これは、ことし3月にSNSで書いて「あー、あとで元資料を探しておこう」と思った話。
ビキニアーマーがどうの、言う人は、女の子の鎧がビキニなのより、なんで本邦のファンタジーでは男が厚着なのかの謎を解いて欲しい。80年代ビキニアーマーのデザインは、あきらかにアメリカのファンタジーアート(フラゼッタとか…)の影響バリバリなのに、ムキムキ男の半裸は真似しなかった訳で。
— 開田あや (@ayanekotunami) March 9, 2022
別方向のヒント?を記憶で語れば、司馬遼太郎のベトナム紀行「人間の集団について」で、同国の芝居か映画のポスターを見ながら「アジアは中国も日本も含め、男性のヒーローで人気を得るのは”女性のような優男”であるなあ」と感心した…みたいな記述があったかと思います。https://t.co/2eJfLEXyXt pic.twitter.com/63tijGjiDS
— INVISIBLE DOJO (@mdojo1) 2022年3月9日
少し反響をいただいていますが、元の本は有名作家の著書であり、手元にある人も多いでしょう(自分も持ってる筈だが見つからず)し、図書館にも全集などあるはず。。興味ある人は、該当部分をご確認ください。(確かにこの本だと思うんだがなあ…)https://t.co/F1LpvblEW6
— INVISIBLE DOJO (@mdojo1) 2022年3月10日
この前、元テキストをあらためて調べた。該当部分あった。
美男の典型
サイゴンで芝居を見ようと思い、前売券を買った。前売券を買わねば入れないほど、芝居は人気がある。この国の芝居は、中国の辻芝居のようなものの伝統をひき、独自な発展はしていないらしい。京劇のような様式的なのから、こんにちふうの人情劇まであるが、その中間のものを観ようとおもった。
暗くなってから出かけたのだが、小屋の戸がおりていた。事情をきこうにも小屋の事務員がおらず、やむなく路上で夕涼みをしている人にきくと、「きょうは、やっていない」ということだった(略)仕方なしに、絵カンバンでもながめて気をやすめようとおもった。
小屋は文字どおりの小屋で、二百席ほどもあるかという程度の大きさである。「絵カンバンは芝居絵ではなく、人気俳優の顔の絵がかかげてある。いずれも美男美女だが、その美男のタイプはどれもこれも長谷川一夫、三波春夫型で、髪を七三にきれいになでつけ、色白、しもぶくれ、口もとやさしく目がぱっちりして、どこか薄化粧しているような感じである。
この点も、日本の農村に似ている。もっともおなじサイゴンでも、サイゴン大学の女子学生がこの絵カンバンのような顔を男前だとは想わないだろうが、しかしこの種の旧劇を見にくる層が、三後春夫さんの支持層に共通しているというのはおもしろく、日本の大衆の美意識が決して孤独でなく、隣りがあることをあらわしている。
戦前、長谷川一夫さんに熱中した層はいまは六十歳前後だろうが、その流し目の色気というのはなんともいえなかったそうだ。そういうのを美男の典型におくというのも、一つの文化意識である。
平安朝から室町期にかけてお公卿さんは化粧していた。江戸期では、村々の浄土真宗門の僧が説教の高座にのぼるときは白く化粧をしていたとかいうし、大正時代になっても、浄土真宗の巡回説教師のなかにはそういう人がまだいたという。それが、説教を者にくる婦人にとってたまらぬ魅力だったというのである。
芝居で義経や浅野内匠頭が出てくるときは白塗りであり、これに対して助六のような苦み走った男がいい男の新しい典型として出てくるには、江戸の都市文化の爛熟を待たねばならなかったのではないか。それでもなお、昭和三十年ごろまで東映の時代劇映画の二枚目は公卿さんのように白首で出ていた。こういう美男の典型の伝統というのは、古い時代、公卿さんや公家化した平家の人達といった雲上人へのあこがれから出たのだろうか。さらには浄土真宗の説教師が流難している貴種といった印象を説教場の婦人たちにあたえ、その系列が連綿とつづいてこんにちの三波春夫さんにいたっているのかと私は考えていたのだが、しかしどうやらこれは独断のようだった。サイゴンの妻町の芝居小屋の絵カンパンを見あげているうちに、独断はもろくもずれてしまった。(ベトナム人も、おなじじゃないか)
稲作農村を基盤にしている社会だからたがいにこのように似てくるのだろうか。-日本の農村では、一影に手の白いしなやかな若者が都会からきた男前という印象になっていた。色男金と力はなかりけり、という古い川柳があったほどだから、色男は田吾作のようにがっちりした体つきでなく非力なものなのだろう。狩猟・遊牧の社会ではそうはいかない。狩猟の集団を統率できる能力、獲物に対するすぐれた偵察能力、あるいは百発百中のみの上手といったような能力が若者のもつ性的な美しさにつながったはずだから、風にも耐えぬ優男というのは狩猟・遊牧の社会では男前とはなれなかったにちがいない。
稲作というのは、便利なものだ。
一定の勤労をすれば、あとは天候まかせで稲は勝手に育つのである狩猟社会が要求している人間の能力などは要らない。むろん箱作の世界にも、篤農家という能力者はいる。しかし驚農家は残念ながら性的慧力にはなりにくい。やはり発作社会ではクワを持てないお公知さんのようなのがいい男とされてきたのである。
日本人とベトナム人の似たところをあげればきりがないほどである。その一例が、右の美男の一典型だが、この点、社会主義国のハノイではどうなっているのだろうか。
女性的な風貌の男性キャラクターが一番「美男」として扱われるというと…老害的というかジャンプ脳的にはこういう発想しか出てこないわけだが
さすがに「男塾 飛燕」で探してもキャラクターグッズがでてこない(笑)
それはともかく、そもそも司馬遼太郎氏の、このベトナムの芝居小屋…どころか芝居小屋の看板をぼーっと見つめて出てきた直感的考察、そもそも前提条件は正しいんでしょうかね。
今とは情報の流通量が各段に違う時代、データをそろえるのもままならなかっただろう。
「女性的な風貌、優男が美男の典型とされるのはアジア農耕社会特有の文化事象」なのかどうか…ともかく、司馬遼太郎はこう言ってる、の資料として。
追記 同年8月のツイート
男の娘の歴史を遡るとヤマトタケルあたりが始まりじゃないかと思う訳ですが、千年ちかく「女と見紛う」が美男子の枕詞で、能楽の女面とか歌舞伎の女形とか女性を演じることに価値の置かれる文化の産物なわけで。
— 司史生@停滞中 (@tsukasafumio) August 10, 2022
マッチョを称揚してきた欧米文化とその反動であるポリコレとは異質なのですな。
ブリギッドについての解釈違いとか、歴史的な文脈の欠如がその理由のひとつだと思いますね。
— 司史生@停滞中 (@tsukasafumio) 2022年8月10日
「色男金も力も無かりけり」という川柳なんかも、色男とは筋肉であるという価値感からは理解できないわけで。
欧米文化とまとめちゃいましたが、もちろん欧米の文化も一様ではないので、その辺の批判は甘受します。
— 司史生@停滞中 (@tsukasafumio) 2022年8月10日
どちらかというと20世紀以降の世界に大きな影響力を及ぼしたアメリカ大衆文化、その牽引車としてのハリウッド映画、そこらが想定対象ということで。