週刊文春の書評コーナーには「読書日記」があり、朝井リョウ、酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川浩満、そして橋本愛が交代で執筆している。
その橋本愛氏がこの前、批判を受けたという。
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…で、この騒動を受けた後の「読書日記」リレー当番が回り、橋本氏が描いたのが激烈な”自己批判文”。
これが冒頭。
そして締めくくりは
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
(略)
「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 19食事をして元気を取り戻した。
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なお「目からウロコが落ちる」は、この故事によるものである(※民明書房風だが、ホントにほんと)
というふうな「回心」ならよかったね、良かったね、であるが…
歴史はまた、別の人間への連想の方向性も与える……。
文化大革命発生直後の1966年4月14日、全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き尽くすべきで少しの価値も無い」とする「焚書」発言を行った[17]。既に呉晗・廖沫沙らが打倒されるなか自身を守るための自己批判であったが、知識人の思想改造の成功例として取り上げられ毛沢東の庇護を受けた。毛沢東や江青らの詩を賛美し、批林批孔運動に乗り、著書『李白と杜甫』で杜甫を貶め、毛沢東が好きな李白を讃えた[18]。また、当時の政策を褒める詩を多く発表した。しかし四人組が逮捕されると一転して彼らを批判する詩を発表した。これら文革期の言動が彼全体の評価に影響している。
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この当時、リアルタイムで文革を批判した、日本では超少数派に属する知識人・福田恆存は「郭沫若氏の心中を想ふ」 という一文を書いた。
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「それにしても郭氏の言葉はまことに激烈凄惨なもので。拷問の鬼と思はれてゐたかつての日本の特高も、共産主義転向者からこれほど感激的な誓約書を手に入れることは出来なかつたであらう。」
この転向声明は二つの解釈ができる、と福田恆存は書いた。ひとつは「内心の真実の言」として受け取ること、他は「強ひられた発した自棄絶望の聲」として聞くこと。もし前者なら、「かくの如くあり得べからざる心理的変化が実際に起つたと本人にまで錯覚させる恐怖政治特有の洗脳を無視する譯には行かない」。
思想家の著作は著者のものであると同時に読者のものである、と福田恆存はいふ。
「自作の焼却を命じるのは、儒家を坑(あな)に埋め焚書を命じた秦の始皇帝以上の暴挙であり、思ひあがりの極致と言ふべきである。始皇帝は単に自分の思想に反する「敵」を滅ぼさうとしただけのことだが、郭氏は自分が影響を与へ、自分を支持してきた「身方」を冷酷に裏切つたからだ」。
ニか月後、郭沫若はAA作家緊急会議における演説で、福田恆存を激しく非難した。
「私はこの道徳高邁な先生が“百%自由”をもつてゐることを承認する。しかし、遺憾なのはデマを飛ばし、中傷を行うことの“百%自由”だといふことであり、みずからの愚昧無知を暴露する百%の自由であり、反人民、反社会主義の百%自由であることだ。」
「自己批判」を行つた郭沫若はその後、毛沢東を賛美する詩を書き、毛沢東から有難い「保護命令」(郭沫若には手を出すな!)を頂戴した。毛沢東が死んで四人組が逮捕されると、今度は一転して江青らを批判する詩を発表して激動期を生き延び、1978年に北京で没した。