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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

今年10周年の「ヒカルの碁」を再読/そして大場つぐみ&小畑健コンビの「バクマン」始まる。

はてブが理由は分かりませんが分離してしまいました http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/gryphon/20080822%23p3 がメイン )
【書評十番勝負】
ひさびさに「書評十番勝負」に挑もう。

バクマン。」≒「まんが道」+「サルまん」+???・・・・

まず「バクマン」。まだ連載一回目で、話が始まったばかりなのだが、漫画家としての成功を目指す二人の若者の青春譜、そしてそれを狂言回しとして漫画界のバックステージに辛辣な批評をし、光と影を読者に教える−という点では、当然ふたつの先行作品が頭に浮かぶ。

まんが道 (1) (中公文庫―コミック版)

まんが道 (1) (中公文庫―コミック版)

だから「バクマン」がid:koikesan(有名な「藤ここ」サイト)や、竹熊健太郎氏の「たけくまメモ」で今後どのように評されるかが楽しみだ。「サルまん」も新装や新作が出たとはいえ、もうマンガでは歴史の世界なんだな。


そして2008年の少年漫画、それも超メジャー誌で、「まんが道サルまん」をやろうという(俺の推測です)ときに、どうアレンジ、アジャストするかという点に関しては完璧に近いと思う。「頭脳明晰なる奇人」的なボケキャラに、主人公目線から常識的なツッコミを入れるというのは最近の流行りだし、「声優を目指す美少女」を入れているのもまあ受けるだろう。
そういえばいままで声優業界を描くまんがってあったかな。鈴木みその「銭」の一篇ぐらいしかしらん。

ここからどう転がっていくかは不明だ。もしマンガに株式市場のようなものがあれば買い銘柄だと思うけど。

ほったゆみ原作・小畑健画「ヒカルの碁」再読

さて、そんな折、この前数日ブログを休んだ際に、ちょいと実家の「ヒカルの碁」の全巻読み直しにトライ。ブックオフ収集なので、単行本では通して読んでいないこともあり、楽しく読むことが出来ました。

ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックス)

ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックス)

そして、世界的大ヒットを二本も生んだにしては非常に漫画家としてのあゆみは苦労人だった小畑健氏(それが「バクマン」にどのように反映されるかも興味あり)、そしてそういうマンガの原作者としては情報が少ない(まあ原作者なんて正体不明で通す人だっており、彼女だけ謎に包まれているわけではない)ほったゆみ氏、彼ら彼女らについても思いを馳せました。


ところでその前に、「ヒカルの碁」って1998年(12月)開始の漫画なんだよ!
あれがもう10周年だなんて、時の流れに呆然だ。
以前、猪瀬直樹が「自分の生まれる前の作品を『古典』と定義し、積極的に読もう」と言っていたが、漫画を本格的に好きで読み始めるのが小学校高学年ぐらいからとしたら、もうこれも古典となりつつある。いや古典扱いならいいが、そのせいで名前も知らず読んでもいない子供がいるのかもしれない。
がぜん、紹介文で興味をもって読んでもらうようにせねば…というやる気が出てくる。むろん大人の未読読者にも。

あらすじ

本当は自分は、長編のあらすじを要約し、紹介するのも得意で好きなのだが、論のほうに力を入れるため借り物で済ます。
これ、逆に本気の時の構えです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/hikaru/

小学生のヒカルはある日偶然、祖父の家の蔵で古い碁盤を見つけた。碁盤に残る何かのしみ。それを見つけた瞬間、誰とも知れぬ人の声が聞こえる。その声は碁盤に宿っていた平安時代の天才棋士・藤原佐為(ふじわらのさい)の霊がヒカルの意識に入りこみ、語りかけてきたものだった。
 驚くヒカルに佐為は自らの身の上を語る。もともと大君の囲碁指南役をしていたこと、競争相手である別の指南役に謀られて入水するのやむなきに至ったこと、その後数百年をへた江戸時代に秀策という少年に乗り移って、再びこの世で碁を打つことができたこと。しかし、いまなぜヒカルに引き寄せられたのか、その理由は佐為にもわからない。
 ある日ヒカルは、たまには佐為に碁を打たせてやろうと、碁会所の門をくぐる。そこで二人が出会ったのはプロ並みの囲碁の実力を持つという少年・塔矢アキラだった。
 はじめ囲碁に無関心なヒカルだったが、佐為の囲碁への情熱とアキラの存在が、ヒカルの囲碁の才能をじょじょに目覚めさせていく・・・

