ナンシー関絡みでご紹介しよう。
表題の論文は、かの雑誌「世界」に掲載された。掲載誌の性質ゆえかなんなのか、発表当時は「(岩波の意向を受けた)左派的2ちゃんねる批判」として反論が多々その2chに載ったと記憶している。しかし、他の論文も通読すれば決してそんなことはないと再評価され得るはずだ。
- 作者: 北田暁大
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2005/02/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 6人 クリック: 202回
- この商品を含むブログ (326件) を見る
この本の第4章「ポスト八〇年代のゾンビたち」では、大きくナンシー関を取り上げている。
表題のゾンビたち、の側ではなく、それをある豪を背負いつつ撃つ側として。
小見出しを引用しよう。
1.シニシズムの変容とナンシー関
ナンシーのためらい
純粋テレビの弛緩
感動の全体主義
受け手=視聴者共同体への批判
純粋テレビ批判という困難に挑む
八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
反時代的思想家としてのナンシー
これは大月隆寛もつとに指摘していたが、ナンシーは正しく80年代価値相対主義、面白主義が産んだ、最良の部分の正統継承者で、しかも、それを利用して80年代の残滓を駆逐しようとしていた。
あたかも植民地からの独立闘争、建国運動の担い手が、宗主国の最高の教育を受けた植民地エリートであったように。その皮肉を、北田氏も社会学的に見据えている。そして、それが持つ限界も独自に分析しているのが、一歩大月氏の立ち位置から踏み込んだところだ。
ナンシー関や2chに注目すべきである、という在野の民俗学者・大月氏の業績を社会学者が引き取って発展させると言うのはある種の理想状態かもしれない(笑)
さて、そのシニシズムがギョーカイ批判となり、それは戦後民主主義批判と結びついたと言うのが北田氏の言説だ。ナンシー関は、2chの中でも非常にリスペクトされているという事実もある(同書228Pでは、その事実に触れ、ナンシー逝去時の2ch上のパスティッシュまで掲載している)。
小見出しを、今度は抜粋して。
「巨大な内輪空間」の誕生
内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
小林よしのりの軌跡−市民主義批判
「思想なき思想」の再現前
このへんがたしか、批判を浴びたんだっけ。
値段も手ごろだし、内容そのものは事例も具体的でなかなか読みやすいのだが、大学の目を気にして社会学論文を目指したのか、なんとも文章はあちこちひっかかる。少なくとも、一般読書子の興味を掴んで離さない、という水準とは、ほど遠い。
こんな文章↓
・・・世界と「この私」は無媒介に直結する。本人が意識的にアイロニカルであろうとしているわけではないとしても、実存にロマン的対象を従属させるその振舞いは、思想と立場の密接な関係を前提とする観点からみたとき、アイロニカルなものと映るだろう(226P)
敢えてしなかったのか、そういう文章を書く能力がないのかは分からないが、可能ならこのテーマをもっと平易な・・・いや、これも社会学者の論文だと考えれば平易ではあるのだが、もっと「色気のある」文章にしてほしいと思う。むしろ語り下ろしのほうがいいかも。
あ、キーワードで見るとこの人、評判の「責任と正義」の著者でもあるんだね。
ところで衝撃の事実だが、この人は前歴的にいうと「元ローディスト」だと自分で告白している。(ローディストの意味が判らない人は調べないでよろしい)。元ブントだとか元革マルだなんてのは腐るほどいるが、ついに大学に元ローディストがここまで入り込むか。嗚呼。