【大群衆学】
上の記事と合体させてもよかったんだけど、ちょうど三つ、そういう言論を発見したのであわせ技で独立記事に。
https://twitter.com/haratetchan/status/638605170776010752
原武史 @haratetchan
東京新聞で鎌田慧さんが皇居前広場に言及していた。これぞ正論だと思う。広場が使えないことを所与の事実として認めるのではなく、その事実自体を疑うことが求められている。国会前がデモの空間として定着したことを自画自賛するかのような論調には違和感を覚える
https://twitter.com/kankimura/status/637540521561485312
Kan Kimura (on DL) @kankimura 8月29日
拙連載コラム。QT 関西政治ウオッチ:「デモ」できる象徴的空間を=木村幹 - 毎日新聞 http://sp.mainichi.jp/area/news/20150828ddn004070028000c.html …………子供たちと国会前を歩いて気づいたのは、この国には街頭での政治行動を行う環境が整っていないことだった。
(略)
問題はむしろ、そういって組織されたデモや集会を行う場所にある。例えば、東京における「デモの聖地」である国会前は単に道路が交差する場所に過ぎず、デモ隊の活動はその道路の狭い歩道の中に制限…(略)…人々は同じ場所に集まれず、徒(いたずら)に長い列を…(略)
他国とは大きく異なっている。例えば1960年代に行われたアメリカの公民権運動では、デモ隊はワシントンメモリアルの広い空間に集結した。韓国では景福宮前の光化門広場が名所になっており、大きな政治的問題が起こると必ずここで大規模デモが行われる。重要なのは、市民には多くの人々がともに集い、より効率的に自らの政治的意思を表明するための「象徴的空間」が必要だということだ。古代ギリシャには「アゴラ」……(略)関西地方でも安保法制等を巡って大規模なデモが開催されるようになった。市民が自らの政治的意見を表明するための空間が必要になっている。
そもそも1600万人もの人々が住む世界有数の大都市圏の京阪神に、デモ等を満足にできる「象徴的空間」が存在しない、というのは、この地域の民主主義の発展にとっても足枷(あしかせ)…(後略)
この前のシビライゼーションネタにつづいて、「都市設計はシムシティで学んだシムシティ脳」…といいたいところだが、最初の最初、すっごく単純なバージョンしかやってない。あれ、バージョンを重ねるにつれてどんどん面白く、複雑精緻になってるんだってねー。いつか新しいのを入手してやってみたいな。
「帝都物語」一巻でも、新しい東京のあり方を議論する場面があり、そこではパリの都市設計が紹介されていた。あそこは中心に大広場があり、そこに放射状に大通りが延びているんだそうで…だが、民主主義のための祝祭=デモ用とかじゃなく、逆に「暴動発生時は騎馬警官隊で暴徒を中心の広場に追い詰め、そこで一網打尽にする」とか言ってたような(笑)。
なんにせよ、「都市のこの部分にでっかい広場を作り、そこがいざという時は集会場になる」みたいな話は大群衆学的にもおもしろい話。
それを3人(RTをふくめると4人)の識者が語っていたので、まとめて紹介。
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追記 木村幹氏「自分が言っているのは『大きな広場』ということではない」
Kan Kimura (on DL) @kankimura 10時間10時間前
@JapanNewsFeeds ううん、自分は必ずしも「大きな広場」とは言ってないんだけどなぁ。わかんないかなぁ。
https://twitter.com/kankimura/status/639305660786585600
これは自分の要約(というかタイトル)が不適切でしたね。失礼いたしました。
引用した記事にもありますが、広さということより「象徴的空間」という意味合いでしたね。