平成流「進化型ドラえもんオバQ

この「藤原佐為」という幽霊はヒカルにしか見えず、囲碁の指南役を務めることになる。もう既にだれか指摘していると思うけど…というか読んでれば気づくけど、この平安貴族の幽霊はドラ、オバQ、ハットリ、チンプイ、怪物くん…といった藤子不二雄のかの黄金パターンに位置づけられる存在ですね。日常の中に闖入し、住み着いて、平和で退屈な日常にまどろんでいたふつうの主人公に夢と驚きを与える存在。
この藤子系の流れに、ダイレクトに「うる星やつら」を後継者と位置づける人も多いらしいが、そっちが正しいのかはひとまず措く。


そこで本当に面白いのは、この佐為の人物造形だ。
絵としての佐為は小畑健の画力もあり、ジャンプ史に残るほどのハンサムガイなのだが、囲碁の時をのぞいては、藤子いそうろうキャラの誰よりも子どもっぽく、ワガママなんだよ(笑)。ヒカルにとりついた、実体の無い幽霊だから家を追い出されたりしないため、遠慮がないのかもしれない(笑)。もちろんそのワガママさは碁への情熱にあるのだが、その他でも昔の幽霊のお約束として近代文明に驚いたり、小学生のヒカルと五分の喧嘩をする情景は千両役者のボケぶりである。
それでまた、小畑の画力はこの、ボケる佐為を描くときは非常にいいデフォルメを施し極めて愛嬌ある存在に仕立てた。
作中でヒカルが失礼にも佐為を「犬っコロみたいなヤツ」と表現しているが、実際にあの素直な喜怒哀楽と、ヒカルへの甘えぶりはペットの子犬に非常に近い。同時に囲碁では師匠であり、父親母親だったりもするのだが。


今回、まとめて単行本を読み直したところ、ほったゆみのおまけ漫画「ネームの日々」が原作者と作画家の関係、創作過程を描いた極めて貴重な資料となっていることに気づいたのだが、こういうほったの回想がある。


(単行本のおまけまんがの文字起こしページ)
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/4689/name1.html

15 ネームの日々 (6巻収録)


第34局トビラで、
小畑先生が描かれた佐為。
両足のウラ見せてカワイイのカワイクないのって。
カワイイんだってば。
それで私、すぐ第44局のネームで
ゴロンとひっくり返った佐為を
描いてしまいました。
あの佐為とこの佐為は、
だから、つながっているんです。






また、第48局で小畑先生が描かれた
院生師範に泣きついている佐為。
これネームの10倍くらいカワイクなってます。
そんな佐為を見て、また私がカワイイ佐為を
描きたくなる。
それをまた小畑先生が、何倍もカワイクして
返してこられる。
こんなふうに”カワイイ佐為”は、
スクスクと育っていってしまいます。




このほかにも「小畑健がキャラクターの姿をこう描いてくれたので、それによってキャラクターの性格、筋書きが変わっていった」という話がけっこう出てくる、なるほどなるほど。そういえば力石徹のころから、そういうことはあるんだっけ。


ジャンプ的成長との両立

そんな佐為に引きずられるようにして、ヒカルは碁の世界に入り、ライバル・塔矢アキラや院生(碁のプロ予備軍)たちと競い合うことによって成長していく。

ヒカルは「佐為のヤツが打ちたいとか言うから、打たせてやる」というスタンスだったが、彼らの情熱と技術を目の当たりにして、目的も夢もなくすごしていた日常(って小学生だからそれがふつうだが)から抜け出て、また佐為の指示という超能力も封印して、己の実力で勝負し、佐為も周囲も目を見張る成長を見せる・・・という流れだ。
特に、佐為との別れ(後述)を経験してからは、彼の分の思いや誇りを背負った若獅子となっていく。

