから、「私」は静を救うために駆けつけたのであり、「私」は静と結ばれてのち、「先生」の遺書を公表しているのだと説明することになる。』
『『こころ』を「同性愛的」と評したのを受けて、同性愛的どころか100%のホモ小説だ、と書いていた。』
※これらを紹介した小谷野敦氏、キレる
↓
ものすごくバカバカしい情景であると言わざるを得ない。大の大人が、たかが小説の、しかも書かれてもいない「後日談」について、学術雑誌の上でかくのごとき「論争」を展開しているのである。
まさに「空の杯でのやりとり」であって、江藤淳などが一顧だにしなかったのも当然であろう。
ここには「作品論」とか「テクスト論」とかいうものの、根本的なバカバカしさが表れている。
しかし、これを肯定する「テクスト論」「作者の死」論というのがある、と。
http://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AB%96
文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。
これらを踏まえて、この前の「卒業写真」記事で紹介した、町山智浩氏の論を再読しよう。
http://anond.hatelabo.jp/20140629111911
「咳をしても一人」という句を「人生から自ら人を遠ざけた男が結核を病んだ死の床で孤独と向き合う」と説明すると「単に風邪かも」「なぜ自ら人を遠ざけたとわかる?」「この7字では説明が足りない」「解釈は自由だ」と言い張って自らの限界内にとどまろうとす る人たちと、そうでない人がいる。
自分が感じた印象を基本的に信じない。自分には超人的な直観力や天才はないと知ってるから。しかし世間には自分が天才やエスパーだと無意識に思っている人が多いようだ。
自分を信じすぎたら、何かを学ぶ気がなくなってしまいませんか? 自分はまだ何もわかってないと疑い続けることで学び成長できるのではないでしょうか?
この場合、荒井由実氏の「あなた」を探すとき、作者が高校時代、美大志望を励まし、叱り、アドバイスし、入試に失敗したときはなぐさめ、実際に街で見つけたときに声をかけられなかった先生が実在する、ということを「学ぶ」ことで、「あなた=先生」となるのか?それともはてブのように、テクストから解釈するのか?
さらに、作者自身が「解釈はみなさんにゆだねる」と言っちゃったら………底が丸見えの底なし沼…
ここで松尾芭蕉とその門下の「月の客」話を思い出す
高校時代にならったなー。お父さん、あなたが払った学費の成果は、いまこんなに無駄に使われていますよ(笑)
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
(名月の夜、)岩の突端にも一人、自分と同じように月見をする人(月をめでる風流人)がいる。
師が上京された時、私(去来)が言うことには、「洒堂はこの(下の)句を『月の猿』と(するのがよいと)申しますが、私は『(月の)客』のほうが優れているだろうと申します。いかがでしょうか。」(と。)
師が言うことには、「『猿』とはどういうことか。おまえは、この句をどのように考えて作ったのか。」(と。)
私(去来)が言うことには、「明るく澄んだ月に浮かれて山野を句を作りながら歩いております時に、岩の突端にもう一人の(月をめでる)風流人を見つけた(という情景を詠んだものです)。」と申し上げる。
師が言うことには、「ここにも一人月見をする人(月をめでる風流人がおります)と、自分から名のり出たことにしたならば、どれほど風流であろうか。ぜひ自称の句とするほうがよい。この句は私も大事にして、『笈の小文』に書き入れておいた。」と(いうことだ)。
後になって考えると、自称の句として見ると、風狂の人の様子も思い浮かんで、最初の句の趣向よりも優れていることは、十倍である。
【原文】
岩鼻やここにも一人月の客 去来
先師上洛のとき、去来いはく、「酒堂はこの句を、『月の猿』と申し侍れど、予は、『客』まさりなん、と申す。いかが侍るや。」
先師いはく、「猿とは何事ぞ。汝、この句をいかに思ひて作せるや。」
去来いはく、「明月に乗じ山野吟歩し侍るに、岩頭また一人の騒客を見つけたる。」と申す。
先師いはく、「ここにも一人の月の客と、己と名乗り出づらんこそ、いくばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。この句は我も珍重して、『笈の小文』に書き入れける。」となん。
予が趣向は、なほ二、三等もくだり侍りなん。先師の意を以て見れば、少し狂者の感もあるにや。
退いて考ふるに、自称の句となして見れば、狂者の様も浮かみて、初めの句の趣向にまされること十倍せり。
まことに作者その心を知らざりけり。
けっきょく、サルはいたんかよ!いなかったんかよ!!!
別の人はいたんかよ!いなかったんかよ!!!
といえば、そういう話じゃないんだよな。だが、こっちのほうがクールだぜ、と思えば、実際の創作者が目撃した「別のひとがいる」という意味の「ここにもひとり月の客」がを「サルにしましょう!」とか「自分自身を『ここにも一人』と自任した、にしましょう!」というんだよ、編集者が。
そのほうが読者アンケートがよくなります!!とかなんとか言ってさ(笑)!!!
ま、こんなところで話を投げっぱなしにして終わらせるなりよ(笑)
そして最後に、「じゃあ、作者の解釈をそっちのけに、して「この男2人は、熱い友情で結ばれていた」「この男2人は、終生のライバルだった」を、「彼らは恋愛関係だった」と、テクスト論を駆使して読み替えるのはどうなんだ、とか、シャーロキアンはそもそも許されるのか…みたいな話もさらにぶんなげておく。
■新作のホームズ映画に著作権者が怒る「ホームズとワトソンを、同性愛っぽく描くな!」http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20120321/p3
「(略)……彼らが将来的作品で同性愛のテーマに触れた場合、映画化は撤回します。わたしは同性愛者に敵意を持っているわけではありませんが、シャーロック・ホームズの本の精神に忠実ではない人には敵意を抱きます」とアンドレアはコメント・・・
外部リンク(※今は読めなかった)
■不謹慎ネタを否定されて原作者に逆ギレする連中は死ねばいいのに http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20140527/1401180027
あら、残念、今は読めなくなっている……
魚拓があると教えてもらいました。
http://megalodon.jp/2014-0527-2135-34/d.hatena.ne.jp/Mukke/20140527/1401180027