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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

性関係(の表現)はなぜ「他者危害の原則」の例外になるのだろうか?

はてな匿名ダイアリー(増田)を直接見に行く習慣はなく、ホットエントリー経由で読むのがもっぱらだけど、この記事は出色の出来でした。
ブクマでも議論が多いので合わせて読んでもらいたい。

anond.hatelabo.jp
[B! 増田] じゃあ大真面目に公共の福祉と表現の自由の話をするよ



そこから派生の感想。

わいせつな文書、図画を作ったり売ったりすると罪になるということは大抵の人が知っている。だが、この法律が何を目的にしているのかは案外と知られていない。

刑法のこの条文が保護しているのは、性的な物を見たくない人の権利……ではない。

では何を保護しているか、というと。判例上は”最低限の性道徳”である。(この解釈については流石に時代錯誤を指摘する声は複数あるし、増田もおかしいと思うが前提として現時点ではそうなっている)

わいせつ図画の判例では比較的有名な(高校の公民の教科書にも載っているかもしれない)チャタレー事件で「社会の平均ではなく、あくまで最低限」という解釈が出され、、四畳半襖の下張事件で「その時代に合わせた性道徳」を基準にすることになった。


ここの所、以前から自問自答する点であった。
なんとかの広告やら、かんとかのVチューバ―の衣装やらは、まあ許容不許容の論争がある。

だが、たとえば本当に何も着ないで全裸でまちなかを歩いたり、公衆のいる、不特定多数に見られる場所、というかそもそも他人の見ている前で性交渉(異性間でも同性間でも、である。当然ながら)に及ぶような行為は、世界的・歴史的にだいたいは違法行為であり、取り締まりの対象になる。 
※いろんな例外の事象を挙げることはもちろんできる。わかってるが略す。


上の増田では別の言葉を使ってるが、そもそも犯罪取り締まり、社会が個人の活動を規制するときは、おおかた「他者危害の原則」で読みなおせば片が付く。殺人傷害は他者(個人)の体を傷つけ、窃盗横領は他者(個人)の財産を毀損する。
ほぼ、だいたいはそうだ。

しかし、
「全裸でまちなかを歩く」「まちなかで相手と(同意して)性交渉に及ぶ」は、おそらく「他者危害」したりはしない。
公衆、不特定多数……というかそもそも他人の見ている中で性交渉に及ぶ行為は、直接的には他者(個々人)に危害を与えない。


「そういうのを見ると動揺する、不愉快になる」も当然あろうが(うれしくなる、という人はこの際置いておく)、上の増田の名言どおりに

そもそも表現に限らず自由権の本質は『他者を不快にして我慢させる権利』

いかさまさよう。
「図書館の大魔術師」でも出てきた。

図書館の大魔術師」で表現規制ヘイト本規制の是非を議論(マリガド編)

m-dojo.hatenadiary.com



では再度。じゃあなんでわいせつにつながる、全裸やら性交渉の光景は公然ではいけないのか?

…これに関しては考えたところ、「これを言っちゃあおしまい」な話だし、いろいろと完ぺきではないし・・だが。クイズの「お助けボタン」や救命脱出パラシュート、あるいは牢獄に閉じ込めたデビルリバースや正月仮面のように「最後の最後にはこれに頼ろう!」、というアレを持ち出すしかない。

つまり
「(文化的)伝統」とか「本能(人間集団の、生物的な…なんというべきかな)」


いやわかってるねんで、とくにわいせつで文化的伝統を持ち出したら、女性の髪は男の情欲を刺激するから隠せ、って文化から、風呂では混浴が当たり前の文化も、女性の胸は露出しても当たり前の文化もある。「下着」が見えるのがわいせつかどうかも時代や場所によって全然違うらしいし。

本能にいたっては、あるかないかも、それがどの行為かもわからない。


しかしそれでも「四捨五入」したうえで「最低限」のところを見てみると、なぜか歴史上、地理上の差を超えて、大かたは一糸まとわぬ全裸や、性の営みに関しては「ふつうはまあ、人目についちゃいけないよね」というルールを持つところが多かった。逆に人間集団の、根本的な何かが背後になかったら、こんなに広い範囲でそれがルールである理由がわからん。
ひょっとしたらヒト科は原始のころから、交尾の際はあまり周りに仲間がいない所で行う、的な生物的習性があるのではないか(サル学的にはどうだったっけ)…いや根拠はない


ただ伝統的な禁止のルール・掟は、上の他者危害の原則など考慮してないので、近代ではそれに従って読み直す必要性がある。

しかし、わいせつ関連は、そこが……

この安易なお助けマンである「伝統」にたよると、たとえば最近話題の同性婚とか、論理上それとまったく同一の地平、延長線上にある近親婚、複婚なども「伝統がそれを認めない」でファイナルアンサーになるので困ったものです。


そもそもわいせつ表現は、憲法の「表現の自由」に含まれていないからだ、というのが長谷部恭男氏の講演禄にあるそうだが、個人的には「???」と、トテモじゃないが腑に落ちない意見でした。

Q: 憲法21条では「一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されていますが、わいせつ表現や名誉毀損表現、犯罪の煽動などは刑罰の対象とされています。実際には「一切の表現の自由」が保障されているわけではないことは、誰もが知っていることです。この事態を説明するためには、憲法12条や13条を援用する必要があるのでしょうか。
 つまり、憲法の保障する権利は、国民は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(憲法12条)という条項や、国民の権利は、「公共の福祉に反しない限り」において「最大の尊重を必要とする」(憲法13条)という条項を援用しない限り、わいせつ表現や名誉毀損表現が制約されていることは、正当化できないのではないか、ということですが。