よく「ドラえもんは子どもに依存心を植えつけるからダメだ」てな批判があるが、そもそも藤子漫画はどこからでも読める一話完結を本道としており、その際にはキャラクターを変える「成長」も排除されるのはスヌーピーとかと同じようにジャンルの違いに過ぎない。そして藤子漫画も、その心配の無い最終回ではしばしば印象的な成長が描かれている。
だから、上下があるという意味では全く無いのだが、それでもジャンルの違いとしてヒカルの碁は、藤子漫画的な構造を持ちつつも、それと異なる「少年の成長」がうまく描かれた作品であることは賛同してもらえるだろう。
ほったゆみが、実際に子育てをして子どもの成長を味わう主婦作家であることも影響しているのかもしれない(そういえば、少年の成長−−何しろ社会的にもプロとして経済的に自立し、高校進学もしないという大きな決断をする−−にとまどう母親もいい味を出していたっけ)。
また、塔矢アキラは普段は冷静で折り目正しいサラブレッドなのだが、ヒカルを相手にした時だけムキになり、意地の張り合いや感情むき出しのお茶目な部分も見せる。これが逆に、常にゴーマンだったり感情的な人物造形より印象に残るし、その対象であるヒカルの位置づけにも影響するわけで、これもよく使われる手法ではあるが非常にその完成度は高い。

盤上の一手を検討しながら、両者の言い合いが始まりそうになると、周囲が「まーた例のヤツが始まった」という感じで、無言で一斉にガタガタと回りから離れていく描写とか、「若先生(アキラ)とヒカル君じゃ格が違うでしょ」と応援団が言うと、なぜか「彼の実力は僕が一番知っています!」とアキラが怒り出すところなんて実に落語的で面白い。
 

以前、カール・ゴッチビル・ロビンソンの挿話を語ったときに紹介した「碁仇は にくさも憎し 懐かしし」ってやつですね。
( http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070904#p1 参照)


インターネット(匿名性)を描く漫画の傑作

この作品は、ヒカルの成長過程(シロート→院生→プロ)を描くことで漫画としてのストーリー進行には骨太の流れがあるのだが、それと平行して第一部を支えていたのが、「ヒカルには、既に名人級の実力を持つ”別人格”の佐為がいる。彼が打つときは既に世界最強の実力なのに、普段はそれにまったく及ばない棋力。第三者から見れば、この同一人物の実力の差が全くの不可解、謎」というサスペンスがある。読者は理由が分かっているのに、他の人は全く分からないわけで。
特に、ヒカルが最初のように碁に全く興味がなく佐為まかせなら問題ないが、周りの棋士たちの熱さに影響され、ヒカルが「自分で打ちたい」と実際に囲碁の世界に入ってしまうと「佐為が打っちゃったらズルになる」という問題も出てくる。
最初に読み始めたころは読み手のこっちもその問題に気づいて「うわー、これは設定失敗したんと違うか?どう収拾つけるんだよ」と思ったのだが、そこで実にもう、時と人と作品がめぐり合う奇跡が生まれる。
それが「インターネット囲碁」だ。


さきほど述べたように、この作品は1998年に始まった。マイクロソフトもこの時、「Win98」をリリースしている。
個人的なことをいうなら、自分がインターネットを自由に使える環境になったのはこの前年の1997年だが(笑)、そのときはまだ、ダイヤルアップで深夜のテレホーダイに頼る時代でしたね。
連載が始まって少ししてからだから2000年ごろだろうか、まだ作中でも「インターネットは〜〜というものなんだ」という説明が入っているし、ヒカルを始めキャラクターの大多数もパソコンを持たず、日常で利用もしていない様子だ。ヒカルは「ネット喫茶」という珍しい店(当時)に、知り合いのコネでただで入室させてもらってネット囲碁を試みる。


しかし、ここで「インターネット囲碁」が出てくるのは、描かれてみれば本当にここにしかない、という、囲碁でいう「絶妙の一手」だった。


なにしろ藤原佐為は、ここでなら実体の無いことを気にせず、思う存分ハンドルネーム「Sai」として碁を打てる(※実体が無いので、「佐為が碁を打つ」というのは、佐為が口頭でいう「15の六」とかいう石をヒカルが置く、の意)。そしてそのインターネット囲碁は原則ギャラリーが見られるので、名人級の実力を見せる佐為=Saiの噂はそれこそ世界規模で広まっていく。院生、プロ棋士も倒しただけでなく、前述のヒカルの最大のライバル・塔矢アキラにも勝利する。

しかし、正体が分からないため、幾人か、佐為バージョンのヒカルの強さを知る人は「Saiはヒカルでは?」「少なくともSaiとヒカルにはつながりがあるのでは?」との疑問を抱いていく。ヒカルはそのつどごまかしていくが、本人も佐為から習っている以上どうしても出てくる棋風の類似や、うっかりヒカルのもらした一言がわざわいして・・・というように話は広がっていく。


インターネットが「匿名」でありつつ、広く第三者に公開されているという性質を、ここまでエンターテインメントの中で生かした作品を、いまだに小生は知らない。「銀魂」で電車男のパロディをやった時ぐらいか(笑)。インターネットが社会に、本格的に浸透しはじめた時代だからこそ、新鮮な驚きをもって作り手も描くことができたのかもしれない。



さっき言った「Saiの正体は誰だ?ヒカルじゃないのか?」という疑問のもたれ方、あるいは「ああ、やっぱり違うか」というそういう紆余曲折も、かなり計算し抜かれた(ちょっとご都合主義もないではないが)伏線と構成によってストーリーが作られている。最初に自分が「『ヒカルの碁』は相当傑作かもしれないぞ?」と思ったのはこの部分だったような気がする。
そして、一度ヒカルはこの騒ぎの後、インターネット囲碁から足を洗うのだが、再びクライマックスでこの伏線が復活するのだ。
それも塔矢アキラの父親で、日本の囲碁界の頂点に立つ塔矢行洋名人の相手として!!!


この作品は人気漫画としてガイドブックも出ており、ほったゆみは毎巻におまけまんがを描いた関係で比較的創作の裏話は分かっているほうなのだが、この「インターネット囲碁によって佐為がこの世に実体を持つ」というのは当初の構想にあったのかどうかを聞いてみたい。シミュレーションしても、この作品からインターネットを除いてストーリーを再構成するのは不可能だと思うのだが、だが!
もし話作りの途中でネットの挿話を入れたのなら、そのアドリブ性に、
最初からの構想なら、準備段階は1998年よりさらに遡るだろうから、そこでこのインターネットの特性を十分に生かした物語を作った先見性に、いずれにせよ脱帽せざるを得ない。


【続き】

天才、秀才、凡才、奇才・・・・

ヒカルが院生試験からプロになるまで、いやその前のシロート時代も、多くの棋士たちがライバル、脇役として登場する。
最初に「主人公Aと、その宿命のライバルB」を設定してしまうと、その脇役陣にまで光が当たらないことも多いのだが、佐為とヒカルの二重性などもあり、うまくまとめている。
また、碁というのが一種の頭脳戦であることから内面を描くことが必然である、ということもあるのだろう。
天才(ボスキャラ)の塔矢行洋名人は、さすがに威厳を感じさせ、ヒカルではなく佐為のライバルとして完璧だし、負けた後は自分の約束を守り引退。そしてその後、逆にプロのしがらみから離れた「一人の自由な、そして最強の碁打ち」として世界を飛び回り活躍する・・・というのは、実は格闘技的にも”競技”とは何ぞや?という話につながるものがある。だがそれは後日に。

もう一人のボスキャラ(変形の「仙人」でもあるのだが)の桑原本因坊は、逆に頂点に位置するにも関わらず、見る角度からすればセコイような心理戦、盤外戦を仕掛けて、自分の地位を守ることに執念をあらわにするが、それが「若さ」や「情熱」に通じ、かっこ悪いのがカッコいいという人になる(この造形は、ヒカルの碁より前に始まった将棋漫画「月下の棋士」の大原名人に通じる)。