A: 憲法の定期試験で不可をとりたくないのなら、そんなことは答案に書かない方がいいでしょう。あなた自身の身のためになりません。

Q: なぜですか? 筋は一応通っていると思うのですが。

A: 現在の憲法学の標準的な解釈では、わいせつ表現、名誉毀損表現、犯罪の煽動などは、そもそも憲法21条の保護範囲に入っていません。つまり「一切の表現の自由」と言われる「表現」には、わいせつ表現、名誉毀損表現、犯罪の煽動は、はじめから含まれていないわけです。ですから、これらの活動が刑罰の対象となっていることは、保護された表現の「制約」にもあたりません。したがって「制約」を「正当化」する必要もありません。憲法学の標準的な理解である三段階審査からすれば、当然に出て来る結論です。
 この種の表現活動が禁止されていることを「正当化」すること必要自体、そもそもないわけですから、「正当化」のために他の条文を引き合いに出す必要も、もとからないということになります。これは、詐欺や恐喝も表現活動だから、憲法21条で保護されているはずだという議論に対応する必要がないのと同じです。常識を備えた人なら、議論するまでもなく、当然分かるはずのことです。
 それから、千歩譲って、かりに表現の自由が本当に制約されていて、その正当化が必要だとしても、広く法的意味はないと受け取られている12条は問題外でしょう。議論する必要がかりにあるとしても、まあ13条でしょうね。

Q: その13条ですが、通説とされる宮沢俊義先生の提唱された「内在的制約説」からすると、憲法13条で言う「公共の福祉」がすべての基本権の制約を説明できるということだったと思いますが。

A: 40年以上前の学説ですね(宮沢俊義憲法Ⅱ』〔第2版〕が刊行されたのは、1970年である)。憲法訴訟論以前のancient historyに属する学説で、その宮沢説が現在においても通説であるかと言えば、そうではないでしょう。深刻な問題をいろいろと抱えている学説でもありますから。たとえば、わいせつ表現の禁止を人権相互間の衝突の帰結として説明するのは無理ではないかとか。
 でも、ここも千歩譲って、かりに宮沢説が正しいとしても、やはり13条があってはじめて基本権の制約が説明できるということにはなりません。宮沢先生の内在的制約説は、憲法13条の言う「公共の福祉」とは、「各人の人権の享有およびその主張に対して、なんらかの制約が要請されるとすれば、それはつねに他人の人権との関係においてでなくてはならない。人間の社会で、ある人の人権に対して規制を要求する権利のあるものとしては、他の人の人権以外には、あり得ない」(憲法Ⅱ229頁)という主張から出発します。そして、この人権相互間に生ずる「矛盾・衝突の調整をはかる」ための「実質的公平の合理」が「公共の福祉」に他ならないという議論でした。
 この議論の筋道からすれば…(後略)
www.hatorishoten-articles.com




ちなみに残虐表現でも似た部分はあって…
お、はてブでその関連に触れてるのあった

じゃあ大真面目に公共の福祉と表現の自由の話をするよ

わいせつ関連には175条があるとしても、死体や排泄物の写真を皆の目に入る場所に展示したとしても表現の自由(『他者を不快にして我慢させる権利』)として認められるってこと?

2022/07/04 08:50
b.hatena.ne.jp


ドリフターズがギャグとして「人形をギロチンにかけて”首チョンパ”する」というネタをテレビ放送したところ、ものすごい抗議があってすぐ中止となった。
これは抗議の範囲で済んだが、「人形の首をギロチンで切り落とす」も他者危害の原則からいえば、特に他者に危害を及ぼさない。

もっと確信犯が、たとえば人間の惨殺シーンの映像(本物かギミックかは問わない)と大きな看板にして、大勢の子供の通る通学路に置いたら(「これが戦争の真実です。次代を担う子供たちにこそ知ってほしい」なんて理屈をつけたりネ)、…最終的には新しい法律上の規制にまで至るのではないか。


これは、おいしい肉をいただくための「屠畜」の映像だって。
屠畜が必要欠くべからざる、尊敬すべき行為であることは無知にして無恥な「行き過ぎたヴィーガン論」を除いてはほぼ完全なコンセンサスがあろう(穏健、理性的な中道のヴィーガン論ももちろんある)。

それでも、屠畜など、人間以外の生き物(特に哺乳類)の命を奪う光景をどーんと不特定多数に映像として見せる行為は…もちろん祝祭の犠牲羊や魚の生け造りのように、それを多くの人に見てもらう文化もあるで。


しかし、これも四捨五入すると「あまり公衆の目に入れるな」がひろく世界的な感覚じゃないだろうか。
m-dojo.hatenadiary.com

「出産の風景」だってことほぐべき生命の誕生なのだが「気持ち悪い!その光景を見たくない!」というひともいる。


他でいえば
・ガラスをこするような不快音(これは肉体的暴力とほぼ読めるから大丈夫か?)
・宗教的な礼拝所や聖なるシンボルへの不敬
・国旗国章への冒涜
・「景観」を守る条例

などが、他者(個人)危害の原則から読み解くとちょっと「?」のつく問題だと思うけど、ひとまずこれにて。