そして、そういうヒカルの上に位置する名人たちとは別に
囲碁将棋が小学生でもプロになり得る、極めて特殊な業界である点から「天才と凡才」というテーマも描きやすい。
このテーマは「アマデウス」でひとつの極みに達し、あさのあつこ「バッテリー」なんかでもうまくいかされた。前述の「月下の棋士」にも主人公との試合を最後に田舎に返った平凡な棋士がいたし、まさに最新号の「三月のライオン」も、めちゃくちゃ弱い年寄りの棋士のエピソードが出てきた。さらに広げれば「はじめの一歩」にも……ま、たくさんありますよね。こういう勝負ごとを描く漫画の中で、ことに主人公が成長する中で「追い抜かれるもの、はじめからかなわないものが、それでも主人公に全身全霊で立ち向かう」という話は、別に必要なわけではないが(ヤムチャのように(笑)、あっさり追い抜かれたことにしちゃったって別にかまわない)、個人的には好きだ。

そういう点で院生試験で夢破れた椿、ヒカルのいい兄貴分として面倒を何くれと見てあげ、周囲からは「ライバル強くしてどうする!」と言われつつプロの座を争った和谷も興味深いが、その和谷とヒカルのさらに保護者的な存在だった伊角慎一郎というキャラクターも印象深い。
実力は「ヒカルにかなわない」というほどでもなく、かなり強い棋士なのだが、真面目すぎる分だけプッレッシャーに弱い、精神面のモロさがある。

彼はヒカルの実力を見抜いた分、対戦で追い詰められ、うっかり二度打ち(「ハガシ」という。ちょっとでも碁石から手が離れたら、もう動かしちゃだめなんだそうだ)の反則を犯す。そしてほんの少し躊躇してからその反則を認め、負けを宣言してその後は崩れていくのだが、面白いのはヒカルのほうも「これ反則?→指摘すれば反則勝ち?」と迷い、その迷いを自ら恥じる。「自力で勝とうと思えないのは、俺が弱いからだ!勝ちを俺は拾おうとした!」とね。
盤を離れれば親しい間柄だということもあり、このへんの心理的なアヤと転落の軌跡は見ていてもつらいものがあるが、その後の彼が大復活する時にはその分のカタルシスがある。
実はあくまでもサブキャラの伊角って人のことを詳しく書いたのには理由がある。
コミックスの何巻か忘れたがジャンプでおなじみの企画「キャラクター人気投票」の結果が紹介されていたのだが、何と彼が1位、しかもホントに桁が違う投票数を集めてのぶっちぎり1位だったのだ(笑)。いや、ほんとにこいつ脇役だぜ。主人公以外が1位になることはままあるけど、あの投票数は度を越えていた。
それで当時「ヒカルの碁」と、伊角さんが好きだった女性ファン?のご機嫌をとっておこうと思ったしだいだ(笑)。伊角さんの画像はコミックスから取り忘れたので、検索して見つけた。

別れ、後悔、そして成長。

ヒカルはこういうふうにライバル、友人(囲碁以外にも、学校にもいる)、仰ぎ見る達人…などにめぐまれ、見る間に成長を遂げていく。そして佐為のほうも、前述したインターネット囲碁を通じて塔矢行洋上との、至上の一戦を戦って死闘の果てに勝利する。その敗北で塔矢行洋はプロを引退するものの、さらに恐ろしい「自由な一介のスーパー碁打ち」になってしまった(笑)というのは述べたとおりだ。


しかし、そういうルールだ…ということは明示されないのだが、その「至上の一戦」を打ったこと、そしてそれをヒカルが目撃し、自身をさらに成長させたことが、皮肉にも佐為がこの世に(霊として)とどまり、碁を打つ役割を終えさせるのである。


この後が、ジャンプ史上、いや日本漫画史上でも屈指の悲しく美しい別れ(それこそ一部藤子漫画の最終回、パトラッシュやネロといった日本名作劇場系の別れに匹敵する)の場面となる。、そして、それは単なる別れだけではなく、壮大な最後のテーマに続くのだが・・・・・・


こいのぼりたなびく、五月五日だと作中にはある。


ヒカルにとってはある日、突然。
佐為にとっては、とうとうやってきた来るべき日。


佐為は上にあるように、塔矢行洋との一戦で自分の役目は終わったことを直感的に悟り、ヒカルと共に少しでも打ちたいと焦るのだが、ヒカルにとってみればこれからもいつでも打てるのに、ことあるごとに囲碁をせっつく佐為は単なるわがままにしか見えない。
その日もつかれて帰宅したヒカルは、佐為にせっつかれあくびを堪えながら、何の気なしに碁を打ち始めた。
だが、佐為はその後を打ちながら、少しずつ目の前の光景が薄れていく。

「ねえ、ヒカル、あれ・・ 私の声、届いてる・・?」
「ヒカル、楽しかっ・・・・・・」

ヒカルが気づいた時、佐為はいない。
そしてその後、ある一回だけの例外を除き、再び二人は会うことも、言葉を交わすこともなかった。



藤子漫画の最終回や、名作劇場の最終回にまさるとも劣らない哀しみがこのエピソードに漂うのは、実際の別れというものも往々にして、何の前触れもなく起きるものだからだろう。それまでずっと身近にいる人に対しては、だれもが往々にしてその大切さを認識せず邪険にしがちだ。そしていなくなって、永遠に別れて初めて後悔する。パトラッシュ(※…じゃないや、ラスカルだ!コメント欄より)とロックリバーで別れるのも、ジャイアンに勝った様子を見届けてもらい別れるのも、名残を惜しめるという点ではヒカルよりずっと幸せだったのかもしれない。


たしか城山三郎の「賢人たちの世」(もしくは「粗にして野だが卑ではない」かも)だったと思うが、ある政治家だが財界人が突然、長年連れ添った奥さんを失った時の話がある。彼はその日の朝、奥さんの「いってらっしゃい」に生返事したことを悔いて「まだ、俺はあいさつをしてないんだ」と泣き崩れる。
この種の「突然の別れの後、今までほったらかしだったことを悔いる」という話はもっとプリミティブなものも含めれば「泣ける2ちゃんねる」にも亜種のようなショートストーリーはたくさんあるのだが、まずこの時の小畑健の絵、その描写力が本当に神がかっている。
永遠につづくような日常を疑わないヒカル、別れを予感する佐為の断層。そして、自分たちをつないだ囲碁を打ちながら、少しずつ消えていく佐為。そして、無−−−−−−−−−−−−−−−。


これはもちろん、たとえば肉親、愛する人との死別の比喩というか、「仲間だった幽霊が消えていく」という描き方で、少年漫画的にそれを疑似体験させたということもできる。戦場で「あばよ!」と劇的な戦死するとか、重い病気で遺言と愁嘆場を経て力尽きる−といった別れ方というのは少年少女漫画で毎週のように(笑)起きているが、こういう感じで、ある日、別れが来るという描き方はめずらしい。

余談だが
昨日、民主党の副大統領候補に選ばれたバイデン氏も子どもを交通事故で失ったことがあり「愛するものに愛していると十分言えなかったことが生涯の悔いだ」と語っている。
http://mainichi.jp/select/world/news/20080824ddm007030073000c.html

…「直言」は悲劇の産物でもある。上院議員に初当選してから約1カ月後、妻と子供3人が交通事故に遭い、妻と長女(当時1歳)を一度に亡くした。「愛する者に自分が愛していると伝える」ことが十分にできず、「何も言わずに物事を済ませてはいけない」ことを学んだ。

えーとこれを読んでいる君たち、お盆には帰省されましたか。
帰省を出来なかった人は今日、用はなくてもたまには実家にお電話し、声を聞かせてあげてみてはどうか。それもひとつの親孝行というもんですよ。

おっと話がそれまくった。大体大きなお世話ってもんだな(笑)



まあそういうわけで、この佐為とヒカルの別れる挿話はそれ自体で凄いのだが、実はそれだけでない。そこからの悔恨と救済が、そのまま、最後までを貫く大テーマにつながるからこそ凄みがあるのだ。



「生きている」ということは

ヒカルは突然姿を消した佐為を探す中で、かつて江戸時代に佐為が取り付き、彼の名前で碁を打った本因坊秀策のの棋譜をあらためて見直し、ひとつの事実に気づく。それは本因坊秀策のは碁の才に長けていたからこそ、自らの碁を封印し、史上稀な天才である佐為の碁を代わりに打っていたということに。ヒカルは「俺は碁を知らなかったから、佐為のような打ち手を押しのけて『自分が打ちたい』と言い出しちゃったんだ!俺じゃなく佐為に打たせるべきだったんだ!!」

単なる友人、仲間としての悔いではなく、一人の棋士としての悔いも加わり(その大きさは想像もつかない)、一時はプロ棋士の道も断念しかけるヒカル。しかし、彼を前述の塔矢アキラや和谷、伊角慎一郎がライバルとして立ち上がらせようとする。
その中で迷いや後悔を抱えながら碁を打つ中で、ヒカルは気づくのだ。
「自分が打つ、この碁の中にこそ、佐為はいるんだ」


・・・・・・・ここでまた余談に移る。
シャーロック・ホームズ赤毛連盟」にて、名推理に脱帽したワトソンがホームズを賞賛すると、彼は照れ隠しのようにこう答える。
http://www.alz.jp/221b/holmes/redh.html
http://www.221b.jp/sa/redh-9.html

“And you are a benefactor of the race,” said I.
He shrugged his shoulders. “Well, perhaps, after all, it is of some little use,” he remarked. “‘L’homme c’est rien–l’oeuvre c’est tout,’ as Gustave Flaubert wrote to George Sand.”

「そして君は人類に貢献している」と、私は言った。
彼は肩をすくめた。
「まぁ、多分、結局 …多少何かの役に立っているか」 彼は言った。
「『人間は無 - 仕事がすべて』 。グスタフ・フロベールがジョージ・サンドに書いた言葉だが」

(※一般的表記ではギュスターヴ・フロウベール&ジョルジュ・サンド


人は生まれて、70年だか80年だか生きて死んでいく。幽霊として残っても千数百年。
だが、彼が残したものが、その仕事が、その業績が、その教えが他の人々によって受け継がれていく時、彼ははたして死んでいるのだろうか?
このブログの本道たる格闘技の話で言えば、例えば、下のこの人はまだ生きている、と断言できる。

カール・ゴッチ一周忌特別企画
“The God”Karl Gotch 神様がいた場所。

UWF道場跡地で再会
藤原喜明×前田日明 「ゴッチイズム」。

http://www.eastpress.co.jp/

実際、ヒカルは「俺の碁の中に佐為がいる」と悟った後、塔矢アキラと激戦を行い、その夜一度だけ夢の中で佐為と再開する。そして言葉は交わさないが、佐為が常に持っていた扇子を譲られるのだ。
ベッドで目を覚ましたヒカルが流す涙は、たしかに悲しいものの、それまでの涙ではない。


そして囲碁は続き、歴史はつづく。

ヒカルはその後、アキラや新メンバーの社とともに、日韓中の対抗戦に挑むが、そのとき、韓国のライバルに「俺が碁を打つ理由はー−−」と語る場面がある。

そのヒカルの理由を聞き、韓国のライバルと、中国のチーム監督はそれぞれ、さらにある答えを返していく。


その場面のコマも私は用意しているのだが・・・・これまで相当傍若無人に画像を張った私だが(笑)、このコマたちはさすがに張るのに躊躇し、あきらめた。実際に読んで、確認していただきたい(横着して「いきなり最終回」はしないよーに。きちんと最初からネ)。


ただ、ひとつ言えるのは、これはたしかに普遍的な話ではあるが、しかしそれでもなお、1000年以上の長きにわたり人々が熱中し、そして知恵を絞りつづけてきた「碁」を題材にしての一言だからこそ心に、より響くのだ。
私がhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20050727#p5で「ヒストリエ」について少し書いたような、そういうジャンルに広くいえばつながっていくかもしれない。



「少年ジャンプ」というよくも悪くも”ザ・メジャー”たる雑誌で一時は四番バッターを務め、健全明朗なお話作りをしながら(たとえばPTAが文句をつけるような場所はほとんど無い)、これだけの壮大なテーマの元に話を終えることが出来る。そういう点でも時代と人が出会った、稀有な良作だったといえるだろう。この夏(秋でもいいんだけど、)10周年を記念して一読をお薦めします。


【本編評論おわり】
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

余談その1

ほったゆみは「ネームの日々」と自称するように、梶原一騎が書いたようなシナリオとか原作小説のような描き方ではなく、「ネーム」の形でこの作品の原作を書いている。
映画で言えば、「この場面はこのように撮る」というカメラアングルの指示も彼女がやっているということですね。
もっともそうとうに小畑氏には変更の権限があり、そのたんびにほったが大喜びしていたそうだから問題は無いのだろうが、やりやすいのかやりにくいのか、小畑氏がもし全面的に構成(カメラアングル)を決めていたら作品はどうかわっていったのか、イラストでは天才としての評価も固まった小畑氏だが、コマ構成などそちらの部分の才能はどうなのかーーーを知りたいと思ったのでした。


【付記】ほったの文章を読み直すと、コマ構成の権限はほとんど小畑氏に委譲しているんですね。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/4689/name1.html

私のネームのコマ割りは、
単純というか単調というか。
単調なコマ割りのが、私には便利。
「直し」に対応しやすいんです。
(略)
最終的なコマ割りの工夫は、
小畑先生におまかせ。

余談その2


以前、コンピュータ将棋や将棋のことをウダウダと書いたとき「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という用語を知った。
( http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20070323#p2も参照 )

オセロですら、コンピューターは人間にほぼ無敵となりつつあるものの、必勝手の解析はまだなされていない。
それ以上に複雑な囲碁においてはまだまだ完全解析==ヒカルの碁でいう「神の一手」は先になりそうだが、ちょっとヒカルの碁に出てきた話で気になるのは「コミ」の話。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E7%A2%81

囲碁では先番の黒が有利であり、その分のハンディとして「コミ」が設定されている。多くの場合コミは6目半とされており、この分を黒地から差し引いて計算する。

ところがこの6目半というのは、棋院が「まあ、黒(先手)は6目半ぐらい有利だろう」と感じて大まかに決めただけで、根拠は無いらしく、プロ棋士の間でも「5ぐらいが適当」「いやいや七目でも黒のほうがいい」と意見が分かれているという。「二人零和ナントカ」のゲームでこれだけ先・後に有利不利の差があるのか。その差とは神ならぬ人間だからうまれるものなのか、それとも一手一手解析し、すべての碁の謎が明らかになると「やっぱり黒が有利でした。その差はXX目です」と確定するのだろうか。


そういう、数学的な意味での囲碁の世界も覗いてみたいなと思いました。

余談3「書評十番勝負」とは私が時々思いたって、本格的に1エントリーで一冊の本、一人の作者について語ったもので気に入っているものを挙げたもので【書評十番勝負】で日記内を検索(【】も含めて)すると出てくるレーベルです。今年から始まったのですが、日妙にも数年前のやつにも気に入っているものにはおのレーベルをつけてしまい、十番で治まるかどうかも微妙です(笑)

今のところの一覧がこれ↓
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/searchdiary?word=%a1%da%bd%f1%c9%be%bd%bd%c8%d6%be%a1%c9%e9%a1%db
自分でも、ちょっとジャンルがばらばらすぎると思うのですが、まあもし興味があればどうぞ。
追記:現在は「長文書評」というタグを作っており、そちらで見てもらうほうが早いです。)

余談その4 コメント欄より

ヒルネスキー 2013/04/28 11:48
二次創作ですが、こちらもお薦めです。

IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】
http://novel.syosetu.org/6922/